「紫式部」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m →略伝 タグ: 差し戻し済み |
|||
(10人の利用者による、間の24版が非表示) | |||
22行目:
| movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動-->
| religion = <!--信仰する宗教-->
| notable_works = {{ubl|'''小説'''|『[[源氏物語]]』|'''日記'''|『[[紫式部日記]]』(18首)|'''和歌'''|『[[百人一首]]』(57番)|『[[紫式部集]]』|『[[拾遺和歌集]]』|『[[勅撰和歌集]]』(計51首)<ref>{{Cite Kotobank|word=紫式部|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典|access-date=2020
| spouse = [[藤原宣孝]]
| partner = <!--結婚していない仕事のパートナー(親族など)-->
37行目:
'''紫 式部'''(むらさき しきぶ)は、[[平安時代]]中期の[[歌人]]・[[作家]]・[[女房]]([[女官]])。
﹃[[源氏物語]]﹄の作者とされ、この作品は生涯で唯一の[[日本文学|物語]]作品となった。歌人としては、﹃[[百人一首]]﹄の[[和歌]]が知られており、﹃[[紫式部日記]]﹄(18首)、﹃[[紫式部集]]﹄、﹃[[後拾遺和歌集]]﹄などにも和歌を残し、和歌795首が詠み込まれた。﹃[[中古三十六歌仙]]﹄、﹃[[女房三十六歌仙]]﹄の一人でもある。また、娘の[[大弐三位]]も﹃百人一首﹄、﹃女房三十六歌仙﹄の歌人として知られる。 [[ファイル:Hyakuninisshu 057.jpg|thumb|200px|紫式部 [[百人一首]] 57番「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」]]
54行目:
[[寛弘]]2年︵[[1005年]]︶頃に評判を聞いた[[藤原道長]]に召し出され、その娘で、[[一条天皇]]の[[中宮]][[藤原彰子|彰子]]に仕える間に、藤原道長の支援のもと﹃源氏物語﹄を完成させた<ref>﹃百科事典[[マイペディア]]﹄﹁紫式部﹂の項︵[[平凡社]]、[[2006年]]︶</ref>。なお、﹃[[紫式部集]]﹄には夫の死に伴い詠んだ和歌﹁見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦﹂が収められている{{efn|name="shikibu-waka"|意味は﹁夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う﹂。﹁塩釜﹂は[[海藻]]を焼き塩を取ることで知られる地名で、現在の[[宮城県]][[塩竈市]]。}}。 作品については、[[歌人]]として、『[[百人一首]]』に収められている[[和歌]](57番)「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」は広く知られており、[[平安時代]]末期に[[中古三十六歌仙]]、[[鎌倉時代]]中期に[[女房三十六歌仙]]に、それぞれ選出された。また子供時代から晩年のほぼ一生涯にわたり自らが詠んだ[[和歌]]から選び収めた[[家集]]『[[紫式部集]]』があり、実名や生没年が不明で資料が少ない紫式部の生活環境の変化や心の変化を知ることができ、平安文学や日本古代中世史などの研究者にとって貴重な資料でもある<ref>[[南波浩]]校注『紫式部集』 (岩波文庫、1973年10月16日)前書き</ref>。そして『[[拾遺和歌集]]』以下の[[勅撰和歌集]]には計51首の和歌が収められている<ref>{{Cite Kotobank|word=紫式部|encyclopedia=朝日日本歴史人物事典|access-date=2020
