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{{基礎情報 軍人
|氏名= {{ruby|白瀬|しらせ}} {{ruby|矗|のぶ}}
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|画像= Nobu Shirase.jpg
|画像サイズ= 180px
|画像説明= 撮影時期未詳 潮出版社刊、横田順弥『明治の夢工房』より
|渾名= 白瀬中尉
|生誕地= [[出羽国]][[由利郡]][[金浦町|金浦村]]
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|軍歴=
|兵科= [[騎兵]]、[[輜重兵]]
|最終階級= [[File:帝國陸軍の階級―肩章―中尉.svg|40px]] [[
|勲章=
|出身校=
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|親族=
|除隊後=
|墓所= [[瀬門神社]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/seisan/sei016.htm|title=白瀬南極探検隊長の墓|accessdate=2021-12-19|publisher=愛知県総合教育センター}}</ref>
|署名=
}}
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'''白瀬 矗'''︵しらせ のぶ、[[1861年]][[7月20日]]︵[[文久]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]{{sfn|井上|2012|p=20}}︶- [[1946年]]︵[[昭和]]21年︶[[9月4日]]︶は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[南極]][[探検家]]。最終[[軍隊の階級|階級]]は[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[輜重兵]][[中尉]]。[[幼名]]は'''知教'''︵ちきょう︶{{sfn|綱淵|1990|p=23}}。 ﹁白瀬中尉﹂と呼ばれることが多い<ref>{{Cite web|和書|title=秋田︶白瀬中尉の記録フィルム、鮮明に にかほで上映会 : 朝日新聞デジタル|url=https://www.asahi.com/articles/ASK8K3S61K8KUBUB002.html|website=|accessdate= == 生涯 ==
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[[文久]]元年︵[[1861年]]︶、[[出羽国]][[由利郡]][[金浦町|金浦村]]︵現在の[[秋田県]][[にかほ市]]︶出身{{sfn|井上|2012|p=20}}。浄蓮寺の[[住職]]、白瀬知道・マキエの長男として生まれた{{sfn|綱淵|1990|p=23}}。 南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代 8歳︵数え年だと9歳{{sfn|綱淵|1990|p=23}}︶の頃に、[[平田篤胤]]の高弟ともいわれる医師で[[蘭学者]]︵[[漢学者]]とも︶の佐々木節斎の[[寺子屋]]に入る{{sfn|井上|2012|p=26}}。佐々木は読み書き[[ソロバン]]や[[四書五経]]を教え、その他にも[[クリストファー・コロンブス|コロンブス]]や[[フェルディナンド・マゼラン|マゼラン]]の[[地理]]探検、そして[[ジョン・フランクリン]]隊の[[遭難]]︵[[フランクリン遠征]]︶などの話を聞かせた{{sfn|井上|2012|pp=104-106}}。白瀬は11歳の頃に佐々木より[[北極]]の話を聞き、[[探検家]]を志すようになる{{sfn|綱淵|1990|p=23}}{{sfn|井上|2012|p=26}}。 43 ⟶ 44行目:
#[[タバコ|煙草]]を吸わない
#[[茶]]を飲まない
#
#寒中でも火にあたらない
白瀬は18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされる{{sfn|井上|2012|p=25}}。 52 ⟶ 53行目:
