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辞典空間に貴賤の別は無く、いかなる相手にも中立のため、本文中は皇族・王族と言えども(名詞化したもの、引用文等を除き)敬称・敬語・丁寧語表現は付けない。 タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 改良版モバイル編集 |
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== 生涯 ==
[[東京市]][[京橋区]]入船町8丁目︵現・[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[明石町 (東京都中央区)|明石町]]︶に[[牛乳]]製造販売業を営む新原敏三、フクの長男として生まれる<ref>[[上田正昭]]、[[津田秀夫]]、[[永原慶二]]、[[藤井松一]]、[[藤原彰]]、﹃コンサイス日本人名辞典 第5版﹄、株式会社三省堂、2009年 19頁。</ref>。[[人の始期|出生]][[時刻]]については資料がないため不明である。 [[戸籍]]上の正しい名前は﹁ 生後7か月ごろに母フクが精神に異常をきたしたため<ref group="*">長女の急死が原因であったと推測されることがある。</ref>、東京市[[本所区]]小泉町︵現・東京都[[墨田区]][[両国 (墨田区)|両国]]︶にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に [[1898年]]︵明治31年︶、江東︵こうとう︶[[尋常小学校]]入学︵芥川卒業後、﹁江東﹂は﹁えひがし﹂と読むようになる。現在の[[墨田区立両国小学校]]︶。[[東京都立両国高等学校・附属中学校|東京府立第三中学校]]を卒業の際に﹁多年成績優等者﹂の賞状を受け、[[1910年]]︵明治43年︶9月、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]第一部乙類英文科に入学{{refnest|group=*|name=class|クラスは一年三之組。第一部乙類︵英文科︶は3年間この1クラスのみ。}}。1910年︵明治43年︶に中学の成績優秀者は無試験入学が許可される制度が施行され、芥川はその選に入っていた。同期入学に[[久米正雄]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[松岡讓]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[佐野文夫]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[菊池寛]]{{refnest|group=*|name=class}}、井川恭︵のちの[[恒藤恭]]︶{{refnest|group=*|name=class}}、[[土屋文明]]{{refnest|group=*|name=class}}、[[倉田百三]]︵第一部丙類独法・政治・独文科一年四之組︶、[[渋沢秀雄]]︵第一部丙類仏法・政治・仏文科一年五之組︶、[[矢内原忠雄]]︵第一部甲類英法・政治・経済・商科一年二之組︶らがいた。2年生になり一高の[[学生寮#全寮制|全寮主義]]のため[[学生寮|寄宿寮]]に入るが、芥川は順応することはなかったという。寮で同室となった井川は生涯の親友となる。井川は﹃第一高等学校一覧﹄︵第一高等学校刊行︶によると<ref>[https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812884/73 ﹃第一高等学校一覧 明治43-44年﹄︵入学時︶、132頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/812885/69 ﹃第一高等学校一覧 明治44-45年﹄︵2年進学時︶、126頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940275/65 ﹃第一高等学校一覧 大正元年-2年﹄︵3年進学時︶、118頁]<br />{{0|^}} [https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/940276/161 ﹃第一高等学校一覧 大正2年-3年﹄︵卒業時︶、310頁]</ref>、1年から3年まで常に芥川の成績を上回っている{{refnest|group=*|名簿は前年の成績順。}}。[[1913年]]︵大正2年︶<!--一高第一部乙類を2番の成績で卒業︵一高第一部乙類首席は井川恭︶-->、[[東京大学|東京帝国大学]]文科大学英文学科へ進学。ちなみに当時、同学科は一学年数人のみしか合格者を出さない難関であった。 [[画像:Kume Matsuoka Akutagawa Naruse.jpg|thumb|left|300px|東京帝国大学を卒業する1916年︵大正5年︶頃の第4次﹃新思潮﹄のメンバー。右から2番目が芥川龍之介、一番右は成瀬正一、一番左から久米正雄、松岡譲。]]▼ [[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年︵大正8年︶長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]]▼ 東京帝大在学中の[[1914年]]︵大正3年︶2月、一高同期︵クラスメイト︶の菊池寛、久米正雄らとともに[[同人誌]]﹃[[新思潮]]﹄︵第3次︶を刊行。