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{{sfn||1966|p=87}}
[[File:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|250px|聖徳記念絵画館壁画『廃藩置県』([[小堀鞆音]]筆、[[酒井忠正]]伯爵奉納)明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])[[廃藩置県]]を布告するため東京在京中の藩知事(大名華族)56名を[[皇居]]紫宸殿代大広間に召集した明治天皇と詔書を読み上げる右大臣[[三条実美]](堂上華族、後の公爵)。]]
 
4[[714 ()|714]][[1871]][[829]][[]]<ref name="kotobank">{{Cite Kotobank|word=|encyclopedia=()     |accessdate=2022-11-08}}</ref>
 
=== 「華族第1号」 ===
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=== 華族の役割と「皇室の藩屏」 ===
[[]]47141871829[[|]]{{sfn||2014|p=47}}{{sfn|(4)|1989|p=58}}
 
{{sfn||2008|p=25}}1010[[]]{{sfn||2006|p=16}}{{sfn||2014|p=39}}10223[[]][[|]]{{sfn||2006|p=16}}{{sfn||2014|p=44}}1028[[]][[]]{{sfn||2014|p=39}}
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''''''{{sfn||2006|p=17}}
 
{{sfn||2011|p=75-76}}
 
{{sfn||2006|p=17}}
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[[|]][[|prince]][[|marquess]][[|earl]][[|viscount]][[ ()|baron]]prince[[]][[麿]][[]][[ ()|duke]]
 
=== 華族取立に関する問題授爵の請願と認否 ===
{{sfn||2015|p=3}}
華族になれるとされた基準は曖昧であり、様々な問題が発生した。華族となれなかった人物やその旧臣などの人物は華族への取り立てを求めて運動を起こしたが、多くは成功しなかった。松田敬之は900名に及ぶ華族請願者をまとめているが、和歌山県の平民北畠清徳のように旧南朝功臣の子孫を称して爵位を請願したが、系譜が明らかではないとされ拒絶された例も多い<ref name="matsuda_shohyo">{{Cite journal|和書|author= 佐藤雄基|title= 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』(吉川弘文館、二〇一五年)|year= 2018|journal= 史苑|volume= 78|issue= 2|pages= 109 - 110|doi= 10.14992/00016470}}</ref>。また家格がふさわしいと評価されても相応の家産を持っていることが必要とされた<ref name="hosono">{{Cite journal|和書|author= 細野哲弘|title= 一文字大名 脱藩す|year= 2018|publisher= 特許庁技術懇話会|journal= 特技懇|issue= 290|pages= 130 - 137}}</ref>。
 
==== 王政復古から華族制度成立までの請願 ====
こうした請願の第1期となるのは、慶応4年(明治元年)の王政復古から明治2年の華族制度誕生までの間の請願である。この時期はまだ華族の名称が定まっていないため、請願は[[地下家]]身分から[[堂上家]]への昇格、万石以下の[[旗本]]身分から万石以上の[[大名]]への昇格を求めたものである{{sfn|松田敬之|2015|p=3}}。
 
確認できる限り最も早い堂上家取り立て請願は慶応4年1月18日の随心院門跡付弟の増縁([[九条尚忠]]の子[[鶴殿忠善]])を当主とした旧摂家[[松殿家]]再興請願だが、不許可となっている(忠善は後に[[伊木家]]への養子入りと離縁を経て、明治22年に至って九条家の分家の公家だった[[鶴殿家]]を再興して華族の男爵に列している){{sfn|松田敬之|2015|p=5}}。ついで同年4月に公家[[高辻以長]]の養子([[梅小路定肖]]の実子)である[[太宰府天満宮]]の[[延寿王院信全]]が還俗して[[西坊城家]]を再興したい旨を請願するも、不許可となっている(信全は[[西高辻家]]を起こし、その養子[[西高辻信厳]]の代の明治15年に華族に列せられて華族令制定後男爵)
 
