「穂積重遠」の版間の差分
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| 国略称 = {{JPN}}
| 生年月日 = [[1883年]][[4月11日]]
| 出生地 = {{
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1883|4|11|1951|7|29}}
| 死没地 = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]]
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| 称号・勲章 = [[勲一等旭日大綬章]]
| 配偶者 = 穂積ナカ
| 親族(政治家) = 祖父・[[渋沢栄一]]
| 職名 = [[貴族院 (日本)|貴族院議員]]
| 就任日 = [[1944年]][[7月22日]]<ref>﹃貴族院要覧︵丙︶﹄昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、52頁。</ref> 22行目:
'''穂積 重遠'''︵ほづみ しげとお、[[1883年]]︵[[明治]]16年︶[[4月11日]] - [[1951年]]︵[[昭和]]26年︶[[7月29日]]︶は、[[日本]]の[[法学者]]。専門は[[民法]]。[[東京府]]出身。[[東京大学|東京帝国大学]][[教授]]・[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|法学部]]長、[[最高裁判所裁判官|最高裁判所判事]]を歴任し、﹁[[家族法|日本家族法]]の父﹂といわれる。[[宮内庁東宮職#歴代東宮大夫︵日本国憲法施行後︶|東宮大夫]]兼[[宮内庁東宮職#歴代東宮侍従長|東宮侍従長]]。[[男爵]]。[[勲一等旭日大綬章]]。 [[穂積陳重]]の長男、[[渋沢栄一]]の初孫。[[実業家]]、[[政治家]]の[[渋沢敬三]]と政治家の[[阪谷希一]]は母方の従兄弟にあたる。[[岡田朝太郎|岡野朝太郎]]に師事<ref>{{Cite web|和書|title=日本評論社編﹃日本の法学﹄62頁︵日本評論社、1968︶ |url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2993342/1/40 |website=dl.ndl.go.jp |access-date=2023-07-31}}</ref>。弟子に[[中川善之助]]、[[来栖三郎 (法学者)|来栖三郎]]など。 == 人物 ==
[[File:Nobushige Hozumi, Professor of Jurisprudence.jpg|thumb|200px|父の穂積陳重。]]
[[穂積陳重]]の長男として東京に生まれる。母は[[渋沢栄一]]の娘、[[穂積歌子|歌子]]。栄一にとっては初孫となる。妻は[[児玉源太郎]]の三女、ナカ。西洋史学者で[[大東文化大学]]長を務めた[[穂積重行]]は長男、国文学者の[[岩佐美代子]]は娘。娘・和歌子の夫は[[八十島義之助]]。▼ 1883年[[4月11日]] 、[[穂積陳重]]の長男として東京に生まれる。母は[[渋沢栄一]]の娘、[[穂積歌子|歌子]]。栄一にとっては初孫となる。 ▲ 1951年[[7月29日]]、満68歳(享年69)で死去。
== 少年時代 ==
[[ファイル:Shibusawa_Eiichi_Portrait_1900.png|thumb|祖父・渋沢栄一。]]
子供時代、祖父の渋沢栄一の影響で[[論語]]に興味を覚えた。後にそれに関する著書もある。大学時代に[[宇野哲人]]が家庭教師であったが、家庭的論語講義をしたという。[[東京高等師範学校]]附属小学校︵現・[[筑波大学附属小学校]]︶、同附属中学校︵現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶時代は、[[鳩山秀夫]]や[[杉村陽太郎]]と親しかった。成績も優秀であったが、柔道に熱心であり、寒稽古に欠かさず出席した。 音楽にも興味があった。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代には校歌を作詞し、その﹁都の空に﹂は後に[[学徒出陣]]の際に歌われることになる。[[1902年]]、母校である東京高師附属中学校の校歌﹁桐陰会会歌﹂の制定を提唱した。 36 ⟶ 42行目:
== 教職時代と留学 ==
[[File:Hozumi Shigeto.jpg|thumb|200px|穂積重遠]]
[[ファイル:Shibusawa Eiichi, 1st Viscount Shibusawa in New York City in 1915.jpg|thumb|[[ニューヨーク市]]にて。右にいるのは祖父・[[渋沢栄一]]。]]
小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]と重遠は、1909年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に結婚する。重遠は﹁結婚届出同日主義﹂をもっており、母を驚かせた。ドイツ法の原書講読を受け持ったが、学生の中には後に同僚となる若き日の[[田中耕太郎]]が含まれていた。1910年3月には助教授に昇任し、1912年7月には欧米留学の辞令が発せられている。▼ 小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]とは、1908年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に児玉仲子と結婚する。﹁結婚届出同日主義﹂をもっており、母の歌子を驚かせた。 ▲ 1912年10月24日東京を旅立ち、目的地のドイツの[[ボン]]に12月16日到着。その地では先に留学していた鳩山秀夫が出迎えた。講義を聞くだけでなく、ドイツ婦人からドイツ語とダンスを習った。翌年4月にはベルリンに移った。視察も多く﹁刑事博物館﹂﹁東方文化研究所﹂﹁幼年裁判所﹂﹁幼年者救護会﹂﹁小児食堂﹂﹁[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]・フレーベル館﹂など視察している。1914年5月31日まで滞在、6月にはパリに居を移したが、この時も社会見物に精を出している。 ほどなく第一次世界大戦が勃発、1914年8月16日にパリからロンドンに移った。ロンドンでは裁判所、陪審員がいる﹁素人裁判所﹂を見学している。1915年11月3日の汽船でロンドンを去り、アメリカへ主として[[ハーバード大学]]のある[[ケンブリッジ]]で過ごした。 == 「戦争と契約」から「離婚制度の研究まで」 ==