[[物語 (日本文学)|物語]]作品では、54帖から成る﹃[[源氏物語]]﹄の作者とされ、和歌795首が詠み込まれ、400年にも及ぶ[[平安時代]]で[[貴族#日本|貴族]]階級が最も勢いのあった平安中期の貴族社会が描かれている。文章ではなく[[和歌]]で描く男女間の核心部分の描写力{{Refnest|group="注釈"|一例として、﹁[[若紫]]﹂の帖で、光源氏が10歳の少女(*)を家に迎え﹁書﹂や﹁琴﹂など教え教養豊かに育て少女が成人し14歳の夜に突如男女の関係にしてしまう場面は(﹁[[葵 (源氏物語)|葵]]﹂の帖)、文章にはその夜の描写・記述は一切ない。朝、枕元のすずり箱に置いてあった和歌﹃あやなくも隔てけるかな夜を重ね さすがに馴れし夜の衣を(*2)﹄のみが読者にその夜の出来事を知らせている。ちなみに少女は父親のように慕った相手から突然思いもしないことをされて心に負った傷は深く以後かなり長く光源氏を拒絶することになる<ref name="Mitamura">NHK出版 100分de名著﹃源氏物語﹄ 第2章、[[三田村雅子]] (2012/3/24) [[日記文学|日記]]作品では、[[藤原道長]]の要請で[[宮中]]に上がった際、宮中の様子をはじめ藤原道長邸の様子などを記した﹃[[紫式部日記]]﹄を残しており、これには和歌18首が詠み込まれている。この日記は[[寛弘]]5年([[1008年]])7月から約1年半にわたる日記で、随所に宮中行事の様子も記され、宮中内の者しか知り得ない現場の様子もよくわかり、行事の開催など事実だけを記載する公的歴史記録では知ることができないものである<ref>﹃紫式部日記 現代語訳付き﹄ (角川ソフィア文庫) 前書き。2010/8/25</ref>。また紫式部が女性仲間と物語に関して批評し合い楽しんでいた様子なども書かれており<ref>﹁︵34︶里居物憂い心、11月15日前後﹂p,205~。日本古典文学全集18﹁和泉式部日記 紫式部日記 更級日記 讃岐典侍日記﹂小学館</ref>、この日記は源氏物語執筆のきっかけを知ることができる第一級の資料でもある<ref>NHK出版﹁100分de名著﹂ブックス﹃源氏物語﹄P27~P28、三田村雅子。 == 略伝 ==
73行目:
[[寛弘]]2年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]︵[[1006年]][[1月31日]]︶、もしくは[[寛弘]]3年の同日︵[[1007年]][[1月20日]]︶より、一条天皇の[[中宮]]・[[藤原彰子|彰子]]︵[[藤原道長]]の長女、のち[[院号]]宣下して上東門院︶に[[女房]]兼︵現代でいえば︶[[家庭教師]]役として仕え、少なくとも寛弘8年︵[[1012年]]︶頃まで奉仕し続けたようである。 なお、これに先立ち、近代以降の伝記では顧みられることのなかった説として、[[永延]]元年︵[[987年]]︶の藤原道長と[[源倫子]]の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕した また明確な記録は存在しないが、[[村上天皇]]の皇子である[[具平親王]]は[[光源氏]]のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の[[藤原為頼|為頼]]と交流があった可能性がある。具平親王の母[[荘子女王]]と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は﹁藩邸之旧僕﹂と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また紫式部日記には道長が具平親王の息女[[隆姫女王]]を嫡男[[藤原頼通|頼通]]へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの﹁心よせのある人﹂として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。<ref>{{Cite journal|last=美喜子|first=藍| 『[[詞花和歌集|詞花集]]』に収められた[[伊勢大輔]]の「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」という和歌は宮廷に献上された八重桜を受け取り中宮に奉る際に詠んだものだが、『伊勢大輔集』によればこの役目は当初紫式部の役目だったものを式部が新参の大輔に譲ったものだった。