[[]][[]]{{sfn||2015|p=6}}[[]]{{sfn||1994|p=54-58}}
 
他にも興福寺の旧学侶(門跡・院家の下位)の[[朝倉景隆]]以下15名、[[春日大社]]旧社司の[[西師香]]、[[石清水八幡宮]]社務の[[田中有年]]、[[菊大路綏清]]、[[南武胤]]らによる堂上請願があったが、いずれも不許可になっている{{sfn|松田敬之|2015|p=6}}。
 
武家側では新田地で万石を超えるので諸侯に列してほしいという旧[[旗本]]の請願が大半を占める。認められたのは[[交代寄合]]のうち[[本堂氏|本堂家]]、[[生駒氏|生駒家]]、[[山名氏|山名家]]、[[山崎氏|山崎家]]、[[平野氏|平野家]]、[[池田氏|池田家]]の6家、[[高家 (江戸時代)|高家]]のうち[[大沢氏|大沢家]]の1家に限られ、これらは全家華族となった(後に大沢家は石高詐称発覚により士族降格。池田家は経済的困窮で爵位返上)。一般旗本も最大禄高(9500石)の[[横田氏|横田家]]をはじめ多くの家が万石以上に達したと称する諸侯編列請願運動を行っているものの、全家不許可となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=6}}。
 
旗本たちの請願の中で唯一石高を理由としなかったものは、[[甲斐庄氏|甲斐庄家]]による請願である。同家は南朝忠臣[[楠正成]](大楠公)の子孫であることを理由に諸侯昇格請願を行っており、その後も大正期に至るまで華族編列請願運動を繰り返したが、系図に疑問があるとされて不許可となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=7/194}}。
 
また陪臣からの請願としては、紀州藩家老[[久野純固]]が慶応4年8月に紀州藩から独立して朝臣に列したい旨の請願書を提出している。[[久野氏|久野家]]はいわゆる[[付家老]]ではなく単なる万石以上陪臣家であり、付家老のような[[維新立藩]]の待遇が受けられなかったので、その待遇を請願したものと思われるが、不許可になっている{{sfn|松田敬之|2015|p=7}}。なお久野家は経済的に困窮していたらしく、明治後期に(財産がある)旧万石以上陪臣家が男爵に叙されるようになった際にも男爵に叙されなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=272}}。
 
また前述の通り福井藩の付家老だった[[本多副元]]が明治2年から諸侯編列請願をやっている。この時点では不許可になったが、明治11年に華族の地位を認められ、後に男爵となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=8/651}}。
 
第1期の請願の特徴として、すべてが家格や家の由緒を理由とした請願であり、本人の勲功を理由とした請願は確認できないことがある{{sfn|松田敬之|2015|p=8}}。
 
==== 華族誕生から華族令までの請願 ====
つづいて明治2年6月に華族制度が成立した後、明治17年7月の華族令制定までの第2期の請願である。
 
第1期には甲斐庄家だけだった南朝忠臣の子孫であることを理由とした請願がこの時期から増える。特に[[楠木正成]]、[[新田義貞]]、[[菊池武時]]、[[名和長恭]]の末裔として請願を行う者が多かった。最終的には[[新田俊純]](旧[[岩松氏|岩松家]])が新田義貞、[[菊池武臣]](旧[[米良氏|米良家]])が菊池武時、[[名和長恭]]が名和長年の末裔と認められて華族に列して華族令施行後男爵となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=9}}。楠木正成の正統の末裔と認められた者はついに出なかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=60}}。
 
17{{sfn||2015|p=10}}
 
[[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]{{sfn||2015|p=10}}
 
==== 華族令から明治末までの請願 ====
つづいて華族令施行から明治天皇崩御までの第3期の請願である。
 
{{sfn||2015|p=12}}2[[]][[]][[]][[]][[]][[ ()|]]{{sfn||2015|p=12}}
 
ただし、この時期以降も家柄を理由とした請願は減らない。この時期の家柄関係の請願で特筆すべき傾向としては、旧大社系の神主や浄土真宗系の僧侶の授爵は「血統連綿」が重視されたことがある。たとえば、浄土真宗[[誠照寺]]26代で同派管長の[[二条秀源]]はこの時期に華族編列請願をたびたび行っているが、[[宮内庁書陵部]]宮内公文書館所蔵の『授爵録』(明治29年)によれば、宮内省は、秀厳(同寺23代目。[[二条治孝]]の子)以降の同家は、[[親鸞]]男系の血統が全く途絶えているとしてこの請願を却下しているのである{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。旧大社系からの授爵請願の却下にも同様の理由が散見される{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。他家から養子を迎えて家系をつなぐのは、堂上華族や大名華族でも少なくないはずだが、宗教系の授爵はそれよりも血統が重視されていたと見られる{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。
 