明治14年︵[[1881年]]︶4月、教導団騎兵科を卒業し{{sfn|秦|2005|p=83}}、[[輜重兵|輜重兵科]]に転科して、[[伍長|陸軍輜重兵伍長]]として[[仙台鎮台]]・輜重兵第2大隊付となり{{sfn|秦|2005|p=83}}、[[仙台]]に赴任した。明治15年︵[[1882年]]︶、宇都宮で行われた大[[軍事演習|演習]]に[[騎兵]]として参加し、[[児玉源太郎]]と出会った{{sfn|井上|2012|p=27}}。 明治20年︵[[1887年]]︶、仙台市二日町の海産問屋の娘﹁やす﹂と結婚した{{sfn|井上|2012|p=28}}。[[曹長|陸軍輜重兵曹長]]、[[准士官|下副官]]と進級し、明治25年︵[[1892年]]︶、[[予備役]]に編入されると同時に士官適任証を授与された{{sfn|秦|2005|p=83}}。 明治23年︵[[1890年]]︶、仙台で児玉源太郎と再会し、[[北極]][[探検]]への思いを伝えた。すると児玉に﹁落ち着け﹂と一蹴され{{sfn|井上|2012|p=28}}、更に﹁[[書生]]論的空理空論だ﹂などと断言されたが、﹁北極探検を志すなら、まず[[樺太]]や[[千島]]の探検をするように﹂と薦められた{{sfn|井上|2012|p=28}}。 児玉の助言に従って千島探検を志すようになり、明治26年︵1893年︶、[[郡司成忠]]{{efn2|[[幸田露伴]]の兄である。}}海軍大尉が率いる[[千島]]探検隊︵[[千島報效義会]]︶に加わる{{sfn|井上|2012|p=29}}。探検隊は千島に到着するまでの間に、暴風雨による[[遭難]]で19名の死者を出したが、[[千島列島]]に到着した。[[捨子古丹島]]に9名、[[幌筵島]]に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は、同年8月31日、最終目的地である[[占守島]]に到着、同島で越冬した{{sfn|井上|2012|p=31}}。 明治27年︵[[1894年]]︶の5月、幌筵島の1人が[[壊血病]]で死亡した。さらに6月に占守島へ寄港した軍艦﹁[[磐城 (砲艦)|磐城]]﹂から﹁捨子古丹島の9名の内4名[[死亡]]、5名[[行方不明]]﹂との情報が伝えられる{{sfn|井上|2012|p=32}}。 76 ⟶ 77行目:
[[船]]の調達も難航し、予算も2万5千円程度だったため、残金も十分ではなかった。最終的には[[千島]]探検で険悪の仲となっていた[[郡司成忠]]に頭を下げ、積載量<!-- がわずかに -->204トンの木造帆[[漁船]]を買い取り、[[中古]]の[[蒸気機関]]を取り付けるなどの改造をした。この船は、[[東郷平八郎]]によって﹁'''[[開南丸]]'''﹂と[[命名]]された。[[極地]]での輸送力は29頭の[[犬]]だった。 同年[[7月5日]]、[[神田 (千代田区)|神田]]で南極探検発表演説会を開催した。当日中に南極探検後援会が組織され、幹事に[[三宅雪嶺]]、[[押川方義]]、桜井熊太郎、村上濁浪{{efn2|本名・俊蔵 。雑誌﹃成功﹄を刊行する﹁成功雑誌社﹂主幹<ref>[ 同年[[11月29日]]、開南丸は[[芝浦]][[埠頭]]を出港したが、[[航海]]中にほとんどの犬が原因不明で死んだ{{efn2|後に、[[寄生虫症]]と判明した。}}。さらに、白瀬と書記長の多田恵一、[[船長]]の野村直吉と他隊員との間に不和が起こった。 89 ⟶ 90行目:
[[ファイル:Yamato Snowfield.JPG|thumb|250px|大和雪原にて皇居を遥拝する白瀬隊︵中央の人物が白瀬矗。右は武田輝太郎、左は三井所清造︶<ref>{{Cite | 和書 | title = 南極探検 | last = 白瀬 | first = 矗 | publisher = [[博文館]] | date = 1913-01-22 | page = [{{NDLDC|980822/8}} 口絵] | id = {{NDLJP|980822}} | doi = 10.11501/980822 }}</ref>]] 同年[[1月28日]]、帰路の食料を考え、[[南緯]]80度5分・[[西経]]156度37分<ref>﹃[[山と溪谷]]﹄2018年3月号、[[山と溪谷社]]、19頁。</ref><ref>{{Cite web 白瀬ら突進隊数名は上陸地点付近での[[気象]]観測、開南丸は[[ロス湾]]周辺の調査を行い、付近の湾を﹁[[大隈湾]]﹂﹁[[開南湾]]﹂と命名した。なお、これらの地は氷上であり大陸ではない。 100 ⟶ 101行目:
ウェリントンに戻ると、白瀬隊の内紛は修復できないほど悪化しており、{{いつ範囲|白瀬と彼に同調するもの4人は、開南丸ではなく[[貨客船]]で日本に帰ってきた|date=2020年4月}}{{sfn|井上|2012|p=82}}。他の者は、開南丸に乗って6月18日に[[館山湾|館山]]に到着し、6月19日に[[横浜市|横浜]]へ[[回航]]、そして、6月20日に出発地である[[芝浦]]へ帰還した{{sfn|井上|2012|p=83}}。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には[[早稲田大学|早大]]生を中核とした学生約5,000人が[[提灯]]行列を行った{{sfn|井上|2012|p=83}}。 {{要検証範囲|[[南極]]へ出発する当初、日本国中で﹁小さな[[漁船]]で南極へ向かうのは無謀﹂などと散々な罵声や嘲笑があった|title=﹁南極探検隊の結成と出発﹂の記述と矛盾しています。|date=2020年3月}}ものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸いた。白瀬も[[大正天皇|皇太子]] === 晩年 ===
帰国後、後援会が資金を [[昭和]]11年([[1936年]])、東京科学博物館(現・[[国立科学博物館]])で「南極の
昭和12年([[1938年]])、
昭和21年︵[[1946年]]︶[[9月4日]]、[[愛知県]]西加茂郡挙母町︵現・[[豊田市]]︶の、白瀬の次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室で死去した。[[享年]]85。 == その他 ==
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* 昭和45年︵[[1970年]]︶に、[[日本人]]として初めて、男性2人と共に小型[[ヨット]]による[[世界一周]][[航海]]を達成した﹁白瀬京子<ref>[[毎日新聞]]・[[東京]]版︵[[夕刊]]︶ 昭和45年︵[[1970年]]︶[[8月22日]] 1面﹃[[日本人]][[ヨット]]、初の[[世界一周]] : 女性含め三人、元気に﹄。</ref>{{efn2|京子だけは、[[アルゼンチン]]の[[ブエノスアイレス]]から[[マゼラン海峡]]を通航して[[チリ]]の[[バルパライソ]]までの間はヨットに乗船せず、[[アンデス山脈]]を越えてバルパライソへ陸路を移動した。このため、正確には京子はヨット世界一周は達成していない。}}﹂は、白瀬の弟の孫である<ref>毎日新聞・東京版︵夕刊︶ 昭和45年︵1970年︶8月22日11面﹃よくぞ[[冒険]]の[[血筋]] : ﹁白鴎号﹂の白瀬京子さん﹄。</ref>。京子は﹁[[白瀬南極探検隊記念館]]﹂の初代館長に就任したが、平成2年︵[[1990年]]︶、開館の9日前に死去した<ref>毎日新聞・東京版︵[[朝刊]]︶ 平成2年︵[[1990年]]︶[[4月14日]] 27面﹃[[訃報]] : 白瀬京子さん︵しらせ・きょうこ=[[白瀬南極探検隊記念館]]館長︶﹄。</ref>。 * ﹁[[秋田ふるさと村]]﹂︵[[秋田県]][[横手市]]︶の[[マスコットキャラクター]]である、[[秋田犬]]の﹁ノブ君﹂の名前は白瀬に由来する<ref>“[http://www.akitafurusatomura.co.jp/pages/page/about-furusatomura#character 秋田ふるさと村とは. キャラクター紹介]”. [[秋田ふるさと村]]。 2020年5月2日閲覧。</ref>。 * [[南極観測船]]﹁しらせ﹂︵[[しらせ (砕氷艦・初代)|初代]]・[[しらせ (砕氷艦・2代)|2代]]︶の[[艦名]]は﹃白瀬矗﹄に因んでいるという認識が多いが、旧海軍の時代から慣例的に艦名を人名に因むことは避けられており、自衛艦の命名基準からも人名は外されていることからそのまま採用することはできず、公式には白瀬を記念した地名である﹁[[白瀬氷河]]﹂を由来としている<ref>“[http://polaris.nipr.ac.jp/~academy/science/shirase/shirase01.html 世界有数の砕氷船﹁しらせ﹂]”. [[国立極地研究所]]. 2013年11月26日閲覧</ref><ref>“[http://www.clearing.mod.go.jp/kunrei_data/a_fd/1960/ax19600924_00030_000.pdf 海上自衛隊の使用する船舶の区分等及び名称等を付与する標準を定める訓令 別表第2自衛艦の名称等を付与する標準]”(PDF). [[海上自衛隊]] [[訓令]]第30号. 2013年11月26日閲覧</ref>。 * [[愛知県]][[西尾市]][[吉良町]]に「南極探検隊長 [[大和雪原]]開拓者之墓」の[[墓碑]]がある。▼
