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[[寛弘]]2年[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]︵[[1006年]][[1月31日]]︶、もしくは[[寛弘]]3年の同日︵[[1007年]][[1月20日]]︶より、一条天皇の[[中宮]]・[[藤原彰子|彰子]]︵[[藤原道長]]の長女、のち[[院号]]宣下して上東門院︶に[[女房]]兼︵現代でいえば︶[[家庭教師]]役として仕え、少なくとも寛弘8年︵[[1012年]]︶頃まで奉仕し続けたようである。 なお、[[永延]]元年︵[[987年]]︶の藤原道長と[[源倫子]]の結婚の際に、倫子付きの女房として出仕したとする説がある。﹃源氏物語﹄解説書の﹃[[河海抄]]﹄﹃[[紫明抄]]﹄や歴史書﹃[[今鏡]]﹄には紫式部の経歴として倫子付き女房であったことが記されている。しかし、他にも﹃紫式部日記﹄からうかがえる、新参の女房に対するものとは思えぬ道長や倫子からの格別な信頼・配慮があること、永延元年当時は為時が散位であったこと、倫子と紫式部はいずれも曽祖父に藤原定方を持ち遠縁に当たることなどが挙げられる。また[[女房名]]からも、為時が式部丞だった時期は彰子への出仕の20年も前であり、その後越前国の国司に任じられているため、寛弘2年に初出仕したのであれば父の任国﹁越前﹂や亡夫の任国・役職の﹁[[山城国|山城]]﹂﹁右衛門権佐﹂にちなんだ名を名乗るのが自然なので、初出仕の時期は寛弘2年以前であるとする説である<ref>徳満澄雄﹁紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか﹂︵﹃語文研究﹄第62号、[[1986年]]︶pp. 1-12</ref>。しかし和泉式部の父は越前の国司だったが式部と呼ばれており{{Sfnp|三省堂編修所|2009|p=108}}、また清少納言の父は周防の国司であったが少納言と呼ばれていることから<ref>岸上[1962: 28]</ref><ref>﹃日本紀略﹄天延元年5月3日条</ref>、女房名から出仕の時期の判別は困難である。なお、紫式部の生年を最も有力な天元元年︵978年︶説をとると<ref>島津久基﹃日本文学者評伝全書 紫式部﹄青梧堂、1943年。</ref>永延元年には10歳に過ぎず宮中に出仕することは困難である。 また明確な記録は存在しないが、[[村上天皇]]の皇子である[[具平親王]]は[[光源氏]]のモデルのひとりともされ、為時や紫式部、その兄の[[藤原為頼|為頼]]と交流があった可能性がある。具平親王の母[[荘子女王]]と為頼・為時兄弟の母は従姉妹の関係であり、為時は﹁藩邸之旧僕﹂と題し詩に読み、古くからの親しい交流があったことを示している。また紫式部日記には道長が具平親王の息女[[隆姫女王]]を嫡男[[藤原頼通|頼通]]へ降嫁させるための相談を、式部を具平親王家からの﹁心よせのある人﹂として持ちかけていることなどから、紫式部自身も具平親王と知古があったとする説である。<ref>{{Cite journal|last=美喜子|first=藍|date=1998|title=紫式部と六条の宮・具平親王|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/koshient/16/0/16_123/_article/-char/ja/|journal=甲子園短期大学紀要|volume=16|pages=123–133|doi=10.24699/koshient.16.0_123}}</ref> |