「織田信長」の版間の差分
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もっとも、京都やその周辺の人々はようやく尾張・美濃を平定したばかりの信長を実力者とは見ておらず、最初のうちは義昭が自派の諸将を率いて上洛したもので、信長はその供奉の将という認識であったという{{Sfn|久野雅司|2015a|pp=20-21}}{{Sfn|久野雅司|2015b|p=251-252}}。 足利義昭を第15代将軍に擁立した信長は、義昭から管領・斯波家の家督継承もしくは管領代・[[副将軍]]の地位などを勧められたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り、遠慮したとされる{{Efn|のちに、義昭は[[毛利輝元]]にも足利家の桐紋を与えている{{Sfn|村川浩平|2000|p=50}}。}}。また、[[草津市|草津]]と[[大津市|大津]]、[[堺]]の土地を貰った。 ==== 幕府再興 ====
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