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'''真山 青果'''︵まやま せいか、旧字体‥ == 来歴 ==
[[宮城県]][[仙台市]]<ref name=":0" />裏五番町三番地に生まれる。父・寛は旧[[伊達藩]]士の[[士族]]で小学校の校長だった。1895年[[宮城県仙台第一高等学校|宮城県尋常中学校]]を中退<ref name=":0" />。1896年に上京し<ref name=":0" />、1897年日本中学校を卒業<ref name=":0" />。同年、[[第二高等学校 (旧制)|第二高等学校]]医学部に入学するも、小説や詩の習作に熱中して落第<ref name=":0" />。1904年、[[佐藤紅緑]]に師事し﹁青果﹂の号を与えられる<ref name=":0" />。翌年には[[小栗風葉]]門下となる<ref name=":0" />。1907年、仙台市に近い農村を舞台とした農民文学の﹃南小泉村﹄︵﹁[[新潮]]﹂1907年5月号︶で注目されるも<ref name=":0" />、1908年原稿二重売り事件を起こす<ref name=":0" />。同年、[[国木田独歩]]の通夜の席上での口論が原因で風葉から絶交される<ref name=":0" />。1911年、再び原稿二重売り事件を起こし、仕事が減少する<ref name=":0" />。 1913年、[[喜多村緑郎 (初代)|喜多村緑郎]]から新派脚本を勧められ、[[松竹]]に入社<ref name=":0" />。以来、新派脚本をはじめとした戯曲を手がけた。1932年に[[暉峻康隆]]が、1934年に[[野間光辰]]が研究助手として青果を助けた<ref name=":0" />。 46行目:
== 評価 ==
{{出典の明記| section = 1| date = 2022-11}}
﹃[[元禄忠臣蔵]]﹄は[[新歌舞伎]]で連作という体裁で複数年かけて連続公演された力作だった。但し、史実と全く異なる演出がされ、多くの批判を浴びた。例えば第十編﹁大石最後の一日﹂において[[大石良雄]]は皆の切腹を見届けた後、最後に切腹している内容だが、史実では最初に切腹している<ref>﹃敗者の日本史15赤穂事件と四十六士﹄︵吉川弘文館 2013︶ p127</ref>。また第五編﹁御浜御殿綱豊卿﹂は[[富森正因]]が一介の浪人なのに、将軍になる前の徳川綱豊と対面して、槍で襲い掛かるという突飛な内容である。 癇癪持ちの真山は批判に対し激怒し反論したが、あまりに史実とかけ離れた筋立てへの不満を覆すには至らなかった<ref>﹃青果全集 第1巻﹄︵講談社、復刊1975年︶</ref>。真山は識者や大衆の批判に遂に屈し、﹁戦争が終わったら書き直したい﹂と娘に語ったという<ref>宮澤誠一﹃近代日本と﹁忠臣蔵﹂幻想﹄より﹁真山の忠臣蔵・その一、その二﹂</ref>。 一方で『随筆滝沢馬琴』は、「所謂る學者が一向に云つてはくれぬことを、能くずばりと云ひのけてくれた快感に充ち滿ちた」好著だという<ref>『文藝徃來』(1949.3)より、日夏耿之介「眞山青果の隨筆馬琴論」</ref>。同書は初めて[[曲亭馬琴]]の全体像を捉えた評論である。
ほかに『平将門』など多数がある。[[井原西鶴]]の研究もある。
==作品==
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