脇田直賢
脇田 直賢︵わきた なおたか、1585年︵天正13年︶ - 1660年︵万治3年︶︶は、江戸時代初期の加賀藩藩士。金沢町奉行。朝鮮の漢城生まれで、初名は金如鉄。
翰林学士の息子であったが、1592年に文禄の役で孤児となり、宇喜多秀家によって岡山に連れられ、秀家の正室・豪によって養育される。翌年、所用で豪が実兄の前田利長を訪ねた際に、利長の正室永姫︵玉泉院︶が供をした如鉄を気に入り、玉泉院が養育することになる。
1605年頃、玉泉院の斡旋で家臣の脇田家︵禄高450石︶の養子となり、脇田直賢を名乗る。大坂夏の陣で戦功があり、御小姓頭、金沢町奉行等を務め、禄高1500石に出世した。高山右近の影響を受け、隠れキリシタンであったとされる。