まず﹁'''柳川隆之助'''﹂︵隆之介と書かれている当時の書籍も存在する︶の筆名で[[アナトール・フランス]]の﹃[[バルタザアル]]﹄、[[ウィリアム・バトラー・イェイツ|イエーツ]]の﹃[[春の心臓]]﹄の和訳を寄稿したあと、10月に﹃新思潮﹄が廃刊にいたるまでに同誌上に処女小説﹃老年﹄を発表。作家活動の始まりとなった。このころ、[[青山学院女子短期大学|青山女学院]]英文科卒の吉田弥生<ref group="*">1892年生まれ。1915年に陸軍軍人と結婚。1973年死去。</ref>という女性と親しくなり、結婚を考えるが、芥川家の猛反対で断念する。[[1915年]]︵大正4年︶10月、代表作の1つとなる﹃羅生門﹄を﹁'''芥川龍之介'''﹂名で﹃帝国文学﹄に発表。 ▲[[画像:Kume Matsuoka Akutagawa Naruse.jpg|thumb|left|300px|東京帝国大学を卒業する1916年︵大正5年︶頃の第4次﹃新思潮﹄のメンバー。右から2番目が芥川龍之介、一番右は成瀬正一、一番左から久米正雄、松岡譲。]] [[1916年]]︵大正5年︶には第4次﹃新思潮﹄︵メンバーは菊池、久米のほか松岡譲、[[成瀬正一 (フランス文学者)|成瀬正一]]ら5人︶を発刊したが、その創刊号に掲載した﹃鼻﹄が漱石に絶賛される。この年に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業{{refnest|group=*|芥川は大学院の退学届けの提出が期限切れだったため30円を請求され、このような大金の持ち合わせがない芥川は自ら除名処分を志願した︵芥川龍之介﹃その頃の赤門生活﹄より︶。}}。卒論は﹁[[ウィリアム・モリス]]研究﹂。同年12月、[[海軍機関学校]]英語教官を長く勤めた[[浅野和三郎]]が[[新宗教]]﹁[[大本]]︵当時は皇道大本︶﹂に入信するため辞職する<ref>[[#神の罠|神の罠]], 36頁</ref>。そこで[[畔柳芥舟]]や[[市河三喜]]ら英文学者が、浅野の後任に芥川を推薦︵[[内田百閒]]によれば夏目漱石の口添えがあったとも︶、芥川は海軍機関学校の嘱託教官︵担当は英語︶として教鞭を執った<ref>[[#神の罠|神の罠]], 38.178頁</ref><ref group="*">防衛省防衛研究所図書館史料閲覧室が所蔵する海軍記録﹃職員進退録﹄に、芥川の自筆履歴書が残る。2010年現在、複写した履歴書の写真が同室に展示されている。個人情報なので、[[アジア歴史資料センター]]でのネット公開の対象外である。</ref>。そのかたわら創作に励み、翌年5月には初の短編集﹃羅生門﹄を刊行する。その後も短編作品を次々に発表し、11月には早くも第二短編集﹃煙草と悪魔﹄を発刊している。 なお、海軍機関学校の初任給が60円であったのに対し、当時の原稿料は1枚30銭から2円であった<ref>{{Cite book |和書 |author=下川耿史 家庭総合研究会 編 |title=明治・大正家庭史年表:1868→1925 |publisher=河出書房新社 |year=2000 |page=414 |isbn=4-309-22361-3}}</ref>。 ▲[[画像:Kikuchi Kan, Akutagawa Ryunosuke, and so on.jpg|thumb|right|240px|1919年︵大正8年︶長崎滞在中の写真。左から2番目が芥川龍之介、一番左は[[菊池寛]]<!--、奥の二人は左から[[武藤長蔵]]、[[永見徳太郎]]-->。]] [[1918年]]︵大正7年︶の秋、懇意にしていた[[小島政二郎]]︵﹃[[三田文学]]﹄同人︶と[[澤木四方吉]]︵﹃[[三田文学]]﹄主幹で西洋美術史家︶の斡旋で[[慶應義塾大学]][[文学部]]への就職の話があり、[[履歴書]]まで出したが、実現をみなかった<ref>{{harvnb|関口|1992|p=213}}</ref>。[[1919年]]︵大正8年︶3月、海軍機関学校の教職を辞して[[大阪毎日新聞|大阪毎日新聞社]]に入社︵新聞への寄稿が仕事で出社の義務はない︶、創作に専念する<ref>芥川龍之介 ﹁[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3753_27325.html 入社の辞]﹂、1919年3月。</ref>。ちなみに師の漱石も[[1907年]]︵明治40年︶、同じように[[朝日新聞社]]に入社している。 55 ⟶ 56行目:
[[1920年]](大正9年)[[3月30日]]、長男[[芥川比呂志]]、誕生。
[[1921年]]︵大正10年︶3月、海外視察員として[[中華民国の歴史|中国]]を訪れ、[[北京]]を訪れた折には[[胡適]]に会っている。胡適と[[検閲]]の問題などについて語り合 この旅行後から次第に心身が衰え始め、[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]、[[腸カタル]]などを患う。[[1923年]]︵大正12年︶には[[湯河原町]]へ湯治に赴いている。作品数は減っていくが、このころからいわゆる﹁保吉もの﹂など[[私小説]]的な傾向の作品が現れ、この流れは晩年の﹃[[歯車 (小説)|歯車]]﹄﹃[[河童 (小説)|河童]]﹄などへとつながっていく。 101 ⟶ 102行目:
* {{subst:和暦/sandbox|1918}}に発表した[[キリシタン]]物の小説﹁[[奉教人の死]]﹂の末尾の方に﹁…余が所蔵に関わる、長崎耶蘇出版の一書、題して﹁れげんだ・おうれあ﹂と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREAの意なり。…体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交りの平仮名文にして︵略︶﹂と架空の記述を挿入してキリシタン研究に血眼になっていた当時の専門家の注意を惹き、碩学の[[内田魯庵]]が真に受けてしまったという逸話がある。--> === 初期 ===
説話文学を典拠とした『羅生門』『鼻』『芋粥』など歴史物、加えて[[キリシタン]]物が有名である。[[日夏耿之介]]は初期の作品を「非常によい」と評価している。歴史物では、人間の内面、特に[[利己主義|エゴイズム]]を描き出したものが多い。
=== 中期 ===
[[芸術のための芸術|芸術至上主義]]的な面が全面に出た『[[地獄変]]』などを書き、長編『[[邪宗門]]』に挑んでいた。
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死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞﹁[[芥川龍之介賞]]﹂︵芥川賞︶を設けた。芥川賞は[[直木三十五賞|直木賞]]と共に日本でもっとも有名な文学賞として現在まで続いている。 芥川の死は関東大震災から数年経ち[[大正天皇]]崩御後、25歳の[[皇太子裕仁親王]]が[[現人神]]として[[天皇 {{cquote|二三年(にさんねん)の後いよいよ自殺の決意を固められた時に、死の姿の一つとして、あの吉原の池に累々と重なつた醜い死骸は必ず故人の頭に甦つて来たにちがひないと思ふ (川端康成「芥川龍之介氏と吉原」、『サンデー毎日』 1929年1月13日 第8年3号より)}}
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芥川の命日・7月24日は河童忌と呼ばれる。当初は、遺族と生前親交のあった文学者たちが集まる法要だったが、1930年︵昭和5年︶の四回忌から﹁河童忌記念帖﹂として[[文藝春秋]]誌上で紹介され、この呼び名が定着した。以後17回忌まで毎年行われていたが、戦争のため中断する。戦後、再開されたが詳しい記録は残っていない<ref name=bungei2017>{{Cite |和書 |author=木口直子︵田端文士村記念館学芸員) |date=2017|chapter=芥川龍之介没後九十年”河童忌”の新たな幕開けに添えて |title=文藝別冊 芥川龍之介|pages=201-208|publisher=河出書房新社 }}</ref>。 1976年︵昭和51年︶の50回忌は巣鴨の慈眼寺で墓前祭、丸の内の[[東京会館]]で偲ぶ会が催された。この日は第75回[[芥川賞]]の贈呈式で、受賞した[[村上龍]]も花を手向けにきた<ref name=bungei2017/>。没後90年にあたる2017年︵平成29年︶からは田端文士村記念館が世話役となり、﹁河童忌﹂イベントを開催している<ref>{{Cite web|和書|date=|url=https://kitabunka.or.jp/tabata/event/|title=イベント一覧|publisher=田端文士村記念館 北区文化振興財団|accessdate=2019-02-04}}</ref>。 === 記念館 ===
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* [[俳人]]としては[[高浜虚子]]の﹃[[ホトトギス (雑誌)|ホトトギス]]﹄や[[河東碧梧桐]]の﹃[[海紅]]﹄に拠って<ref>芥川龍之介 ﹁[http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/3771_26611.html わが俳諧修業]﹂</ref>﹃澄江堂句集﹄を残している。また詩、[[短歌]]、[[旋頭歌]]などの作品も残している<ref>[[吉野裕之]] ﹁[http://homepage3.nifty.com/hiro1961/hyoron/akutagawa.html 緑いろの何か-あるいは、芥川を撃った赤い光]﹂、﹃歌壇﹄1996年6月号。</ref>。 * [[家紋]]は「[[五七桐]]」である。
* [[源義仲]]について、東京府立第三中学校在学時に著した﹃木曾義仲論﹄の中で、直情径行な﹁木曾山間の野人﹂だが同時に﹁赤誠の人﹂﹁熱情の人﹂﹁革命の先動者﹂と評し、最後に﹁彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也﹂と == 速読 ==
