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|建国時期 =[[紀元前905年|前905年]]
|亡国時期 =[[紀元前206年|前206年]]
|先代1 =
|先旗1 =
|次代1 =
|次旗1 =
|国章画像 =Inscription on Imperial Seal of China "受命於天 既壽永昌".svg
|国章リンク ='''受命於天 既壽永昌'''<ref>[[鸟虫篆]]文体</ref>
|位置画像 =China Qin Dynasty.jpg
|位置画像説明 =全国統一時の秦の版図([[紀元前210年]])
|公用語 =[[上古音|古代中国語]]
|首都 =秦邑([[張家川回族自治県]])<br>[[西犬丘]]([[礼県]])<br>[[汧邑]]
|元首等肩書 =[[封臣|附庸]][[国主]]→[[伯爵|伯]]→[[王]]→[[帝]]→[[皇帝 (中国)|皇帝]]
|元首等年代始1 =前905年
|元首等年代終1 =前858年
|元首等氏名1 =[[非子]] |元首等年代始2 =前777年
|元首等年代終2 =前766年
|元首等氏名2 =[[襄公 (秦)|襄公]] |元首等年代始3 =前338年
|元首等年代終3 =前311年
|元首等氏名3 =[[恵文王 (秦)|恵 |元首等年代始4 =前306年
|元首等年代終4 =前251年
|元首等氏名4 =[[昭襄王|昭王]] |元首等年代始5 =前246年
|元首等年代終5 =前210年
|元首等氏名5 =[[始皇帝]]
|元首等年代始6 =前207年
|元首等年代終6 =前207年
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|変遷2 =伯国から王国へ
|変遷年月日2 =[[紀元前324年]]
|変遷3 =
|変遷年月日3 =[[紀元前221年]]
|変遷4 =[[劉邦]]の咸陽入城により滅亡
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|国姓=[[嬴|嬴姓]][[趙 (姓)|趙氏]]
|爵位=前905年、[[封臣|附庸]]<br>前770年、[[伯爵]]<br>前325年、[[王]]<br>前288年、[[帝]]<br>前221年、[[皇帝 (中国)|皇帝]] 天子位
|国都=1.'''秦邑'''<br>2.前776年、'''汧邑'''<br>3.前763年、'''汧渭之会'''<br>4.前714年、'''{{仮リンク|平陽城|label=平陽|zh|平陽城}}'''<br>5.前677年、'''[[雍城|雍]]'''<br>6.前383年、'''
|分封者=1. [[孝王 (周)|孝王]]<br> 非子が附庸に封じられる<br>2. [[平王 (周)|平王]]<br>襄公が伯爵となり正式に[[諸侯国]]となる
|始祖=[[秦非子]](周の[[孝王 (周)|孝王]]により附庸に封される)<br>[[襄公 (秦)|襄公]](周の[[平王 (周)|平王]]により正式に[[諸侯]]となる)
|建国年=[[紀元前905年]]
|滅亡年=[[紀元前206年]]
|滅亡原因=秦王
|史書の記載=
}}
'''秦'''︵しん、{{ == 歴史 ==
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[[紀元前905年]]に、周の[[孝王 (周)|孝王]]に仕えていた[[非子]]が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、[[大夫]]となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑︵現在の[[甘粛省]][[張家川回族自治県]]︶であったという。 伝説上では嬴姓は
周朝の属国として、その後秦人と[[西戎]]は長くて残酷な戦いをした。[[紀元前822年]]に[[荘公 (秦)|荘公]]の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂︵現在の[[陝西省]][[眉県]]︶の大夫になった。 73 ⟶ 75行目:
[[File:春秋诸侯大国简图.png|thumb|300px|right|春秋時代の諸国]]
===== 襄公の受封 =====
[[紀元前770年]]、周の[[幽王 (周)|幽王]]が[[申侯 ===== 早期の歴史 =====
[[春秋時代]]に入ると同時に諸侯になった秦だが、[[中原]]諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。[[紀元前762年|前762年]]、2代君主の[[文公 (秦)|文公]]は[[汧水]]・[[渭水]]の合流地点︵秦︶に行き、﹁昔、[[周]]の[[孝王 (周)|孝王]]が我が祖先の[[非子|秦嬴]]をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた﹂と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。[[紀元前714年]]には[[平陽県 (陝西省)|平陽]]へ遷都。[[紀元前677年]]には首都を[[雍城|雍]]︵現在の陝西省[[宝鶏市]][[鳳翔区]]の南東︶に置いた。 ===== 覇者 =====
==== 戦国時代 ====
89 ⟶ 91行目:
