「石井露月」の版間の差分
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[[1901年]]︵明治34年︶露月は妻を娶り、医院も新築、生活の基盤は固まるが<ref name="先覚p162" />、このころ子規の病状はいよいよ革まり、翌[[1902年]]︵明治35年︶9月、不帰の人となる<ref name="先覚p161">﹃秋田の先覚2﹄p.161</ref>。露月は悲嘆にくれたが<ref name="先覚p161" /><ref group="註釈">露月は終生子規を慕い続け、[[1916年]]︵大正5年︶には村の玉龍寺で子規忌を、[[1924年]]︵大正13年︶には自宅で子規の二十三回忌を営み、また[[1927年]]︵昭和2年︶に五空らと[[吉野]]巡りをした帰途には東京の子規庵を訪れ、懐かしさに滂沱と涙したという︵﹃秋田の先覚2﹄p.161、﹃秋田大百科事典﹄p.406︶。</ref>、一方でこのころから、貧困に疲弊した村の生活指導を行うようになる<ref>﹃秋田の先覚2﹄pp.162-163</ref>。[[1903年]]︵明治36年︶﹁女米鬼文庫︵のちの露月文庫︶﹂を創設、[[1906年]]︵明治39年︶村の青年会を組織して青年団長となり、[[1908年]]︵明治41年︶からは没するまで20年にわたり村会議員を務め、夜学会や農事品評会などを通じての村民の指導や村政の刷新に尽力した<ref>﹃秋田の先覚2﹄pp.163-165</ref>。 露月は﹁俳星﹂のほかにも﹁瓦川﹂﹁三峨﹂﹁雲蹤﹂などの刊行にかかわり、後進の指導も行うなど俳壇に大きな影響を残したが<ref>﹃秋田大百科事典﹄p.79</ref>、[[1928年]]︵昭和3年︶9月18日、[[秋田市立戸米川小学校|戸米川小学校]]で校長転任の送別会に出席し、送辞を述べている際に倒れ、自宅へ運ばれたが[[脳出血|脳溢血]]で死去した<ref name="秋高百年史p62" /><ref>[[工藤寛正|岩井寛]]﹃作家の臨終・墓碑事典﹄︵東京堂出版、1997年︶25頁</ref>。戒名は玄龍院超雲露月居士。 == 註釈 ==
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