明治22年から華族編列請願を繰り返していた旧伊勢神宮内宮神主家である[[藤波亮麿]]は、『授爵録』(明治23年)の記録によれば、明治23年3月26付けで男爵に叙す明治天皇の裁可書が出ているが、直後に同族[[藤波名彦]]からの申請により急遽却下され、伊勢神宮内宮神主家(本姓は[[荒木田氏|荒木田]])の正嫡調査が行われることになり、その結果8月27日に[[沢田幸一郎]]が正統と認定されて華族の男爵に叙されるという事案が起きた。数多い華族請願史の中でも一度天皇の裁可を得ながら一転して取り消しになったのは、この一例のみである{{sfn|松田敬之|2015|p=14}}。
 
明治30年代になると第2期の時期から請願が多かった旧万石以上陪臣家の男爵への叙爵が開始される。宮内省は以前から各地方庁(道府県庁)を通じて対象者の身辺調査を行っており、その家庭状況や、華族としての体面を維持するに足りる財産を持っているかの把握に努めていた。その調査に基づき、旧万石以上陪臣家でも華族に足りる財産(年500円以上を生ずる財本)を持っていない家の請願は却下している{{sfn|松田敬之|2015|p=15/68}}{{#tag:ref|財産条件をクリアできず授爵請願を却下された旧万石以上陪臣家は、[[志水家]](旧尾張藩家老)、[[山野辺家]](旧水戸藩家老)、[[久野家]](旧紀州藩家老)、[[横山氏|横山分家]](旧加賀藩家老)、[[本多氏#その他|本多分家]](同)、[[登米伊達家]](旧仙台藩一門)、[[亘理家]](同)、[[陸奥石川氏|石川家]](同藩家老)、[[留守氏|留守家]](同)、[[茂庭氏|茂庭家]](同)、[[須古鍋島家]](旧佐賀藩一門)、[[村田氏|村田家]](同)、[[神代氏|神代家]](同)の13家{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。|group="注釈"}}。
 
この時期の授爵は、旧万石以上陪臣家に限らず、他の授爵でも財産の有無を重視する傾向がある。ただこれには批判もあり、旧伊勢神宮外宮神主家の[[久志本常幸]]は、明治27年に宮内省次官[[花房義質]]に宛てた書状の中で、もし楠木正成正統の子孫が発見されたとしても華族としての体面を維持できる財産を持っていなかったら華族に列しないつもりなのかと批判している{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。
 
明治33年5月9日に授爵された60名のうち、26名の勲功華族について授爵の基準として、次の五項目の基準が明文で示された{{sfn|松田敬之|2015|p=16}}。
#維新の際、大政に参与し、特殊の功労ありし者
#維新の功により[[賞典禄]]50石以上を賜りたるものにして、現に[[勅任官]]にある者
#維新前後、国事に功労ありし者にして、10年以上勅任官の職にありし者、または現に勅任官在職中の者(ただし、勅任官在職10年未満といえども、6年以上在職、特に録すべき功績の顕著なる者)
#10年以上勅任官在職の者にして、功績の顕著なる者(ただし勅任官在職10年未満といえども、6年以上在職、特に録すべき功績の顕著なる者)
#特に表彰すべき、偉大の功績なる者
 
具体的な在職年数などが明示された初の勲功華族の基準である。この基準はこの後の勲功華族の授爵でも参考にされたと思われるが、該当者が年々増加する基準であるうえ、大正時代以降は爵位が認められる基準が厳しくなっていく{{sfn|松田敬之|2015|p=16}}。
 
