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|名称 = 神谷太刀宮神社
|画像 = [[File:Kamitani shrine, Kumihama, Kyotango 2019-08-12(1) sa.jpg||280px]]<br />神谷神社境内
|所在地 = [[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]小谷<ref name="京都の社寺建築212p"
|位置 = {{ウィキ座標2段度分秒|35|36|14|N|134|53|31|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title|name=神社}}
|祭神 = [[八千矛神]](神谷神社)<br />[[丹波道主命]](太刀宮)
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'''神谷太刀宮神社'''(かみたにたちのみやじんじゃ)は、[[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]の南西部にある[[神社]]。
もともとは別の由来をもつ'''神谷神社'''と'''太刀宮神社'''が合祀された2社一体の神社で、江戸時代までは﹁太刀宮︵たちのみや︶﹂と呼ばれ、明治期には久美浜地域の郷社として崇敬を集めた<ref name="京都の社寺建築212p">{{Harvnb|京都の社寺建築|1984|p=212}}</ref>。久美浜一区の氏神であり、21世紀においても﹁太刀宮﹂の通称で親しまれる<ref name="京丹後市F58"/>。秋の例祭は丹後地方を代表する祭礼のひとつに数えられる<ref name="熊野郡誌231p">{{ 神谷神社は、[[熊野郡]]に11座あった[[式内社]]のひとつ﹁神谷神社︵かみたにのじんじゃ︶﹂とされるが、この式内社が神谷太刀宮神社として太刀宮をも含むのか、神谷神社のみを対象としたのかは定かではない<ref>{{ == 概要 ==
[[File:Kamitani-tachinomiya 磐座.jpg|thumb|left|『鬼滅の刃』の主人公を真似て磐座でポーズをとる観光客(2020年12月)]]
丹後地方の古代史に深く関係する[[丹波道主命]]縁の神社である。[[丹波道主命]]の佩刀﹁国見の剣﹂を御神体とすることから、刀にまつわる伝承や寄進が多く残り、2020年︵令和2年︶に﹃[[鬼滅の刃]]﹄が大ヒットした折には、境内の磐座が﹃鬼滅の刃﹄主人公の炭治郎が修行で斬っていた岩に似ているとして、そのシーンを真似る観光客の急増を受け<ref name="読売20201206">{{Cite news|和書 |title=まるで﹁鬼滅﹂炭治郎が切った岩…﹁なりきれる﹂全国からファン もともとは太刀宮と神谷神社は別にあったが、久美浜町神谷︵かんだに︶の山林にあった神谷神社の倒壊に伴い、市中にあった太刀宮に合祀された<ref name="熊野郡誌231p"/>。式内社としては﹁神谷神社﹂の名で記録されるが、江戸時代まで呼称及び様々な古文書における通称は﹁太刀宮﹂であり、21世紀においても地元では﹁太刀宮﹂の愛称で親しまれる。久美浜一区の氏神であり、[[喧嘩祭り]]の流れを汲む秋の例祭は、京丹後市を代表する祭りの1つに数えられる。 31行目:
== 歴史 ==
[[File:Kamitani-tachinomiya 参道.jpg|thumb|江戸時代から変わらない道筋の参道。正面に八幡神社および磐座、鳥居手前の右に神谷神社が位置する。]] ﹁神谷神社﹂の創建は伝承に拠れば第10代[[崇神天皇]]の時代に遡る。地方平定を命ぜられた[[丹波道主命]]が[[山陰道]]を巡察した際に、前途洋々たることを祈願して[[出雲国]]から八千矛神︵[[大国主命]]︶を招き祀ったのが始まりとされる<ref name="熊野郡誌231p"/>。当初の遷座地は久美浜町小字神谷︵かんだに︶の山林の中に開けた平坦地であった<ref name="熊野郡誌231p"/>。この古地は﹁神谷明神谷﹂と呼ばれ、この地に残る﹁旗指神社︵はたさしじんじゃ︶﹂は、太刀宮の旗持ちであったという<ref name="京都府大事典府域編150p">{{ 山陰道巡察を終えた丹波道主命は、その後、久美浜町小字川上の須田に屋敷跡が残る豪族の娘、[[丹後七姫|京丹後七姫]]のひとりにも数えられる[[川上摩須郎女]]を妻とし、その娘[[日葉酢媛命|日葉酢比売]]ら5人を[[垂仁天皇]]に嫁がせて権勢をふるった、久美浜に縁の深い人物である<ref>{{ このとおり、神谷神社と太刀宮神社は元々まったく別々の神社であったところ、後に︵﹃熊野郡誌﹄によれば1千年後に︶神谷神社が歳月で大破したことを受けて、太刀宮に合祀された。以来、神社は﹁神谷太刀宮神社﹂となり、神社の扁額や祭器には﹁神谷太刀宮﹂と記されている<ref name="熊野郡誌299p"/>。合祀に際し﹁神谷﹂の名を先とし﹁太刀宮﹂を後 神谷太刀宮神社に関連する記録は『神祇志』『神祇志料』はじめ10以上の古文書に残り、年月日の明らかなものでは1596年(文禄5年)9月7日の佐渡守康之(城主の[[松井康之]])から田地を寄進されたことに関する文書<ref name="京丹後デジタル,神谷本殿"/>、1603年(慶長8年)8月20日の内匠助正重による太刀宮社領に関する文書などが残る。
