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== 歴史 ==
耽羅の起源については太古の昔、高・梁・夫の三兄弟が穴から吹き出してきたとする[[三姓神話]]がある。それによると、高・梁・夫の三兄弟が、東国の碧浪国︵ <br />瀛州と呼ばれ、未だ人の住まない太古の済州に、良乙那、高乙那、夫乙那の3つの姓のある三人の神人が、漢拏山の北山麓の地の、三姓穴に現れ、これが済州人の先祖である。ある日、漢拏山を展望していた彼らは、北の海の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の日本国から来たという使者と美しい三人の姫、家畜や五穀の種が入っていた。三人の神人は、彼女達を妻として迎え、産業と五穀の栽培を始めて集落をつくった。|高麗史|巻五十七}}{{Wikisourcelang|zh|高丽史57卷}}</ref>。歴史的な記録としては[[3世紀]]の[[中国]]の史書﹃[[三国志 (歴史書)|三国志]]﹄魏志東夷伝に見える[[州胡]]が初見であり、朝鮮人とは言語系統を異なるものとするのが通説である<ref>﹃[[魏志]]﹄巻30烏丸鮮卑東夷伝‥又有州胡在馬韓之西海中大島上,其人差短小,<span style="color:#ff0000;">言語不與韓同</span>,皆髠頭如鮮卑,但衣韋,好養牛及豬。其衣有上無下,略如裸勢。乘船往來,市買韓中。</ref>。 ﹃[[三国史記]]﹄では耽羅が[[476年]]に[[百済]]の[[文周王]]に[[朝貢]]し<ref>﹃三国史記﹄26百済本紀4︵文周王2年4月条︶‥耽羅國獻方物。王喜拜使者爲恩率。</ref>、[[498年]]に百済の[[東城王]]に服属した<ref>﹃三国史記﹄26百済本紀4︵東城王20年8月条︶‥王以耽羅不修貢賦親征至武珍州。耽羅聞之遣使乞罪乃止。耽羅即耽牟羅。</ref>とあるように、[[498年]]以後は百済に[[朝貢]]していた。しかし[[660年]]百済が[[唐]]・[[新羅]]連合軍の侵攻によって突如滅亡すると、耽羅は大混乱に陥った。[[662年]]には新羅に服属したとみられる<ref>﹃三国史記﹄6新羅本紀6︵文武王2年2月6日条︶‥耽羅國主佐平徒冬音律︻一作津︼來降。耽羅自武德以來臣屬百濟。故以佐平爲官號。至是降爲屬國。</ref>が、このとき唐から帰国する[[日本]]の[[遣唐使]]船がたまたま耽羅に寄港し、唐軍の侵攻を恐れる耽羅はしばらく日本に朝貢を送り続けたという記録が﹃[[日本書紀]]﹄にある。また、[[継体天皇]]二年︵五〇八︶﹃南海中耽羅人初通百済国﹄とあり、日本書紀では、百済と初めて通じたのが[[508年]]と記録されている。 153 ⟶ 154行目:
日本に来た耽羅国の使者としては、﹁[[阿波伎]]﹂、﹁[[姑如]]﹂、﹁椽磨﹂、﹁[[久麻伎]]﹂、﹁[[都羅]]﹂、﹁[[宇麻]]﹂等の名が知られている。いずれも耽羅の固有語を[[万葉仮名]]のように表したものだと思われるが、やはり意味などは分かっていない。 [[アレキサンダー・ボビン]]によると、'''「耽羅」'''という名称は、日本語の「たにむら(谷村, 'valley settlement')」や 「たみむら(民村, 'people's settlement')」で分析することができるという。したがってボビンは
== 支配者 ==
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=== 註釈 ===
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=== 出典 ===
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