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* 師であり自分を見出してくれた[[夏目漱石]]を終生尊敬し続けた。いくつかの作品に﹁先生﹂という敬称で登場し、遺作である﹃[[歯車 (小説)|歯車]]﹄﹃[[或阿呆の一生]]﹄でも言及している。[[夏目漱石]]の[[葬儀]]の際に[[江口渙]]とともに受付を務め、弔問にきた[[森鷗外]]の名刺を受け取っている。妻へ宛てた遺書の中で、自作の出版権については﹁[[岩波茂雄]]氏︵[[岩波書店]]︶に譲与すべし。新潮社との契約は廃棄す﹂と記している。この理由についても記されており、﹁夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じにしたい﹂と希望した。 *[[避暑]]先の[[軽井沢町|軽井沢]]で[[アイルランド文学]][[翻訳者]]である[[片山広子]]と出会う。芥川晩年の作品﹃[[或阿呆の一生]]﹄の37章で﹁才力の上にも格闘できる女性﹂と記し、﹃相聞﹄で﹁君﹂と歌われたのは片山広子の事だと言われていることから、のちに片山は芥川最後の恋人と呼ばれるようになった︵あくまでも[[プラトニック・ラブ]]であったとされる︶。なお芥川が軽井沢を訪れたのは、1924年と翌年の2回で、いずれも夏の約1ヶ月間を[[旧軽井沢]]の[[つるや旅館]]で過ごし、[[室生犀星]]、[[堀辰雄]]、[[萩原朔太郎]]らも同宿し交友を深めた。1925年に書いた草稿﹁軽井沢で﹂に、芥川は軽井沢について、﹁さやうなら。[[手風琴]]の町、さやうなら僕の[[抒情詩]]時代﹂と記している。 *[[佐藤春夫]]とは友人で芥川から佐藤への手紙が残っている<ref name="kyodo20220730">{{Cite web|和書|url= https://web.archive.org/web/20220807142056/https://nordot.app/926062949719048192|title= 芥川の内面伝える手紙発見 佐藤春夫宛て、深い交友|publisher=共同通信|accessdate=2022-08-12}}</ref>。1926年に送られたとみられる佐藤宛の手紙が遺族により[[実践女子大学]]に寄贈されており、芥川の随筆集の表紙を描いてくれた感謝のほか、小説﹁妖婆﹂を失敗作だと断じた佐藤の論評について﹁初めて読んだ時には不快だつたが、今は平気でよめる﹂と記している<ref name="kyodo20220730" />。 == 著作 ==
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== 家族 ==
;親
* 実父・新原敏三(1850年 - 1919年) - 玖珂郡生見村(現・[[美和町 (山口県)]])に生まれ、長州藩の農民兵となり、[[長州征討|四境戦争]]では大林源次の変名で[[御楯隊]]に属し負傷、1869年の脱退騒動に巻込まれ、[[萩藩]]の椿正治の娘と結婚し椿源治と改名するが離婚して1875年頃上京、名を本名に戻す<ref name=ndl/>。[[勧農局]][[下総御料牧場]]に入所し、1882年に[[渋沢栄一]]の箱根仙石原の牧場「耕牧舎」に入る<ref>[https://knowledge.lib.yamaguchi-u.ac.jp/ja/505 芥川龍之介の文学碑]田村悌夫、山口県立大学 郷土文学資料センターだより28号、2017年3月31日</ref>。1883年に本所小泉町(現[[墨田区]][[両国 (東京都)|両国]])の[[士族]]芥川俊清の三女・フク(1860-1912)と再婚、京橋区入船町の牛乳販売店「耕牧舎」の支配人になり、事業を発展させ、渋沢から新宿の牧場を引き受け成功した<ref name=ndl>[https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000137500 奇兵隊に新原敏三という人がいて、その人は芥川龍之介の父親だと講演で聞いたのだが、本当か]レファレンス協同データベース、2020年08月04日</ref><ref name=ni>[http://2st.jp/radb/jinbuturoku/na.html#niihara-huyu に]芥川龍之介人物録</ref>。妻のフクが発狂したため、フクの妹フユが家の手伝いに入り、1899年にフユとの間に得二を儲け、1904年にフユと正式に再婚<ref name=ni/>。明治末頃から牛乳事業が停滞し、1918年には牧場を手放した<ref name=ni/>。同跡地は遊郭となり、現在の[[新宿二丁目]]界隈となる。1919年に[[スペインかぜ]]で死去。
* 養父・芥川道章︵1849年 - 1928年︶ - 実母フクの兄。東京府役人。乳児の龍之介を預かり姉フキらと養育、実父の敏三と揉めたが1904年に龍之介を正式に養子とする<ref name=a>[http://2st.jp/radb/jinbuturoku/a.html#akutagawa-doushou あ]芥川龍之介人物録</ref>。妻のトモ︵1857年 - 1937年︶は[[細木香以]]の姪<ref name=a/>。 ;妻
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* [[ストレンジャー〜上海の芥川龍之介〜]]
* [[自殺・自決・自害した日本の著名人物一覧]]
* [[末期の眼]]
== 外部リンク ==
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[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:自殺した日本の人物]]
[[Category:毒死した人物]]
[[Category:1892年生]]
[[Category:1927年没]]
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