[[藤原実資]]の日記﹃[[小右記]]﹄[[長和]]2年[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]︵[[1014年]][[6月25日]]︶条で﹁実資の甥で養子である[[藤原資平]]が実資の代理で皇太后彰子のもとを訪れた際﹃越後守為時女﹄なる女房が取り次ぎ役を務めた﹂旨の記述が紫式部で残された最後のものとし、よって[[三条天皇]]の長和年間︵[[1012年]] - [[1016年]]︶に没したとするのが[[昭和]]40年代までの通説だったが、現在では、﹃小右記﹄寛仁3年正月5日︵[[1019年]][[2月18日]]︶条で、実資に応対した﹁女房﹂を紫式部本人と認め<ref name="tsunoda-1966-name">[[角田文衞]]﹁紫式部の本名﹂﹃紫式部とその時代﹄︵[[角川書店]]、1966年︶。</ref>、さらに、西本願寺本﹃[[平兼盛|平兼盛集]]﹄巻末逸文に﹁おなじ宮の藤式部、…式部の君亡くなり…﹂とある詞書と和歌を、岡一男説<ref>岡一男﹁紫式部の晩年の生活附説 紫式部の没年について ﹃平兼盛集﹄を新資料として﹂︵﹃増訂 源氏物語の基礎的研究 紫式部の生涯と作品﹄[[東京堂出版]]、[[1966年]]︶pp. 143-170。</ref>の﹃[[藤原頼宗|頼宗集]]﹄の逸文ではなく、﹃定頼集﹄の逸文と推定し、この詠歌以前には死亡していたとする萩谷朴説<ref>萩谷朴﹁解説・作者について﹂︵﹃紫式部日記全注釈﹄下巻、 角川書店、[[1973年]]8月︶pp. 467-508 ISBN ISBN 978-4047610217。</ref>、今井源衛説が存在する。さらに[[森本元子]]は、この逸名歌集の編纂者を[[藤原道綱]]の娘豊子・美作三位とし、没年時は萩谷説に矛盾はないとした<ref>{{Cite book|和書 |title=森本元子﹁西本願寺本兼盛集付載の佚名家集―その性格と作者﹂﹃古典文学論考 枕草子 和歌 日記﹄ |date=1998 現在、[[日本銀行券]]の[[D号券]]の[[2000円札]]の裏には小さな肖像画と『[[源氏物語絵巻]]』の一部を使用している。
93行目:
幼名は、﹃紫式部集﹄の宣孝と思しき人物の詠歌に﹁ももといふ名のあるものを時の間に散る桜にも思ひおとさじ﹂から、﹁もも﹂を幼名と解釈する研究者もいる<ref>[[上原作和]]﹁紫式部伝4-生い立ちI-幼名﹁もも﹂説の提唱﹂上原作和・編集﹃人物で読む源氏物語﹄﹁藤壺の宮﹂巻︵[[勉誠出版]]、[[2005年]]5月︶pp. 317-319 ISBN 978-4-585-01144-6。</ref>。 [[諱]]は、﹃[[御堂関白記]]﹄の[[寛弘]]4年[[1月29日 (旧暦)|1月29日]]︵[[1007年]][[2月19日]]︶の条で[[掌侍]]になったとされる記事にある﹁'''藤原香子'''﹂︵かおるこ/たかこ/こうし︶とする[[角田文衛]]︵1963年︶説がある<ref name="tsunoda-1966-name" />{{efn|なお、発表後にあった批判に対する反論と誤謬の訂正を加え、﹃紫式部伝― その生涯と﹃源氏物語﹄―﹄︵法蔵館、2007年︶に角田説は集大成されている。}}。ただし、推論の過程に誤りが含まれるとの批判があり<ref>今井源衛﹁紫式部本名香子説を疑う﹂︵﹃国語国文﹄34巻1号、[[1965年]]︶ のち﹃王朝文学の研究﹄︵角川書店、[[1976年]]︶および﹃今井源衛著作集3紫式部の生涯﹄に収録。</ref>、また、もし紫式部が﹁[[掌侍]]﹂という[[律令制]]に基づく公的な地位を有していたのなら、﹁紫内侍﹂や﹁式部内侍﹂として[[勅撰集]]や系譜類に何らかの言及があると思えるがその痕跡が全く見えないとする批判もある<ref>岡一男﹁紫式部の本名 藤原香子説の根本的否定﹂︵﹃増訂 源氏物語の基礎的研究 -紫式部の生涯と作品-﹄東京堂出版、[[1966年]]8月︶pp. 598-613。</ref>。その後、萩谷朴の香子説追認論文<ref>萩谷朴﹁解説・作者について﹂﹃紫式部日記全注釈﹄下巻︵角川書店、[[1973年]]8月︶pp. 467-508 ISBN ISBN 978-4047610217 </ref>も提出されているが、以降、積極的な検討は停滞している。 [[三枝和子]]『香子の恋 小説 紫式部』、[[帚木蓬生]]『香子 紫式部物語』全5巻のように、創作ではタイトルに香子が採用されている例もある。
127行目:
* [[治安 (元号)|治安元年]]︵1021年︶春を西本願寺本﹃平兼盛集﹄巻末逸名歌12首の詠作年次とし、疫病蔓延の前年︵1020年︶暮れまでに没したとする上原作和説<ref>{{Cite book|和書 |title=紫式部伝-平安王朝百年を見つめた生涯 |date=2023-10-20 |year=2023 |publisher=勉誠社 |page=295-301 |isbn=978-4585390350}}</ref>。 * [[万寿]]2年([[1025年]])以後の没とする安藤為章による説(『[[栄花物語]]』「楚王の夢」の解釈を根拠として娘の大弐三位が後の[[後冷泉天皇]]の[[乳母]]となった時点で式部も生存していたと考えられるとする)。
* ﹃[[小右記]]﹄に見える﹁女房﹂を紫式部とすれば、万寿、長元年間まで生存していたとする倉本一宏説<ref>{{Cite book|和書 |title=紫式部と藤原道長 |date=2023- * 長元4年︵[[1031年]]︶没とする角田文衛による説︵﹃[[続後撰和歌集|続後撰集]]﹄に長元3年8月︵[[1030年]]︶に創建された[[東北院]]で詠まれた作品が確認出来ることなどを理由とする︶<ref>角田文衞﹁紫式部の歿年﹂︵﹃紫式部とその時代﹄角川書店、[[1971年]]︶所収、のち﹃紫式部伝―その生涯と﹁源氏物語﹂﹄︵[[法藏館]]、2007年︶pp. 216-241。</ref>。ただし、この詠歌は﹃紫式部集﹄からの再録であり、本来の詞書﹁土御門院﹂を、再録に際して﹁東北院﹂と改めたに過ぎない。 === 墓所 ===
紫式部の[[墓]]と伝えられる古蹟が[[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野西御所田町︵堀川北大路下ル西側︶に残されており、[[小野篁]]の墓とされるものに隣接して建てられている(﹃[[河海抄]]﹄の記述に合致)。この場所は[[淳和天皇]]の[[離宮]]があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に[[大徳寺]]の別坊となった[[雲林院]]百毫院の南にあたる。京都市の建札によれば、この場所から[[東北地方|東北]]の地域はかつては[[小野氏]]の領地だったが、後に[[藤原氏]]の所有となった。<ref>{{Cite book|和書 |title=観世三十三巻 |date=1966-12 === その他 ===
146行目:
殆ど陰口ともいえる辛辣な批評である。これらの表記は近年に至るまで様々な憶測や、ある種野次馬的な興味︵紫式部が清少納言の才能に嫉妬していたのだ、など︶を持って語られている。本人同士は年齢や宮仕えの年代も10年近く異なるため、実際に面識は無かったとされることが多いが、面識の有無を証する文献はない。定子没後の清少納言の動静については、夫の[[藤原棟世]]と摂津に赴いたことが﹃清少納言集﹄から知られるが、同時に一条天皇からの使いが来たことも記されている。[[角田文衞|角田文衛]]は、定子の遺児・[[媄子内親王]]、[[脩子内親王]]を養育するために再出仕し、そこで紫式部らとの接触があったと推定しているが根拠はない<ref>{{Cite journal|和書|author=角田文衛|year=1970|title=晩年の清少納言|journal=王朝の映像|page=390-430}}</ref>。この清少納言評に関しては、﹃紫式部日記﹄の政治的性格を重視する視点から、清少納言の﹃枕草子﹄が故皇后・[[藤原定子|定子]]を追懐し、紫式部の主人である中宮・彰子の存在感を阻んでいることに苛立ったためとする解釈もある<ref>山本淳子﹁﹃紫式部日記﹄清少納言批評の背景﹂︵﹃古代文化﹄2001年9月号︶。</ref>。 なお紫式部の娘の大弐三位の子の[[高階為家]]と、清少納言の娘の[[上東門院小馬命婦]]の娘と関係があったことを示す歌が『[[
{{quotation|[[高階為家|為家朝臣]]、物言ひける女にかれがれに成りて後、みあれの日暮にはと言ひて、葵をおこせて侍ければ、娘に代はりて詠み侍りける 小馬命婦
205行目:
:* あおむら純『紫式部(小学館版学習まんが 少年少女人物日本の歴史)』([[小学館]]、1984年)
:* [[千明初美]]『紫式部(学習漫画日本の伝記)』([[集英社]]、1988年)
:* 蛇蔵&海野凪子『日本人なら知っておきたい日本文学』(幻冬舎、2011年)
:* [[そにしけんじ]]『[[ねこねこ日本史]]』([[実業之日本社]]、2014年 - 、[[Eテレ]]アニメ版の声は[[小林ゆう]])
:* 北神諒『紫式部(学研まんがNEW日本の伝記)』(学研プラス、2015年)
|