古来から人々の崇敬を集め、﹃熊野郡誌﹄には正四位伊豫守加茂直兄︵松田直兄︶の﹁''千早ふる 神代なからの 神谷は うへこそくしく あやしかりけり''﹂や﹁''山なせる いはほの上に 五百枝さし そひえて雲を 凌く眞賢木''﹂など、神谷太刀宮神社を詠んだ7編の和歌が記録されている<ref name="熊野郡誌303p">{{ 1781年(天明元年)に本殿を再建したが、その折には1770年(明和7年)から久美浜町中の人々から毎月1銭を積み立て、神主宅に集まった氏子らの立ち合い評議のもと神宮のおみくじで「見附一丈一尺向作唐破風」の宮作とすることを決定した<ref name="京都の社寺建築212p"/>。
1873年︵明治6年︶、郷社に列せられる<ref name="熊野郡誌300p">{{ == 祭神 ==
[[File:道主命 Michinushi no mikoto 日本百将伝.jpg|thumb|200px|歌川国芳『日本百将伝』に描かれた丹波道主命(想像図)]]
神谷太刀宮神社は合祀されているが本来は由来を異にする別々の神社であり、祭神も異なる。
* '''[[大国主|八千矛神]]'''︵やちほこのかみ。大国主命の異名とされる。︶- 神谷神社の主祭神である。 * '''[[丹波道主命]]'''(たにはのみちぬしのみこと) - 太刀宮の主祭神である。
* [[天活玉命|天神玉命]](あめのいくたまのみこと)
* [[ ; 神霊「国見の剣」(くにみのつるぎ)
: 太刀宮の主祭神である丹波道主命が生前腰に佩いた剣を﹁国見の剣﹂と称し、太刀宮の神霊として祀ったが、現存していない<ref name="熊野郡誌300p"/>。[[如意寺 (京丹後市)|如意寺]]の建立にまつわる[[行基]]の記事に、﹁太刀宮の宝剣海中に沈没しあらん事を恐れ、漁夫に命じて網を以て探しむるに玉を得たり、依て宝珠山如意寺を起す﹂の記述が残り、奈良時代にはすでに紛失していたものとみられている<ref name="熊野郡誌300p"/>。 57 ⟶ 58行目:
=== 社殿 ===
[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (5).jpg|thumb|神谷神社本殿(府指定文化財)]]
* 神谷神社本殿 - (本項「[[#文化財|文化財]]」節で詳説)
*: 現存する本殿は、1781年︵天明元年︶に再建された<ref name="熊野郡誌300p"/>。建坪9坪3合但6尺5寸計<ref name="熊野郡誌304p">{{ * 祝詞殿 - 切妻造[[ヒノキ|檜]]材向欄付、檜皮葺。建坪は6[[坪]]1号9[[勺]] * 中門兼拝殿 - 切妻造[[ケヤキ|欅]]材、檜皮葺。建坪は2坪5号8勺 * 舞殿 - 梁行2間、桁行6間
* 假殿 - 梁行1間、桁行1間半
* 神庫 - 梁行1間半、桁行2間
=== 境内社 ===
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大正時代末期の文献と、2020年(令和2年)現在の現地案内板とで、境内社の名称にはいくつかの差異がみられるため、併記する。
; 1.『京都府熊野郡誌(全)』(大正12年刊行)の記録に残る境内社。
* 寒川神社 - 古くは久美浜の氏神とされた。祭神は[[応神天皇]] * 川裾神社 - この神社そのものの由緒は不明だが、1886年(明治19年︶に無格の3社を合祀した。祭神は[[瀬織津姫命]] * 蛭見神社 - 祭神は[[事代主命]]と[[大巳貴命]]。境内にあった有名な松の古木の近くにあったが、1885年︵明治18年︶に暴風によって松が倒れ、以後は松の古株の上に安置する。倒木が社殿を避けるように一切損傷しなかった奇蹟を後世に伝えるべく残る<ref name="熊野郡誌306p"/>。 * 稲荷神社 - 祭神は[[保食大神]]。もともとは別の場所にあったが、明治維新後に移転し、神谷神社境内の一端に祀られていた猿田彦神社とともに安置された ;2. 2020年時点で現地に建てられている案内図に記された境内社。
* 神谷神社側(市道より東)の境内
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* 八幡山側(市道より西)の境内