その後、孝公の子の[[恵文王 (秦)|恵文王]]が[[紀元前324年]]に'''王'''を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・[[燕 (春秋)|燕]]・[[楚 (春秋)|楚]]の五カ国連合軍が攻めて来たが、[[樗里疾]]がこれを破った︵[[函谷関の戦い (紀元前318年)|函谷関の戦い]]︶。[[紀元前316年]]に恵文王は{{仮リンク|巴蜀 (歴史)|zh|巴蜀|label=巴蜀}}︵現在の[[四川省]]︶を占領し︵{{仮リンク|秦滅巴蜀の戦い|zh|秦滅巴蜀之戰}}︶、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、[[長江]]の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた[[張儀]]を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し︵[[藍田の戦い]]︶、楚の[[懐王]]を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の[[武王 (秦)|武王]]との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。 [[紀元前298年]]、斉の宰相の[[孟嘗君]]が韓・魏との連合軍を組織し、[[匡章]]を統帥として秦に侵攻した︵ 恵文王の子で、武王の異母弟の[[昭襄王]]の時代に宰相の[[魏冄]]と[[白起]]将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた[[范雎]]を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な[[遠交近攻]]策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。 [[紀元前260年]]に趙への侵攻軍を率いた白起は、[[長平の戦い]]で撃破した趙軍の捕虜40万を坑︵穴埋めにして殺すこと︶した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。 これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚︵昭襄王の孫のひとり︶を見つけた商人の[[呂不韋]]が、子楚に投資をし始める。孝文王︵昭襄王の子︶の後、[[荘襄王]]として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった[[趙姫 (荘襄王)|趙姫]]との間に、子を儲けた。それが政である。[[紀元前256年]]に[[楊摎]]の進軍を妨害した、[[周|東周]]と[[西周公]]は'''秦'''の支配下に入り、程なく[[赧王]]と[[文公 (西周)|文公]]が死んだため、完全に周は[[東周の滅亡|滅び]]その領地を接収したものの{{sfn|佐藤信弥|2016|pp=209–210}}、[[紀元前247年]]には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と[[蒙驁]]の迎撃軍が敗退し[[函谷関]]まで撤退させられた︵[[河外の戦い]]︶。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の[[安釐王]]に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。 100 ⟶ 102行目:
{{main|秦の統一戦争}}
[[File:Hou Xuanxuan The situation map of Qin's war.gif|300px|right|蓁の統一戦争による領土の拡大]]
[[ファイル:
[[紀元前247年]]、[[始皇帝|秦王政]]が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた[[相国]]呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕<ref group="注">[[s:史記/卷006|﹃史記﹄始皇本紀]]では[[衛]]となっている。</ref> の五カ国[[合従連衡|合従軍]]が攻めてきたが、[[函谷関の戦い (紀元前241年)|函谷関の戦い]]で撃退した{{sfn|島崎晋|2019|pp=79–81}}<ref>﹃[[s:史記/卷006| ===== 韓と趙の滅亡 =====
[[紀元前236年]]、趙の[[鄴]]を[[王翦]]と[[桓齮]]・[[楊端和]]が落とし、 しかし、[[肥下の戦い]]で桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた<ref name="s4" />。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた<ref> [[紀元前230年]]、[[内史騰]]が韓を[[韓攻略|滅ぼした]]<ref name="秦滅韓和破趙">{{cite web|title=秦滅韓和破趙|url=http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang78.htm|publisher=中華文化信息网|accessdate=2014-01-03|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150923201442/http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang78.htm|archivedate=2015-09-23}}</ref>{{Sfn|Li|Zheng|2001|p=184}}{{sfn|寺田隆信|1997|pp=48–49}}。 [[紀元前229年]]、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された<ref name="
[[紀元前228年]]、趙を[[趙攻略|滅ぼした]]。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で[[幽繆王]]の兄の[[代王嘉|公子嘉]]を擁立し[[代 (戦国)|代国]]とした<ref group="注">代は燕と連携をとり秦に対抗する。[[王賁]]により代王嘉が捕虜になる[[紀元前222年]]まで命脈を保った︵[[燕攻略]]も参照︶。</ref><ref ===== 燕との戦いと、魏の滅亡 =====
