'''紀 清人'''︵き の きよひと、生年不詳 - [[天平勝宝]]5年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]︵[[753年]]8月14日︶︶は、[[奈良時代]]の[[貴族]]・学者。[[日本書紀]]の編纂に携わったほか、[[大学寮]]で[[文章道]]を教え、[[文章博士者]]。名は'''浄人'''となったも記される。父は[[従五位|従五位下]]・紀国益<ref>﹃続日本紀﹄天平16年︵744年︶7月6日条に故人として見えるの子。養老5年︵722年︶6月21日条子には、大判事任官の記事真乙があいる。</ref>。最終[[官位]]は[[官人#官人の分類従四位|散従四位下]]・[[従四位下武蔵国|武蔵]]。﹃[[万葉集国司|守]]﹄に歌1首︵17-3923︶<ref name="uta">天平18年︵746年︶1月の元正上皇応詔歌。</ref>。
== 経歴 ==
*[[和銅]]7年︵[[714年]]︶2月10日、︶[[元明天皇従六位|従六位上]]の詔により時、三宅藤麻呂ととも共に[[国史︵]]撰修の詔勅を受ける。当時編纂されていた﹃[[日本書記紀]]﹄に関連した人事と見も考えられる︶の編纂にあたるが不詳。<ref name="shoki">翌和銅8年︵[[舎人親王715年]]︶三階の昇叙による﹃日本書記﹄完成奏上は養老4年︵り[[720年従五位|従五位下]]︶5月21日となる。</ref>
*[[霊亀]]元年([[715年]])1月10日、従五位下に叙せられる。 ▼
* 7月10日、学者への恩典として穀100石を賜る。
*[[養老]]元年([[717年]])7月23日、学者への恩典として穀100石を賜る。
*養老5年([[721年]])1月23日、[[元正天皇]]の詔により[[山上憶良]]ら15名の文人・学者とともに、皇太子首皇子(後の[[聖武天皇]])の侍講となる。
* 1月27日、文章道の師範たるに堪える者として、山田三方、下毛野虫麻呂、楽浪河内とともに絹糸、綿布などの恩典にあずかる。<ref name="onshou">ほかにも明経、明法、算といった大学寮の諸学科に加え、陰陽道、医術、音楽、武芸など幅広い分野が対象となっている。</ref>
*養老7年([[723年]])1月10日、従五位上に叙せられる。 ▼
*[[天平]]4年(732年)10月17日、[[右京亮]]となる。 ▼
*天平13年([[741年]])7月3日、[[治部大輔]]兼文章博士となる。 ▼
*天平15年([[743年]])5月5日、正五位下に叙せられる。 ▼
*天平16年([[744年]])2月2日、[[平城宮]]の留守官を命ぜられる<ref name="rusu">このとき聖武天皇は[[恭仁京]]から[[難波京]]に遷都。</ref>。
* 7月6日、父国益とその甥の男人(ともに故人)が所有権を争っていた[[奴婢]]について、[[刑部省]]が国益の子清人のものと決定。清人は上表して奴婢を解放し[[良民]]とした。
* 11月21日、従四位下に叙せられる。
*天平18年([[746年]])5月2日、[[武蔵国|武蔵]][[国司|守]]となる。 ▼
*天平勝宝5年(753年)7月11日、死去。時に散位・従四位下。 ▼
優れた[[学者]]として重んじられ、その才能を賞賛されて和銅8年︵[[715年]]︶および[[霊亀]]3年︵[[717年]]︶に[[籾]]百石を賜与された。また、[[養老]]5年︵721年︶正月には[[橘佐為|佐為王]]・[[紀男人]]・日下部老・[[山上憶良]]らと共に、退庁後は[[皇太子]]・首親王︵のちの[[聖武天皇]]︶の身近に仕えて学芸を教授するよう命じられ、さらに同月[[元正天皇]]が[[学問]]に優れた者を褒賞した際には、[[紀伝道|文章]]に優れるとして[[山田御方]]らとともに絁などを賜与されている。養老7年︵[[723年]]︶従五位上。
*祖父:[[紀大人]]?…『[[尊卑分脈]]』による。
聖武朝では、[[京職|右京亮]]・[[治部省|治部大輔]]・[[文章博士]]を歴任し、この間の天平15年︵[[743年]]︶[[正五位|正五位下]]に叙せられている。天平16年︵[[744年]]︶2月に聖武天皇が[[恭仁京]]から[[難波京]]に遷都した際に[[平城宮]]の留守役を務めた。また、同年7月にはかつて父・国益と紀男人との間の[[奴婢]]所有をめぐった争いに対する裁判の結果、奴婢は清人の所有となり、清人は[[上表]]して奴婢を[[良民]]としている。同年11月[[従四位|従四位下]]に昇叙。天平18年︵[[746年]]︶年正月の元正上皇の御在所の肆宴で応詔歌を詠み、この作品が﹃[[万葉集]]﹄に採録されている<ref>﹃万葉集﹄巻17-3923</ref>。同年5月[[武蔵国|武蔵]][[国司|守]]。
*父:紀国益
*母:不明
▲*[[天平勝宝 ]]5年 (753([[753年 ]])7月11日 、死卒去。 時に最終官位は散位 ・従四位下。
**弟:[[紀諸人]]?…『尊卑分脈』による。
▲*[[ 霊亀和銅]] 元8年([[715年]] )1) 1月10日 、:[[従五位|従五位下 に叙せられる。]]
▲* [[養老 ]]7年([[723年]] )1) 1月10日 、:従五位上 に叙せられる。
▲*[[天平]]4年 (732([[732年 )10]]) 10月17日 、:[[ 京職|右京亮]] となる。
▲*天平13年([[741年]] )7) 7月3日 、:[[ 治部省|治部大輔]]兼 [[文章博士 となる。]]
▲*天平15年([[743年]] )5) 5月5日 、:[[正五位|正五位下 に叙せられる。]]
*天平16年([[744年]]) 2月2日:[[平城宮]]の留守官。11月21日:[[従四位|従四位下]]
▲*天平18年([[746年]] )5) 5月2日 、:[[武蔵国|武蔵]][[国司|守]] となる。
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
*宇治谷 孟『続日本紀 (上)』[[講談社学術文庫]]、1992年
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