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当時の記録によれば、耽羅には既にピョル主または星主、王子または星子、徒内と呼ばれる支配者が存在していた。これらの称号は新羅[[文武王]]が与えたとする文献もある。いずれにせよ、耽羅支配者のこのような称号は後世まで続いた。耽羅星主が筆頭格で、これを王とする。 [[東シナ海]]の海上交通の要衝であった耽羅国は海上貿易の拠点となり、[[9世紀]]の商人[[張保皐]]︵生年不明 - [[846年]]︶は新羅王の認可の下、耽羅と[[莞島]]を拠点に新羅、唐、日本の三国との貿易を盛んにし、北は日本の[[能登半島]]︵[[石川県]]︶や[[十三湊]]︵[[青森県]][[五所川原市]]︶から南は[[広州]]、西は[[山東半島]]に及ぶ海上貿易を行い、航海安寧のために[[観世音菩薩]]を祀るための[[法華寺 (曖昧さ回避)|法華寺]]を耽羅と莞島に、[[赤山法華院]]を山東半島に建立し、この三寺院の建立によって耽羅は[[大乗仏教]]による共通の信仰と共に[[東アジア|東亜]]世界と結ばれた<ref>[[#文(2008)|文(2008:22-23)]]</ref>。 [[935年]]に[[新羅]]が滅亡すると、耽羅はしばらく独立したが、[[938年]]に耽羅国の星主の[[高自堅]]は[[高麗]]に服属した<ref>[[#文(2008)|文(2008:24)]]</ref>。高麗は[[1105年]]に﹁耽羅郡﹂を設置し、[[1108年]]に﹁済州郡﹂に改称、ここで﹁耽羅国﹂としての歴史は途切れた<ref>[[#高野(1996)|高野(1996:16)]]</ref>。 |