** 八幡神社(八幡宮)本殿
**: 祭神は[[応神天皇]]・[[神功皇后]]。[[久美浜代官所]]代官にとくに崇敬され、祭礼では代官所にも神輿が渡御した<ref name="熊野郡誌313p">{{ ** 厳島神社・弁天神社
** 秋葉神社
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=== 参考館 ===
[[File:Kumihama Kamitani jinja Sankokan 2019-05 ac.jpg|thumb|参考館(京都府指定文化財)]]
参考館は、1870年︵明治3年︶に建造された旧[[久美浜県]]の県庁舎の一部分、具体的には玄関棟にあたる部分を、1923年︵大正12年︶に譲り受け、神谷神社境内に移築したものである<ref name="京丹後デジタル,参考館">{{Cite web 京都府指定文化財となっている。(本項「文化財」節で詳述)
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参道の正面、大正期以前に敷設された市道によって境内が分断された神谷神社本殿の左方の八幡山山麓に、末社の八幡神社の本殿があり、その左方に複数の巨岩が地中から生えるようにむきだしになった磐座がある<ref name="京丹後市F58"/>。八幡神社側の境内坪数は大正時代末期の時点で983坪である<ref name="熊野郡誌313p"/>。 この山麓一帯は、シイやカシ等の常緑広葉樹林で構成され、なかでもシイの自然林は貴重なものとして﹁神谷神社文化財環境保全地区﹂に指定された<ref name="京丹後市F58"/>。1985年︵昭60年︶5月15日に﹁京都府文化財環境保全地区﹂となっている<ref name="京丹後市F58">{{Cite web <gallery>
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=== 磐座 ===
{{Double image aside|right|Kumihama Kamitani jinja Iwakura 2019-05 ac (1).jpg|200|Kamitani-tachinomiya磐座.jpg|180|神谷磐座の巨岩|巨岩の南北の透き間}}
'''神谷磐座'''︵かみたにいわくら︶は、神谷神社本殿に近接する八幡山麓にあるいくつかの巨岩の集まりである。もっとも大きい岩が、高さ約5メートル、周径10メートル以上あり、古来より清浄の地として[[注連縄]]をかけて祀る<ref name="熊野郡伝説史33p">{{ 巨岩と巨岩の間、東西に開けた場所では、縄文時代には夏至に朝陽が差し込んだ角度と冬至に太陽が沈んだと角度とみられる位置に割れ目があり、差し込む陽光を受けるヒールストーンのような役割をする石を備えることから、これらによって農作業の適期を測ることが可能であったと推測して古代太陽祭祀の跡とみる説がある<ref name="久美浜大事典14p" /><ref>{{Cite web === 剣岩 ===
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参道の横、神谷神社社殿域と祓所の間にある平たい巨石である。
神谷神社の創建の折、[[丹波道主命]]は臣下に 神谷太刀宮神社の例祭で久美浜町小字奥馬地から大根を奉じるのは、この剣岩の伝説に由来する風習である<ref name="熊野郡誌299p"/><ref name="熊野郡伝説史33p"/>。
== 文化財 ==
{{Anchors|文化財}}[[File:Kumihama Kamitani jinja 2019-05 ac (3).jpg|thumb|府登録文化財の神門]]
神谷神社の本殿と境内にある参考館が京都府の指定文化財に、神谷神社の神門と鳥居、末社の八幡神社本殿が京都府の登録文化財に登録されている。いずれも所在地は久美浜町新町として<ref group="注">神谷太刀宮神社の所在地︵住所︶は、久美浜町小谷である。</ref>、1985年︵昭和60年︶5月15日に府の文化財指定および登録を受けた。 === 府指定 ===
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=== 府登録 ===
* 神谷神社神門
*: 虹梁絵様に波形を用いた装飾の流行年代から、本殿よりやや新しく、江戸時代後期建造とみられる四脚門である<ref name="京都の社寺建築212p"/>。本殿の正面に位置し、内装は格天井である<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか">{{Cite web * 神谷神社境内社八幡神社本殿