* [[秋田県]][[にかほ市]]に「[[白瀬南極探検隊記念館]]」がある。
* 白瀬が明治45年︵[[1912年]]︶[[1月28日]]に[[大和雪原]]に到達したことを記念し、毎年1月28日に、白瀬の出身地である[[にかほ市]]金浦地区で﹁白瀬中尉をしのぶ集い﹂が開催され、約2.5キロメートルの﹁雪中行進﹂を行っており、令和2年︵2020年︶1月28日で第53回を数える<ref name=":1" /><ref name=":2" /><ref>{{Cite web|和書|title=今年で49回目! にかほ市・金浦地域の﹁白瀬中尉をしのぶ集い﹂|url=http://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/|website=あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト|accessdate=2020-02-13|language=ja|publisher=[[秋田県]]|date=2016-2-9|archiveurl=https://web.archive.org/web/20200213084056/https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/blog/?p=41989|archivedate=2020-2-13}}</ref>。 <gallery caption="愛知県西尾市吉良町 西林寺にある墓、スクリュープロペラと略歴" widths="170px" perrow="3">
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The information board of Sirase Nobu.jpg|白瀬矗隊長略歴
</gallery>
== 栄典 ==
* [[1905年]](明治38年)[[11月30日]] - [[瑞宝章|勲七等瑞宝章]]<ref>『官報』第6729号「叙任及辞令」1905年12月4日。p119</ref>
== 著書 ==
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* {{Cite journal |和書 |date=1936-07 |title=南極探検の今昔 |journal=自然科学と博物館 |issue=79 |pages=8-11 |publisher=国立科学博物館 }}
* {{Cite book |和書 |title=私の南極探検記 |date=1942-11 |publisher=皇国青年教育協会 }}
* {{Cite book |和書 |author=
* {{Cite book |和書 |author=
* {{Cite book |和書 |title=南極に立った樺太アイヌ 白瀬南極探検隊秘話 |date=2004-06 |publisher=東洋書店 |series=ユーラシア・ブックレット no.64 |isbn=9784885955099 |ref={{Harvid|佐藤|2004}} }}
* {{Cite book |和書 |editor=
* {{Cite book |和書 |title=日本南極観測50周年記念 ふしぎ大陸南極展2006 |date=2006 |publisher=朝日新聞社 }}
* {{Cite book |和書 |author=井上正鉄 |title=日本南極探検隊長 白瀬矗 |date=2012-03 |publisher=成山堂書店 |series=極地研ライブラリー |isbn=9784425570317 |ref={{Harvid|井上|2012}} }}
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== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
* [http://shirase-kinenkan.jp/ 白瀬南極探検隊記念館公式ホームページ]
* [
* {{Wayback |url=http://shirase100.org/ |title=NPO法人 白瀬南極探検100周年記念会 |date=20190122001404 }}
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