==== 大正期の請願 ====
大正期は授爵も陞爵も明治期に減少するが、請願は相変わらず多く存在した。特に大正3年と4年に請願が多かった。これは大正4年に挙行された大正天皇の即位大礼に際して大規模な栄典授与が行われるであろうことに期待した動きである{{sfn|松田敬之|2015|p=23}}。
 
しかし大正デモクラシーの高まりにより、大正期は華族の世襲制度が国民の強い批判を受けていた。そのため、宮内省はこの頃から家柄や先祖の功績を理由にした授爵を忌避するようになり、今後の授爵は本人の勲功を理由としたものに限定する方針を固めつつあった。そんな中でも旧[[交代寄合]]だの、旧[[地下家]]だの、中古以来の名族の末裔だの、家柄を理由にした授爵請願は後を絶たなかったが、宮内省はこの手の家柄を理由にした請願はことごとく却下して取り合わなくなった{{sfn|松田敬之|2015|p=23}}。
 
また大正期は藩閥の衰退で藩閥的経歴を持っていると不当に選に漏れることがあった。たとえば、大正4年12月の叙爵で「地方官の二元老」と呼ばれる有力地方官[[大森鐘一]]と[[服部一三]]が候補にあがったが、大森だけ華族となり、服部は華族になれなかったことがあった。2人は官歴が類似しており、[[勲一等旭日大綬章]]の叙勲も、[[正三位]]に叙されたのも、[[知事]]として[[親任官]]待遇を与えられたのも同日だったから、華族になるのも同日であるのが公正であり、新聞紙上でも2人は同日に授爵されるだろうと予想されていた。ところが、実際に華族になれたのは大森だけだった。服部は旧長州藩士の家系の出身者だったので不当に退けられ、大森は旧幕臣家系出身者だったので奏功したのではないかと言われる{{sfn|松田敬之|2015|p=24}}。
 
==== 昭和期の請願 ====
昭和期になると大正期以上に授爵・陞爵は狭き門となる{{sfn|松田敬之|2015|p=26}}。
 
『東京朝日新聞』昭和3年9月12日付朝刊の「叙爵・昇爵の範囲協議昨日の閣議」という見出しの記事によれば、今秋の御大典(即位大礼)を機に授爵・陞爵の基準を定めることが内閣・宮内省の間で協議検討されており、協議の中で内閣と宮内省が次の点で一致したと報じている{{sfn|松田敬之|2015|p=28}}。
 
#家格による授爵は認めないこと(例えば「何十万石の大名だったから、これに比適する爵位を」だの「先代に功労があったから、その子孫に授爵を」だのといった請願は問題外とする)
#その人自身の偉勲、偉功を挙げて奏請すること
#大正4年の御大典の際には昇爵は奏請しなかったが、今回は主義として昇爵の奏請を認めること。
 
