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'''石原 慶幸'''('''いしはら よしゆき'''、[[1979年]][[9月7日]] - )は、[[岐阜県]][[安八郡]][[墨俣町]](現・[[大垣市]])出身の[[広島東洋カープ]]所属の[[野球選手|プロ野球選手]]([[捕手]])。
== 来歴 ==
=== プロ入り前 ===
[[岐阜県立岐阜商業高等学校|県岐阜商高]]では高校通算60本塁打を記録し、3年夏の甲子園で1回戦敗退、その後[[東北福祉大学|東北福祉大]]に入学し、大学3年時に大学日本代表・[[シドニーオリンピック野球日本代表]]候補に選出される。[[2001年]][[ドラフト会議|ドラフト]]4巡目指名で[[広島東洋カープ]]に入団する。▼ [[岐阜県立岐阜商業高等学校|県岐阜商高]]では、2年夏に[[第78回全国高等学校野球選手権大会]]に出場。2回戦で[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]とあたって敗退。3年夏にも[[第79回全国高等学校野球選手権大会]]に出場し、甲子園自身初安打も放ったが、1回戦で敗退した。高校通算60本塁打を記録している。 ▲ [[2003年]]シーズン頃から一軍出場機会が増え、[[2004年]]には持ち前の強肩と向上した打撃で正捕手の座を勝ち取る。またシーズン通算4本塁打のうち、2本が満塁、2ラン・3ランが1本ずつと良い場面でのホームランが多かった。▼ === プロ入り後 ===
;[[2002年]]
10月以降の5試合の出場にとどまったが、初出場の対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦で、この年最優秀中継ぎ投手賞を受賞した[[石井弘寿]]から初安打を放った。
;[[2003年]]
▲ ;[[2004年]]
安定感を増した打撃が評価され、西山から正捕手の座を勝ち取った。
;[[2005年]]
オープン戦でファールを打った際に左手[[有鈎骨]]を骨折し、春先は出場できなかった。5月末に復帰後はスタメン捕手として起用されたが、打撃で足踏み状態が続き、目立った活躍は[[8月2日]]の対[[読売ジャイアンツ|読売]]戦でサヨナラ打を打った程度であった。守備でも[[8月9日]]の対[[ヤクルト]]戦で、振り逃げの[[リック・ガトームソン|ガトームソン]]に気を取られ、三塁走者[[アダム・リグス|リグス]]に背を向けて一塁に緩慢な送球を行っている間に、俊足のリグスにホームインを許すなど精彩を欠いた。結局8月中旬以降は、自身の故障中に起用されていた[[倉義和]]に再び正捕手の座を奪われた。 ;[[2006年]]
倉と併用される形で捕手を務めた。この年は倉も不振であったが、石原も開幕直後こそ打撃好調であったが、得点圏打率は1割を下回るなど、結果を残すことが出来なかった。特に満塁では6打数4[[併殺打]]の無安打と勝負弱さが目立った。また[[5月31日]]の西武戦で[[スクイズ (野球)|スクイズ]]を敢行するも[[ウエスト]]され、ジャンプしたもののバットにボールが当たらず失敗に終わっている。[[8月12日]]の対読売戦では、前年に続きサヨナラ打を放っているが、信頼を掴むにはいたらなかった。[[9月7日]]の対[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦において、10回裏2死満塁打者[[佐伯貴弘]]の4球目に、31年ぶりとなる'''サヨナラ[[打撃妨害]]'''を犯した。この日は本人の誕生日で、レフトスタンドからも第一打席でハッピーバースデーの歌で祝福されただけに、何とも味の悪い誕生日になった。 ;[[2007年]]
前年に続き倉と併用される形が続いた。捕手としては信頼をつかみきれず、[[5月8日]]の対[[中日ドラゴンズ|中日]]戦では中継ぎ投手の負担軽減の為、ブルペンで投球練習を行った。登板はなかったが、今後も同様な場面があった場合の登板を示唆されている。[[5月26日]]、対[[福岡ソフトバンクホークス]]戦の同点の八回に、顔付近に来た球にのけぞって尻もちをつきながらも、三塁方向にスクイズ成功。この年チームの交流戦初勝利に貢献した。このスクイズを含め5月から6月までは打撃好調だったが、次第に倉の調子も上向き始め、8月にはスタメン捕手の座を譲ることも多かった。 ==プロフィール==
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