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'''石井 露月'''︵いしい ろげつ、[[1873年]]︵[[明治]]6年︶[[5月17日]]︶ - [[1928年]]︵[[昭和]]3年︶[[9月18日]]︶は、日本の[[俳句|俳人]]。本名は祐治。 == 経歴・人物 ==
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塞ぎ込む露月に心を痛めた友人の計らいで、次に[[正岡子規]]を訪ねることになった<ref name="先覚p155">﹃秋田の先覚2﹄p.155</ref>。面談の結果、子規とは相認め合うこととなり、新聞﹁小日本﹂、次いで新聞﹁[[日本 (新聞)|日本]]﹂の記者となって子規に師事した<ref name="先覚p155" />。子規は露月に対し文章のみならず句作についても懇切丁寧に教え導き、露月は本格的に俳句を学ぶようになった<ref name="秋田人名大事典" /><ref>﹃秋田の先覚2﹄p.156</ref>。しかし折角これ以上はない師に巡り会ったところで再び脚気を発病し、上京からわずか1年後の[[1894年]]︵明治27年︶秋、帰郷療養せざるを得なくなった<ref>﹃秋田の先覚2﹄pp.156-157</ref>。 郷里での生活で露月は健康を回復するが、このころ文士から医業へと志を変えている<ref>﹃秋田の先覚2﹄p.157</ref><ref group="註釈">この志望変更について、露月は手記に自らの煩悶の深さは記しているが、原因について直截には記していない。露月研究者は、文学で身を立てることの困難を悟ったからであろうと述べている︵﹃秋田の先覚2﹄pp.157-158︶。</ref>。[[1895年]]︵明治28年︶、子規にこのことを打ち明けると、露月の才能を高く評価していただけに子規は呆然として、翻意を促すが徒労であった<ref>﹃秋田の先覚2﹄p.158</ref>。露月は郷里で座学の勉強を行い、[[1896年]]︵明治29年︶医師前期試験に合格、新聞﹁日本﹂に在籍しながら[[済生学舎]]で実技の勉強を行い、[[1898年]]︵明治31年︶4月医師後期試験に合格する<ref name="先覚p158p159">﹃秋田の先覚2﹄pp.158-159</ref>。受験勉強の間も句作には精励し、子規に見てもらっていた<ref name="先覚p158p159" />。子規は﹁漢語が多く雄壮警抜﹂な露月の句風を好んだようで<ref>﹃秋田大百科事典﹄p.78</ref>、[[1897年]]︵明治30年︶の新聞﹁日本﹂に連載した俳句評論では、[[河東碧梧桐|碧梧桐]]、[[高浜虚子|虚子]]、[[内藤鳴雪|鳴雪]]の次に露月を取り上げ、﹁碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす﹂と評している<ref>﹃秋田の先覚2﹄p.160</ref>。 露月は医師後期試験後の[[1898年]]︵明治31年︶7月に帰郷し、一時秋田市内の新聞社に在籍して文を書きながら、県内俳壇の様子を子規に報告したりしていた<ref name="先覚p165">﹃秋田の先覚2﹄p.165</ref>。俳誌﹁[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]﹂の全国的な拡張を目論んでいた子規は、遊軍となって協力することを露月に求めた<ref name="先覚p165" />。ちょうどその折り、[[1898年]]︵明治31年︶8月、既に同人・北斗吟社を設立して俳誌﹁北斗﹂を発行し秋田県内で活躍していた[[日本派]]の俳人[[佐々木北涯]]、[[島田五空]]らと知り合い、句会に出て互いに刺激を与え合った<ref name="先覚p165" />。 露月は医師としての臨床実習のため、[[1899年]]︵明治32年︶の5月から10月まで[[京都市]]・東山病院の医員を務める<ref>﹃秋田の先覚2﹄p.159</ref>。実習が終わり秋田へ帰るまでの間、一時東京に寄るが、碧梧桐、虚子、鳴雪、[[寒川鼠骨|鼠骨]]らの東京の俳友はこれを歓迎して、また、じきに郷里へ帰る露月との別れを惜しんで、句会はもとより、闇汁会、柚子味噌会などを催した。子規も病を押してこれらに参加している<ref>﹃秋田の先覚2﹄pp.159-160</ref>。 [[1899年]]︵明治32年︶暮れ、露月は帰郷し、自村・[[戸米川村]]︵とめかわむら︶と隣村・[[種平村]]の村医となった<ref name="先覚p162">﹃秋田の先覚2﹄p.162</ref>。村医としての露月は病人の求めに応じ昼夜を問わず精勤したが<ref name="秋高百年史p62" />、そのかたわら句作にも精を出し、頻繁に子規に句を送っていた<ref>﹃秋田の先覚2﹄p.160</ref>。また秋田県内の俳人とも交友を重ね、[[1900年]]︵明治33年︶、北涯、五空とともに新たな俳誌を刊行することになった<ref name="先覚p166">﹃秋田の先覚2﹄p.166</ref>。これを聞いた子規は欣喜し、誌名を﹁俳星﹂と名付けた<ref name="先覚p166" />。﹁俳星﹂の創刊号には、碧梧桐、虚子、鳴雪、[[佐藤紅緑|紅緑]]らの日本派の俳友や、同時代に秋田県内で活躍した俳人[[安藤和風]]らが句を寄せている<ref name="先覚p166" /><ref group="註釈">その後﹁俳星﹂は一時休刊したこともあったが、長く東北地方における日本派俳句の拠点となり、後世まで引き継がれている︵﹃秋田大百科事典﹄p.406︶。</ref>。 34行目:
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[[Category:19世紀日本の俳人]]
[[Category:20世紀日本の俳人]]
[[Category:日本新聞社の人物]]
[[Category:日本の医師]]
[[Category:秋田県の市町村議会議員]]
[[Category:秋田県出身の人物]]
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