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== あらすじ ==
{{節スタブ|1=書かれていない節について|date=2019年10月}}
=== 第一巻 ===
;義朝都落の事
:義経の父[[源義朝]]は[[平治]]元年︵[[1160年]]︶[[12月27日]]に[[平治の乱]]にて[[藤原信頼]]側に属すも、京での戦に敗北し、先祖代々仕えてきた家来たちを失い、残り20数騎で成人していた三人の子供を連れて東国へ落ち延びる<ref>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、p. 36.</ref>。嫡子の[[源義平|義平]]は[[越前]]にて北国の加勢を得ようとするも失敗し、[[近江]]の[[石山寺]]に籠城するも平家の追手を差し向けられ、京都の[[六条河原]]にて斬り殺される<ref>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、pp. 36-37.</ref>。次男の[[源頼長|頼長]](16)も山賊の矢で膝を射られ、[[美濃]]の[[青墓宿]]にて没する<ref name=okami_p37>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、p. 37.</ref>。義朝はそれ以外にも多くの子供を儲けていて、熱田大宮司の娘で後に三河守と名乗る女性に一人、[[九条家|九條院]]の[[常盤御前]]は7歳の今若、5歳の乙若、その年に生まれたばかりの牛若がいた<ref name=okami_p37/>。 ;常盤都落の事
=== 第八巻 ===
;判官御自害の事
[[十郎権頭兼房]]に促され、義経はいまの劔︵つるぎ︶という[[三条宗近|三条小鍛冶宗近]]が[[鞍馬寺]]が制作、奉納し別当の東光坊が名付けて守り刀として与えられた刃長6[[寸]]5[[分]]の[[短刀]]を用いて左胸下部を刺し貫き、内臓を抉りだした後に衣服の袖で拭う<ref name=okami_p383>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、p. 383.</ref>。北の方も敵の近づく中嘆きながらも自害し<ref>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、pp. 384-385.</ref>、5歳の亀鶴御前と生後7日の姫君を兼房は切り殺す<ref>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、pp. 385-386.</ref>。義経は北の方の亡骸の手を取り、兼房に宿所を火にかけるよう命じると絶命する<ref>[[#岡見 1992|岡見 1992]]、p. 386.</ref>。 == 義経記関連画像 ==
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== 参考文献 ==
<!-- 実際に参考にした文献一覧︵本文中の追加した情報の後に脚注を導入し文献参照ページを示して、実際に参考にした出典︿書籍、論文、資料やウェブページなど﹀のみを列挙して下さい。さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献は、﹁関連文献﹂などとセクション名を分けて区別して下さい。︶ --> *{{Citation|和書|author=[[岡見正雄]](校注)|title=義経記|publisher=岩波書店|edition=新装|date=1992-10-07|series=日本古典文学大系 歴史文学シリーズ|isbn=4000045008|ncid=BN08465262|ref=岡見 1992}}
== 関連文献 ==
<!-- 実際には参考にしていないが、さらにこの項目を理解するのに役立つ関連した文献︵書籍、論文、資料、ウェブページなど︶一覧︵実際に参考にしているのではないので過多にならないように、多すぎたら除去。宣伝はご遠慮下さい、宣伝は除去。実際に参考にした文献は脚注を導入し﹁参考文献﹂節へ追加して下さい。︶ --> * [[岡見正雄]]校注 『[[日本古典文学大系]]37 義経記』 [[岩波書店]]、初版1959年。
* [[梶原正昭]]校注・訳 『[[日本古典文学全集]]31 義経記』 小学館、初版1971年。
** 『新編 日本古典文学全集62 義経記』 [[小学館]]、2000年。
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