[[|]][[]][[|]][[]][[]][[]][[]]{{sfn||2015|p=28/430/535/691}}
 
{{sfn||2006|p=363-364}}
 
== 華族の財産 ==
434 ⟶ 504行目:
1880{{sfn||1996|p=IV.2-3}}
 
10[[]][[]]20{{sfn||1996|p=IV.3}}19[[]][[]][[]]{{sfn||1996|p=IV.3}}
 
旧大藩大名華族の土地所有の事例として[[細川氏|細川]]侯爵家の事例を挙げる。同家は明治前期に多額の金禄公債を獲得して金利生活を送りつつ、それに留まらず、それを積極的に運用する資本として登場し、明治10年代前半頃から旧領だった[[熊本県]]において免祖新地を中心に土地を購入。[[芦北郡]]、[[八代郡]]、[[玉名郡]]に最低642[[町 (単位)|町]]という広大な新地を取得したのを皮切りに、明治30年末までには熊本県の千町歩地主となっている{{sfn|千田稔|1987|p=41/58-59}}。
明治末における大華族の土地所有の事例として[[細川氏|細川]]侯爵家の例を挙げる。同家の東京府内の所有土地は[[麹町区]][[麹町]]3,798坪(うち224坪、貸家5棟)、[[日本橋区]][[日本橋浜町|浜町]]13,182坪(うち11,242坪が貸地、1941坪が賃家37棟)、[[小石川区]][[茗荷谷町]]1,883坪(うち1877坪貸地)、同[[関口町]]2,176坪、同[[関口台町]]7,228坪と同[[高田老松町]]12,145坪(関口台町と高田老松町にまたぐ2,459坪の土地に貸家30棟)、同[[高田豊川町]]2,797坪、[[浅草区]][[今戸町]]2,238坪(2545坪貸地)、荏原郡北品川宿1,421坪、北豊島郡高田村1,194坪(貸家4棟)であり、かなりの土地が貸地・貸家経営に供されている。しかし、東京市内の宅地にかかる税金は高額であり、経費が収入を大幅に超過してしまっているものも多い。細川侯爵家の土地収益は、旧領たる熊本県(熊本市および30町村)に所有する広大な田畑の小作料所得の方がはるかに多かった。明治43年度の細川侯爵家の第三種所得金額申告は貸地所得82,988円、貸家所得6,003円であるが、前者の実に90%以上(77,729円)が小作料である。明治前期には土地をほとんど持たぬ金融大資本家だった細川侯爵家は、明治末には大土地所有の寄生地主に転身していたということである{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。
 
さらに東京府内にも土地を所有し、明治末の時点では[[麹町区]][[麹町]]3,798坪(うち224坪、貸家5棟)、[[日本橋区]][[日本橋浜町|浜町]]13,182坪(うち11,242坪が貸地、1941坪が賃家37棟)、[[小石川区]][[茗荷谷町]]1,883坪(うち1877坪貸地)、同[[関口町]]2,176坪、同[[関口台町]]7,228坪と同[[高田老松町]]12,145坪(関口台町と高田老松町にまたぐ2,459坪の土地に貸家30棟)、同[[高田豊川町]]2,797坪、[[浅草区]][[今戸町]]2,238坪(2,545坪貸地)、荏原郡北品川宿1,421坪、北豊島郡高田村1,194坪(貸家4棟)を所有している{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。東京の土地はかなりの部分が貸地・貸家経営に供されているが、東京市内の宅地にかかる税金は高額であり、経費が収入を大幅に超過しているものが多い{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。
 
また細川侯爵家は[[朝鮮]]の大地主だったことも特筆される。明治37年8月に[[第一次日韓協約]]が締結されると同家はただちに家従を渡韓させ、[[全羅北道]](全北)の土地買収のための調査を開始させている。細川家がここに目を付けたのは、朝鮮における農産業の主要地でありながら低廉だったためである。特に「細川家韓国出張所」が設置された大場村は水陸接続の要地で肥沃でありながら水害が稀な絶好の営農地だった。細川侯爵家は、かかる土地に明治38年から40年にかけて、毎年約2万円前後の予算で100町歩前後ずつ田畑を購入している。明治44年からは[[全羅南道]](全南)にも進出を開始し、大正3年までに全北・全南合わせて1683町歩に及ぶ広大な田畑を取得。その結果、大正8年、9年、12年、13年には朝鮮からの収入が熊本県からの収入を凌駕するに至っている{{sfn|千田稔|1987|p=48-51}}。
 
大正時代の細川侯爵家の基本財産(土地)にかかる歳入歳出は、東京が赤字だが、熊本と朝鮮から上がる莫大な小作料収入がそれをカバーしており、全体としては大きな黒字である{{sfn|千田稔|1987|p=56}}。ただし、熊本・朝鮮の大地主になったことで細川侯爵家の金利生活者の面がなくなったわけではない。同家の経産方は公債・株券売買や貸付・預金などに従事した銀行類似の資本だったのであり、明治中期以降は所有会社を株式会社形態に改組して積極的な資本主義ブルジョア化を進め、ほぼ小作料収入に匹敵する有価証券収入を得ている(純収入では有価証券収入が小作純収入を凌駕している){{sfn|千田稔|1987|p=58}}。
 
