「穂積重遠」の版間の差分
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== 人物 ==
[[File:Nobushige Hozumi, Professor of Jurisprudence.jpg|thumb|200px|父の穂積陳重。]]
1883年[[4月11日]] 、[[穂積陳重]]の長男として東京に生まれる。母は[[渋沢栄一]]の娘、[[穂積歌子|歌子]]。栄一にとっては初孫となる。 32 ⟶ 33行目:
== 少年時代 ==
[[ファイル:Shibusawa_Eiichi_Portrait_1900.png|thumb|祖父・渋沢栄一。]]
子供時代、祖父の渋沢栄一の影響で[[論語]]に興味を覚えた。後にそれに関する著書もある。大学時代に[[宇野哲人]]が家庭教師であったが、家庭的論語講義をしたという。[[東京高等師範学校]]附属小学校︵現・[[筑波大学附属小学校]]︶、同附属中学校︵現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]]︶時代は、[[鳩山秀夫]]や[[杉村陽太郎]]と親しかった。成績も優秀であったが、柔道に熱心であり、寒稽古に欠かさず出席した。 音楽にも興味があった。[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代には校歌を作詞し、その﹁都の空に﹂は後に[[学徒出陣]]の際に歌われることになる。[[1902年]]、母校である東京高師附属中学校の校歌﹁桐陰会会歌﹂の制定を提唱した。 40 ⟶ 42行目:
== 教職時代と留学 ==
[[File:Hozumi Shigeto.jpg|thumb|200px|穂積重遠]]
[[ファイル:Shibusawa Eiichi, 1st Viscount Shibusawa in New York City in 1915.jpg|thumb|[[ニューヨーク市]]にて。右にいるのは祖父・[[渋沢栄一]]。]]
小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]と重遠は、1909年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に結婚する。重遠は﹁結婚届出同日主義﹂をもっており、母を驚かせた。ドイツ法の原書講読を受け持ったが、学生の中には後に同僚となる若き日の[[田中耕太郎]]が含まれていた。1910年3月には助教授に昇任し、1912年7月には欧米留学の辞令が発せられている。▼ 小学校時代から同級であった[[鳩山秀夫]]とは、1908年の東京帝国大学卒業と共に同大学講師に採用された。同年に児玉仲子と結婚する。﹁結婚届出同日主義﹂をもっており、母の歌子を驚かせた。 ▲ 1912年10月24日東京を旅立ち、目的地のドイツの[[ボン]]に12月16日到着。その地では先に留学していた鳩山秀夫が出迎えた。講義を聞くだけでなく、ドイツ婦人からドイツ語とダンスを習った。翌年4月にはベルリンに移った。視察も多く﹁刑事博物館﹂﹁東方文化研究所﹂﹁幼年裁判所﹂﹁幼年者救護会﹂﹁小児食堂﹂﹁[[ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ|ペスタロッチ]]・フレーベル館﹂など視察している。1914年5月31日まで滞在、6月にはパリに居を移したが、この時も社会見物に精を出している。 ほどなく第一次世界大戦が勃発、1914年8月16日にパリからロンドンに移った。ロンドンでは裁判所、陪審員がいる﹁素人裁判所﹂を見学している。1915年11月3日の汽船でロンドンを去り、アメリカへ主として[[ハーバード大学]]のある[[ケンブリッジ]]で過ごした。 == 「戦争と契約」から「離婚制度の研究まで」 ==
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== 立法と社会教育・社会事業・関東大震災 ==
民法改正の要綱作成のために == 社会教育協会 ==
1925年、[[小松謙助]]らが作った社会教育協会は、相談の結果、重遠が理事長となった。この協会の主な仕事は出版と講演であった。また、特殊学校として、東京家庭学園を設置した。それは白梅保母学園となり現在は大学院、大学、短期大学、高等学校、中学校︵高等学校一貫制︶、幼稚園を有する学校法人白梅学園に発展した︵[[白梅学園大学]]参照︶。 == 講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成 ==
東京大学セツルメントは社会事業の一つであるが、
また重遠は公民科の教科書を編集した<ref>大村[2013:113]</ref>。
▲重遠は講演や夏期大学に精を出した。旅行先でも講演し、[[宇和島市|宇和島]]、[[鹿児島市|鹿児島]]、[[日本統治時代の朝鮮|朝鮮]]、[[満州]]、[[樺太]]、[[松江市|松江]]などにいって講演した。また、女性法律家の育成に力を入れ、[[明治大学]]女子部の創設がある。1929年から明治大学専門部に女子部が開設された。入学者は150名であったが、1932年に卒業できたのは、54名であった。1936年から高等文官試験司法科を受験することができるようになったが、1938年になって初めて女性3名が合格した。はっきりした記録はないが、重遠は戦前からラジオ講演をしていた。現在レコードを聞いても、絶妙な間合いであり、美声は心地よく響くという。しかし、父の陳重は講義調を脱しえなかった。また重遠は公民科の教科書を編集した<ref>大村[2013:113]</ref>。 == 東京帝大法学部長 ==
1931年、満州事件がおきた。 == 文化人・重遠 ==
女権拡張に好意的だったことから、 == 皇室と最高裁判所 ==
1945年8月 [[東宮大夫]]、[[東宮侍従長]]に就任した。次女・[[岩佐美代子|美代子]]が4歳時から[[照宮]]の学友だった縁からという。1933年ころから、[[香淳皇后|皇后]]、[[貞明皇后|皇太后]]へ進講している。また、1936年には[[講書始]]で﹁ギールケ著ドイツ団体法論﹂について進講し、外にも進講した。東宮侍従長人事に関しては、1945年8月7日[[木戸幸一]][[内大臣]]が[[昭和天皇]]に内奏し、天皇は﹁穂積とは重遠か、彼ならよし﹂との言葉があった。日光に疎開していた[[明仁|皇太子]]を訪れ、終戦を迎えた。当時の日記が残っている。皇太子の帰京には3か月かかった。 1937年、[[帝人事件]]に際し友人である[[大久保偵次]]︵当時大蔵省銀行局長︶の特別弁護人になったことがあるが、裁判官は初めてであった。任期は4年ほどの予定であったが、予想外の死により2年余りとなった。その間、要求によりアメリカ視察旅行を行っている。最高裁判所時代に[[尊属殺|刑法200条]]の違憲説︵少数意見︶を主張した︵昭和25年︵1950年︶10月11日︵尊属傷害致死︶及び同年10月25日︵尊属殺︶の判決︶。彼の意見は﹁孝は百行の基﹂であるのは新憲法下でも不変であるが、かのナポレオン法典の﹁子は年齢の如何にかかわらず父母を尊敬せざるべからず﹂や、殺親罪重罰規定によって、親孝行を強制せんとするは、法律の限界を越境する法律万能思想であって、かえって孝行の美徳の神聖を害するものといってよかろう﹂というものであった<ref>大村[2013:269-272]</ref>。なお、彼の死後、刑法200条は[[尊属殺重罰規定違憲判決|1973年4月4日の大法廷判決]]により違憲と判決が下り、1995年に正式に削除された。 == 家族と家庭生活 ==
== 経歴 ==
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