「耽羅」の版間の差分
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| 公用語 =
| 宗教 =
| 首都 = [[:ko:성주청|星主庁]]→[[:ko:제주목 관아|済州牧満衙]]
| 言語 = 耽羅語
|元首等肩書 = 王 / 星主
|元首等年代始1 =
|元首等年代終1 = 1402年
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高麗に代わった[[李氏朝鮮]]は、地方制度を改革して国家の基盤を確立したが、耽羅もこのような施策に順応し、[[1402年]]に星主の高峰礼と王子の文忠世が入朝し、星主·王子の称号が分数にあふれるので改称してくれることを要請した。これに対し朝廷では星主を左都之官、王子を牛都之官に変えた。 これで耽羅王の別名だった星主が耽羅を管掌した16代464年間にわたる耽羅国の星主時代が終わった<ref>[[#文(2008)|文(2008:28)]]</ref><ref name="#1"/>。 ==
﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄﹃[[後漢書]]﹄によれば、耽羅の前身である[[州胡]]の人は言語が[[三韓|韓]]と異なり、背が低く、[[鮮卑]]︵[[匈奴]]あるいは[[烏桓]]も含む︶のように髪を剃った[[弁髪]]の風習を持ち<ref name="魏志"/>、上半身に革の衣を着たが下が覆われず裸に近い。牛と猪を飼い、船で往来して韓と交易した。これは当時の韓の風俗として記されるものと大きく異なっている。 145行目:
日本に来た耽羅国の使者としては、﹁[[阿波伎]]﹂、﹁[[姑如]]﹂、﹁椽磨﹂、﹁[[久麻伎]]﹂、﹁[[都羅]]﹂、﹁[[宇麻]]﹂等の名が知られている。いずれも耽羅の固有語を[[万葉仮名]]のように表したものだと思われるが、やはり意味などは分かっていない。 [[アレキサンダー・ボビン]]は済州島の古名は「tammura」であり、[[日本語]]では「谷村」「民村」と分析できると指摘している。したがって[[15世紀]]以前のある時期に朝鮮語話者に取って代わられるまでは、済州島には日本語話者が存在していたと結論づけた<ref>{{Cite journal|last=Vovin|first=Alexander|date=2013-01-01|title=From Koguryǒ to T’amna: Slowly riding to the South with speakers of Proto-Korean|url=https://www.jbe-platform.com/content/journals/10.1075/kl.15.2.03vov|journal=Korean Linguistics|volume=15|issue=2|pages=222–240|language=en|doi=10.1075/kl.15.2.03vov|issn=0257-3784}}</ref>。
== 支配者 ==
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{{DEFAULTSORT:たんら}}
[[Category:耽羅|*]]
[[Category:朝鮮史の国]]
[[Category:済州特別自治道の歴史]]
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