=== 旧堂上華族・奈良華族・神官華族の保護 ===
一方、もともとの金禄公債の額が少なかった旧堂上華族や旧小藩大名華族の多くは財産基盤が貧弱であったから、旧大藩大名華族のようにはいかなかった。
 
221889510調[[麿]]{{sfn||2014|p=174}}
449 ⟶ 525行目:
30121930501300{{sfn||2014|p=179}}
 
42111545793300612{{sfn||2014|p=179-180}}
 
[[]]27412[[]][[]][[]][[]][[]]90[[]]{{sfn||2014|p=182}}
492 ⟶ 568行目:
20{{sfn||1996|p=II.5}}
 
[[|]][[]][[]][[西]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]][[]]40150{{sfn||1996|p=II.6}}
 
[[|]]使[[{{|]]|it|Renato De Martino}}2426[[]][[|]][[]]使27[[]]22[[]]892000{{sfn||1996|p=II.6}}
 
==== 那須 ====
662 ⟶ 738行目:
 
29[[]][[]][[]][[]][[|]][[]]使[[|]]{{sfn||1996|p=IV.11}}
 
=== 使用人の給与 ===
[[細川氏|細川]]侯爵家の『職員録』に記載されている昭和14年時の使用人の役職・氏名・給与(月給)を事例としてあげる{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.7}}。
*「家政所」(高田本邸内の事務所)
*:家扶 [[馬場一衛]](250円)
*:書記役 高岡光雄(80円)
*:家従 中村隆徳(守衛、75円)
*:書記役 緒方鉄雄(70円)
*:雇書記役 岐部正之(55円)
*:雇書記役 建部勇(50円)
*:雇 井戸次雄(43円)
*:女中待遇 岩橋ヨシ(御居間掃除嘱託、25円)
*:藤田辰雄(家政所事務嘱託、80円)
*:松島敏(給仕、17円)
*:小使 金子米喜知(36円)
*細川侯爵家本邸([[小石川区]][[高田老松町]])
*:家扶 菱田喜太郎
*:家従 新美辰馬(105円)
*:家従 鵜殿又男(89円)
*:家従 安藤又雄(75円)
*:女中 木村キク(40円)
*:女中 本田操(38円)
*:女中 山川トシ(23円)
*:女中 田上シヅエ(23円)
*:女中 中村孝(23円)
*:家丁 木下直(49円)
*:家丁 池田倉五郎(47円)
*:家丁 渡辺繁造(44円)
*:家丁待遇 土田秀雄(運転手、105円)
 
[[]]{{sfn||1996|p=IV.7}}12[[]][[]]75{{sfn||1996|p=IV.7}}
 
== 特権 ==
688 ⟶ 795行目:
[[1886]]19428[[]]12321128500456121314{{sfn||1996|p=IV.1}}
 
500235625042919241{{sfn||1996|p=IV.1}}
 
273045{{sfn||2014|p=179-180}}
1,013 ⟶ 1,120行目:
*{{Cite book|和書|author1=鈴木博之|author2=和田久士|date=2006|title=皇室の邸宅 御用邸・離宮・宮家の本邸・別邸・庭園…全国25カ所|publisher=[[JTBパブリッシング]]|isbn=978-4533062483|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2007年(平成19年)|title= 元勲・財閥の邸宅―伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、三井、岩崎、住友…の邸宅・別邸20|author=鈴木博之|publisher=[[ジェイティビィパブリッシング]]|isbn= 978-4533066092|ref=harv}}
*{{Cite journal|date=1987年(昭和62年)|title=華族資本としての侯爵細川家の成立・展開|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tochiseido/29/4/29_KJ00005119598/_article/-char/ja/|author=千田稔|authorlink=千田稔|journal=土地制度史学29 巻4号|publisher=土地制度史学会|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[園田英弘]]|year=2011年(平成23年)|title=華族論|url=https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/779|format=PDF|journal=日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要|publisher=国際日本文化研究センター|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref= {{SfnRef|多田|1906a}}|editor= 多田好問|year= 1906|title= 岩倉公実記. 下巻 1|publisher= 皇后宮職|doi= 10.11501/781064}}