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== 立法と社会教育・社会事業・関東大震災 ==
民法改正の要綱作成のために == 社会教育協会 ==
1925年、[[小松謙助]]らが作った社会教育協会は、相談の結果、重遠が理事長となった。この協会の主な仕事は出版と講演であった。また、特殊学校として、東京家庭学園を設置した。それは白梅保母学園となり現在は大学院、大学、短期大学、高等学校、中学校︵高等学校一貫制︶、幼稚園を有する学校法人白梅学園に発展した︵[[白梅学園大学]]参照︶。 == 講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成 ==
東京大学セツルメントは社会事業の一つであるが、
== 東京帝大法学部長 ==
1931年、満州事件がおきた。 == 文化人・重遠 ==
女権拡張に好意的だったことから、 == 皇室と最高裁判所 ==
1945年8月 [[東宮大夫]]、[[東宮侍従長]]に就任した。次女・[[岩佐美代子|美代子]]が4歳時から[[照宮]]の学友だった縁からという。1933年ころから、[[香淳皇后|皇后]]、[[貞明皇后|皇太后]]へ進講している。また、1936年には[[講書始]]で﹁ギールケ著ドイツ団体法論﹂について進講し、外にも進講した。東宮侍従長人事に関しては、1945年8月7日[[木戸幸一]][[内大臣]]が[[昭和天皇]]に内奏し、天皇は﹁穂積とは重遠か、彼ならよし﹂との言葉があった。日光に疎開していた[[明仁|皇太子]]を訪れ、終戦を迎えた。当時の日記が残っている。皇太子の帰京には3か月かかった。 1937年、[[帝人事件]]に際し友人である[[大久保偵次]]︵当時大蔵省銀行局長︶の特別弁護人になったことがあるが、裁判官は初めてであった。任期は4年ほどの予定であったが、予想外の死により2年余りとなった。その間、要求によりアメリカ視察旅行を行っている。最高裁判所時代に[[尊属殺|刑法200条]]の違憲説︵少数意見︶を主張した︵昭和25年︵1950年︶10月11日︵尊属傷害致死︶及び同年10月25日︵尊属殺︶の判決︶。彼の意見は﹁孝は百行の基﹂であるのは新憲法下でも不変であるが、かのナポレオン法典の﹁子は年齢の如何にかかわらず父母を尊敬せざるべからず﹂や、殺親罪重罰規定によって、親孝行を強制せんとするは、法律の限界を越境する法律万能思想であって、かえって孝行の美徳の神聖を害するものといってよかろう﹂というものであった<ref>大村[2013:269-272]</ref>。なお、彼の死後、刑法200条は[[尊属殺重罰規定違憲判決|1973年4月4日の大法廷判決]]により違憲と判決が下り、1995年に正式に削除された。 == 家族と家庭生活 ==
== 経歴 ==
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*[[1945年]] - [[東宮大夫]]兼[[東宮侍従長]]
*[[1949年]] - 最高裁判事([[1951年]]まで)。就任してから[[衆議院議員総選挙]]の公示前の在任中に死去したため、[[最高裁判所裁判官国民審査]]を受けることはなかった。
*[[1951年]] - 1月1日、病に倒れる。同年、7月29日 == 栄典 ==
* [[1926年]](大正15年)[[4月2日]] - [[従四位]]<ref>『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。</ref>
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* 『新訳 [[論語]]』(社会教育協会、1947年)。[[講談社学術文庫]]、1981年
* 『私たちの民法』(社会教育協会、1948年)
* 『新訳 [[孟子 (書物)|孟子]]』(社会教育協会、1948年)。[[講談社]]学術文庫
* 『歌舞伎思出話』(大河内書店、1948年)
* 『新民法読本』(日本評論社、1948年)
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* 『百万人の法律学』(思索社、1950年)
* 『結婚読本』(中央公論社、1950年)
* 『法律入門』(宝文館、1952年
* 『続有閑法学』(一粒社、1961年)
* 『欧米留学日記』(岩波書店、1997年)。[[穂積重行]]編
* 『[[終戦日記|終戦戦後日記]]
* 『近代日本判例批評集―新編 判例百話/有閑法学/続有閑法学』([[書肆心水]]、2024年)
== 門下生 ==
* [[中川善之助]]([[東北大学]][[名誉教授]]・[[金沢大学]]名誉教授。「現代家族法の父」と称される。)
* [[松坂佐一]]([[名古屋大学]][[名誉教授]])
* [[来栖三郎 (法学者)|来栖三郎]]([[東京大学]][[名誉教授]]。兄弟子にあたる[[中川善之助]]らとともに戦後の親族法・相続法の改正起草委員を務めた。):弟子に[[石田穣]](のちの東京大学助教授) == 脚注 ==
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| after = 華族制度廃止
}}
{{S-end}}
{{東宮大夫}}
{{Normdaten}}
{{Japan-politician-stub}}
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{{DEFAULTSORT:ほつみ しけとお}}
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[[Category:日本の法哲学者]]
[[Category:日本の国際法学者]]
[[Category:論語学者]]
[[Category:日本学士院会員]]
[[Category:帝国学士院会員]]
182 ⟶ 199行目:
[[Category:1883年生]]
[[Category:1951年没]]
[[Category:谷中霊園に埋葬されている人物]]
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