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'''穂積 八束''' ︵ほづみ やつか、[[1860年]][[3月20日]]︿[[安政]]7年[[2月28日 (旧暦)|2月28日]]﹀ - [[1912年]]︿[[大正]]元年﹀[[10月5日]]︶は、日本の[[法学者]]。[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学長。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員。[[法典調査会]]査定委員。 [[民法典論争]]に際し発表した論文『'''民法出デテ忠孝亡ブ'''』で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、題名は[[江木衷]]の発案によるという情報もある<ref>[[穂積陳重]]『法窓夜話』有斐閣、1916年、348頁</ref>。従来は保守頑迷の典型のように扱われることが多かったが、前後に発表された論文からは彼なりの西洋文明摂取の姿勢が指摘される<ref>[[瀧井一博]]『明治国家を作ったひとびと』講談社、2013年、229頁</ref>。特に自由主義・個人主義の原則を認めつつ、経済的自由主義の行き過ぎを批判し、国家の介入による適切な修正を主張したことは的を得ているとして再評価が進んでいる<ref>[[井ヶ田良治]]「続民法典論争の法思想的構造」『思想』、1966年、93-95頁、[[藤田宙靖]]『行政法学の思考形式』木鐸社、1978年56-59頁、244頁、坂井大輔「穂積八束の「公法学」(1)」『一橋法学』12巻1号、一橋大学大学院法学研究科、2013年、244頁</ref>。▼
日本法律学校︵現在の[[日本大学]]︶の設立に参画したことでも知られる。[[美濃部達吉]]らが主張した[[天皇機関説]]に対し、天皇主権説を唱えた。また、日本の憲法学者としては初めて体系的学説を提示した<ref>長谷川正安﹃日本憲法学の系譜﹄(勁草書房、1993年)107-108頁</ref>。弟子に[[上杉慎吉]]など。▼ == 人物 ==
[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]士の[[穂積家 (伊予国)|穂積家]]に生まれる。鈴木(穂積)重樹の三男。長兄の[[穂積重頴]]は第二十国立銀行頭取。東京帝国大学法学部教授、[[民法 (日本)|民法]]起草者の一人である[[穂積陳重]]は次兄。[[正三位]][[勲一等]]。前妻は[[伊達宗城]][[家令]]・[[西園寺公成]]の長女さと︵早世︶、後妻は[[浅野総一郎]]︵初代︶︵[[浅野財閥]]創始者︶の長女まつ。 ▲[[民法典論争]]に際し発表した論文﹃'''民法出デテ忠孝亡ブ'''﹄で非常に有名だが、本文中に登場する文言ではなく、実兄の[[穂積陳重]]によると題名は[[江木衷]]の発案 ▲日本法律学校︵現在の[[日本大学]]︶の設立に参画したことでも知られる。[[美濃部達吉]]らが主張した[[天皇機関説]]に対し、天皇主権説を唱えた。また、日本の憲法学者としては初めて体系的学説を提示した<ref>長谷川正安﹃日本憲法学の系譜﹄(勁草書房、1993年)107-108頁</ref>。弟子に[[上杉慎吉]]など。 == 経歴 ==
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* [[1885年]](明治18年) - [[ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク|ハイデルベルク大学]]に戻る。
* [[1886年]]︵明治19年︶ - [[ストラスブール大学|シュトラスブルク大学]]に転学。同大学教授、{{仮リンク|パウル・ラーバント|de|Paul_Laband}}に師事。 * [[1889年]](明治22年) -
* [[ * [[1891年]]︵明治24年︶ - 兼任枢密院書記官。[[法学博士]]。4月、民法典論争に参戦し﹁国家的民法﹂発表、8月﹃民法出デテ忠孝亡ブ﹄︵﹃法学新報﹄第五号︶発表<ref>広中俊雄﹁帝国議会議事速記録の復刻について 民法施行一〇〇年の機会に﹂﹃法律時報﹄70巻9号、日本評論社、1998年、2頁</ref>。 * [[1892年]](明治25年) - [[深川セメント]](のちの[[浅野セメント]])社長[[浅野総一郎]]の娘まつと結婚
* [[1897年]](明治30年) - [[東京大学|東京帝国大学]]法科大学長就任。
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