*: 神門よりさらに少し後年の建造で、江戸時代末期の作とみられる<ref name="京都の社寺建築212p"/>。社殿は、梁行3尺で桁行3尺5寸<ref name="熊野郡誌313p"/>。上屋は梁行1間半で桁行2間<ref name="熊野郡誌313p"/>。小規模なこけら葺一間社流造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。軒唐破風が正面に付いており、全体的に軽快ながら華麗な印象をはなつ独創性に富んだ意匠の社となっている<ref name="京都の社寺建築212p" /><ref name="京丹後市デジタル,神門ほか * 神谷神社鳥居
*: 1707年(宝永4年)建造<ref name="京丹後市デジタル,神門ほか"/>。
=== 社宝 ===
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代表的な祭礼行事に、「神谷太刀宮祭り」または「久美浜一区の秋祭り」と称する秋の氏神祭がある。江戸時代以前には2日間にわたって2台の神輿が出て、神輿のほかには太鼓台と囃子屋台が出て屋台狂言を演じた<ref name="久美浜大事典11p"/>。
明治時代になると、久美浜の全町が車輪付きの太鼓台を出すようになり、次第に太鼓台同士を激しくぶつけ合い、勝負がつくまで激しく太鼓を打ち合う喧嘩祭の様相を呈した。1912年︵明治45年︶、ついに見物客から死傷者が出る事故があり、太鼓台は10年間の出動停止処分を受けた<ref name="久美浜大事典11p"/>。この処分は、町民らの嘆願によって1920年︵大正9年︶に解かれ、翌1921年︵大正10年︶以降は氏神例祭である10月17日を本祭とし<ref name="京都府大事典府域編150p"/>、新調された太鼓台からは車輪が省かれ、神輿のように担ぐものとなった<ref name="久美浜大事典11p"/>。祭礼再開のために新調された太鼓台は、﹁神楽山﹂﹁美城山﹂などの5基であり<ref name="久美浜大事典11p"/>、太鼓台のほかに神輿も町内を巡行する<ref name="京都新聞20111010"/>。神輿や各太鼓台は青年団によって町内を巡行するほか、神谷太刀宮神社境内で﹁先高︵さきだか︶<ref group="注">太鼓台の前方を高く持ち上げる技。</ref>﹂や﹁空のせ<ref group="注">太鼓台の底を高く持ち上げて見せる技。</ref>﹂などの技を披露し、奉納とする<ref name="京都新聞20111010">{{Cite news|和書 |title=﹁空のせ﹂技決まった |newspaper=[[京都新聞]] |date=2011-10-10 |author=片村有宏 本祭の前夜には、太陽に見立てた赤い提灯をつけた日和神楽(ひよりかぐら)が、子どもらを先頭に町内を練り歩く<ref name="久美浜大事典11p"/>。
この祭日は、2000年︵平成12年︶以降は10月の第2日曜日に移行した<ref name="久美浜大事典11p">{{ == 現地情報 ==
{{maplink2|frame=yes|plain=yes|type=point|zoom=14|frame-align=|frame-width=300|coord={{
'''所在地'''
* [[京都府]][[京丹後市]][[久美浜町]]1314
'''交通アクセス'''
* 鉄道 - 京都丹後鉄道「[[久美浜駅]]」下車 徒歩約6分
* 車 - 神谷神社社務所(参考館)前に駐車場あり<ref>{{Cite web
'''周辺'''
* [[豪商 稲葉本家]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist2}}
=== 脚注 ===
{{Reflist|2}}
== 参考文献 ==
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* {{Cite book|和書 |title=久美浜町誌 |year=1975 |publisher=久美浜町 |doi=10.11501/9573090 |ref={{SfnRef|久美浜町誌|1975}} |editor=久美浜町誌編纂委員会}}
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== 関連文献 ==
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{{神道 横}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:かみたにたちのみやしんしや}}
[[Category:京都府の神社]]
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