「細川韶邦」の版間の差分
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'''細川 韶邦'''︵'''ほそかわ 幼名は訓三郎、六之助。名はほかに護順、慶順。[[万延]]元年︵[[1860年]]︶、父・斉護の死によって家督を継ぎ、新たな藩主に就任する。[[尊皇攘夷]]には消極的な人物で、[[文久]]2年︵[[1862年]]︶に[[肥後勤王党]]が分裂したのを契機として藩論を尊王論に統一した。[[慶応]]2年︵[[1866年]]︶、[[長州藩]]の[[高杉晋作]]が[[小倉藩]]を攻撃したとき、小倉藩側に与して戦ったが、隣国の[[薩摩藩]]などの動向が気にかかることもあって、わずかに戦って敗れた後、即座に撤退している。慶応4年︵[[1868年]]︶、新政府側に与する意思を示すため、慶順から名を改めた。慶順は第12代将軍・[[徳川家慶]]から一字を賜ったものであり、それを返上したのである。 [[明治維新]]後は[[熊本県|熊本]][[藩知事]]となったが、明治3年([[1870年]])に弟の護久にその座を譲って隠退した。
▲{{先代次代|[[熊本藩|細川氏(熊本藩11代)当主]]|1860~1870|[[細川斉護]]|[[細川護久]]}}
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