[[紀元前227年]]、燕の[[燕太子丹|太子丹]]が[[刺客]]の[[荊軻]]を送りこんだ。政の[[暗殺]]に失敗し、難を逃れた政は激怒した。[[紀元前226年]]、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。[[燕王喜]]らは[[遼東]]に逃亡した。 [[紀元前225年]]、魏の都の[[大梁]]を攻め、魏を[[魏攻略|滅ぼした]]{{Sfn|Li|Zheng|2001|p=187}}<ref name="Qin's conquest of Wei on Hudong">{{Citation|language=zh|url=http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战|title=秦滅魏之戦|trans-title=Qin's conquest of Wei|type=wiki|publisher=Hudong Baike}}</ref>{{sfn|寺田隆信|1997|pp=48–49}}。これにより[[三晋]]はすべて滅んだ{{sfn|寺田隆信|1997|pp=48–49}}。 ===== 楚と燕、斉の滅亡 =====
同年、[[李信]]と[[蒙恬]]が[[楚 (春秋)|楚]]に侵攻したが[[項燕]]の奇襲により、[[城父の戦い|大敗した]]<ref>﹃[[史記]]﹄楚世家</ref><ref name="秦滅楚">[http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang80.htm 秦滅楚] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20150923201455/http://www.ccnt.com.cn/china/history/history/zhanguo/zhang80.htm |date=2015-09-23 }} 中華文化信息网</ref>。 [[紀元前223年]]、秦の将軍[[王翦]]が楚を[[楚攻略|滅亡させ]]{{sfn|寺田隆信|1997|pp=48–49}}、[[紀元前222年]]に代と燕を[[燕攻略|滅ぼし]]<ref>[[馮夢竜]] === 中華統一 ===
{{See also|秦朝}}
秦王政は中華統一後、自ら[[皇帝]]を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、'''始皇帝'''︵秦始皇︶と呼ばれた<ref name="Duiker, William J 2006 pg 78">Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). ''World History: Volume I: To 1800''. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.</ref>。この称号は、伝説上の聖王である[[三皇五帝]]からとったものとも言われるが、﹃史記﹄秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが﹁古に[[天皇 (三皇)|天皇]]︵'''てんこう'''、日本の天皇とは別︶、[[地皇 (三皇)|地皇]]、[[人皇|泰皇]]が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう﹂と勧めたが、政は﹁泰皇の泰を去り、古︵[[夏 (三代)|夏]] 始皇帝は[[度量衡]]・文字の統一<ref>柿沼2015</ref>、郡県制の実施など様々な改革を行った<ref 匈奴に対しては、[[蒙恬]]を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、[[南海郡 (中国)|南海郡]]︵現在の[[広東省]][[広州市]]︶・[[桂林郡]]︵現在の[[広西チワン族自治区]][[桂林市]]︶・[[象郡]]︵現在の[[ベトナム]]北部、[[前漢]]以降は[[日南郡]]と呼んだ︶の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。 134 ⟶ 136行目:
[[File:Qin Dynasty.png|240px|thumb|秦朝の行政区分]]
秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海 また[[不老不死]]に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には[[徐福]]のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な[[水銀]]すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。
=== 混乱と滅亡 ===
[[画像:20050410.png|thumb|240px|秦末の反乱]]
[[紀元前210年]]、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた[[宦官]]の[[趙高]]で、長 二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された[[章邯]]は軍事的能力を発揮し、[[陳勝]]軍を撃破すると、さらにその後を受けた[[項梁]]軍も撃破した。しかし、項梁の甥の[[ その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには[[劉邦]]が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、[[子嬰]]を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。 154 ⟶ 156行目:
=== 官制 ===
秦の官制は前漢と同じく丞相︵首相︶・[[太尉]]︵軍事︶・[[御史大夫]]︵監察・あるいは副首相︶の[[三公]]を頂点とする三公九卿制である 地方制度では商鞅の改革時に全国を31︵あるいは41︶の[[県]]に細分し、それぞれに令︵長官︶と丞︵副長官︶を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが[[郡県制]]である。県の上に上級の行政単位である[[郡]]を置き、 === 法制 ===
163 ⟶ 165行目:
漢の[[蕭何]]は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として﹁[[律九章]]﹂と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この﹁律九章﹂は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと﹃[[晋書]]﹄にはある。しかしこの記載が﹃[[漢書]]﹄にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。 そして秦の法律に関する一次資料として『[[睡虎地秦簡]]』と呼ばれるものがある。これは[[1975年]]に[[湖北省]]雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われる[[喜 (秦)|喜]]と言う人物の墓に入れてあった[[竹簡]]群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。
== 経済 ==
173 ⟶ 175行目:
統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。
石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は[[北京市|北京]]の[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。 [[画像:Teracotta army pit 1 20090717-02.JPG|thumb|240px|[[兵馬俑]]]]
182 ⟶ 184行目:
思想的には[[法家]]が当然強いが、[[道家]]も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、﹃史記﹄で[[司馬遷]]が[[老子]]と[[韓非子]]を﹃老子韓非列伝﹄と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。 [[世界遺産]]に登録されている[[始皇帝陵]]は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が
==
===伝説時代(趙氏の祖先)===
{| class="wikitable"
191 ⟶ 193行目:
! style="background:#efefef;" | 備考
|-
|
|-
|
|-
|[[益 (中国神話)|大費]](柏翳)|| 帝舜から嬴
|-
|{{仮リンク|大廉|zh|大廉}} || 鳥俗氏(鳥洛氏)の始祖
|-
|*
|-
|…<br>嬴爾成||
207 ⟶ 209行目:
|嬴磷||
|-
|
|-
|嬴子豊||
213 ⟶ 215行目:
|嬴謝||
|-
|
|-
|
|-
|{{仮リンク|蜚廉|zh|蜚廉}}||両子:[[悪来]](秦氏・梁氏の始祖)、
|}
(ここまでは趙の祖先神話である)
244 ⟶ 246行目:
! style="background:#efefef;" | 統治年数
|-
|[[非子
|-
|{{仮リンク|秦侯|zh|秦侯}}||[[紀元前857年]] - [[紀元前848年]]
265 ⟶ 267行目:
|[[文公 (秦)|文公]]||[[紀元前765年]] - [[紀元前716年]]
|-
|[[寧公|憲公]]||[[紀元前715年]] - [[紀元前704年]]
|-
|[[出子]]||[[紀元前703年]] - [[紀元前698年]]
312 ⟶ 314行目:
|}
=== 秦王 ===
{| class="wikitable"
|-
! style="background:#efefef;" | 秦王
! style="background:#efefef;" | 統治年数
|-
| [[恵文王 (秦)|恵
|-
| [[武王 (秦)|武王]]||[[紀元前310年]] - [[紀元前307年]]
|-
| [[昭襄王|昭王]]||[[紀元前306年]] - [[紀元前251年]]
|-
| [[孝文王]]||[[紀元前250年]]<ref group = "注">即位して3日後に死去した。</ref>
328 ⟶ 330行目:
| [[荘襄王]]||[[紀元前249年]] - [[紀元前247年]]
|-
| [[始皇帝|
|}
342 ⟶ 344行目:
|}
=== 秦王 ===
{| class="wikitable"
|-
358 ⟶ 360行目:
== 参考文献 ==
* {{Citation |和書 |author=[[佐藤信弥]] |title=周-理想化された古代王朝 | volume= | volume-title= |publisher=中央公論新社 |date=2016 |isbn=978-4-12-102396-4 }}
* {{Citation |和書 |author=
* {{Citation |和書 |author=
▲* {{Citation |和書 |author=寺田隆信 |title=物語 中国の歴史 | volume= | volume-title= |publisher=中央公論新社 |date=1997 |isbn=4-12-101353-0}}
* {{Citation | last1 = Li | first1 = Bo | last2 = Zheng | first2 = Yin | language = zh | year = 2001 | title = 《中华五千年》 | trans-title = 5000 years of Chinese History | publisher = Inner Mongolian People's publishing | ISBN = 7-204-04420-7 }}.
== 関連項目 ==
* [[支那]]
* [[徐福]]
* [[秦氏]]
372行目:
== 外部リンク ==
{{Commonscat|
* [http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sj_005.htm 史記秦本紀]{{zh-smpl icon}}
* [http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sj_006.htm 史記秦始皇本紀]{{zh-smpl icon}}
380行目:
|'''秦'''
|紀元前221年 - 紀元前206年
|[[戦国時代
|[[前漢]]
}}
386行目:
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:しん}}
[[Category:春秋戦国の秦|*]]
[[Category:春秋戦国]]
|