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'''聖宝'''(しょうぼう、[[天長]]9年([[832年]]) - [[延喜]]9年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]([[909年]][[8月29日]]))は、[[平安時代]]前期の[[真言宗]]の僧。[[醍醐寺]]の開祖で、真言宗[[小野流]]の祖。また、後に当山派[[修験道]]の祖とされる。俗名は恒蔭王。[[天智天皇]]の6世孫にあたり、父は葛声王(かどなおう)という。[[諡|諡号]]は理源大師。『[[古今和歌集]]』に歌1首あり<ref>『古今和歌集』巻十「物名」所収。春を主題に、最初の字を「は」、末尾を「る」とし、さらに「眺め」を掛詞にせよ、という難しい注文に応えた技巧的な歌である。</ref>。
[[空海]]の実弟[[真雅]]の入室弟子で、[[源仁]]︵真雅の弟子︶の付法弟子。出家から長い間[[三論宗]]を中心に南都諸宗を学び、元来、真言宗では傍流的位置にいたが、壮年期以降、本格的に受法して真言密教正嫡となり、[[宇多天皇]]の厚い帰依を受けて[[東寺長者]]、[[僧正]]などの重職に昇った。貴顕社会との交流を重視した師真雅に対して、華美や権勢と一定の距離を置き、清廉潔白・豪胆な人柄として知られ、真雅在世中、真言宗で傍流的位置にとどまっていたことなどから、真雅との確執すらも言われている。また、[[役小角]]に私淑して[[吉野]]の[[金峰山]]︵きんぷせん︶で山岳修行を行うとともに、参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力した。これが後に、聖宝を役小角以降途絶えていた修験道の再興の祖とする伝承を生んだ。聖宝の著作と伝えられる修験道関係の書は、今日では、すべて聖宝に仮託して後世に書かれたものとみられている。 |