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AlexisMikaJapan (会話 | 投稿記録) 天野屋(晩年逗留した湯河原の旅館)のその後。2005年に廃業。 |
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[[1907年]]︵明治40年︶、[[文展]]開設とともに審査員となり、以後[[1918年]]︵大正7年︶まで歴任した<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%A0%96%E9%B3%B3-18653 |title=竹内栖鳳|publisher=[[コトバンク]] |author=[[二階堂充]]/[[小学館]] 日本大百科全書(ニッポニカ)|accessdate=2017年12月11日 }}</ref>。[[日展|帝展]]︵現[[日展]]︶審査員にもなり、[[1913年]]︵大正2年︶12月18日に﹁[[帝室技芸員]]﹂に推挙<ref>﹃官報﹄第419号、大正2年12月19日。</ref>されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。[[1919年]]︵大正8年︶、[[日本芸術院|帝国美術院]]会員となる。また、[[1909年]]︵明治42年︶、[[京都市立絵画専門学校]]︵現・[[京都市立芸術大学]]︶開設とともに教授に就任し、[[1924年]]︵大正13年︶まで務めた。1924年︵大正13年︶に[[フランス]]の[[レジオンドヌール勲章]]、[[1931年]]︵昭和6年︶に[[ハンガリー]]最高美術賞および[[ドイツ]]の[[ゲーテ]]名誉賞、そして[[1937年]]︵昭和12年︶に第1回[[文化勲章]]を受けた<ref>{{Cite web |url=https://kotobank.jp/word/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%A0%96%E9%B3%B3-18653 |title=竹内栖鳳|publisher=[[コトバンク]] |author=[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|accessdate=2017年12月11日 }}</ref>。 昭和に入っての戦時下では軍部に協力の姿勢をとっていたものの、敗戦前に、[[神奈川県]][[足柄下郡]][[湯河原町]]の天野屋旅館別荘で<ref>栖鳳は天野屋の敷地内にアトリエを構えた。その天野屋も2005年に廃業した。-日本経済新聞・2021年2月6日(土)夕刊第8面﹁文学周遊(746) 夏目漱石﹃明暗﹄神奈川・湯河原町﹂(文・宮川匡司)</ref>病気療養中の折、肺炎のため亡くなった<ref>{{Cite web |url=http://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/8592.html |title=竹内栖鳳|publisher=東文研アーカイブデータベース ||accessdate=2017年12月11日 }}</ref>。 評論家の[[竹内逸]]は息子にあたる。
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