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公卿と諸侯は封建時代から縁組を繰り返しており、両者には複雑な姻戚関係があったが、身分、財産、生活状態その他万般にわたり差異があったため、明治前期の頃は堂上華族と大名華族では同じ華族でも﹁異種族﹂のごときであったという。ただし、後年になるほど両者の差異は徐々に減り、華族として一体化していく{{sfn|霞会館|1966|p=87}}。 [[File:Magokoro10-1-4.jpg|thumb|250px|聖徳記念絵画館壁画『廃藩置県』([[小堀鞆音]]筆、[[酒井忠正]]伯爵奉納)明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]([[1871年]][[8月29日]])[[廃藩置県]]を布告するため東京在京中の藩知事(大名華族)56名を[[皇居]]紫宸殿代大広間に召集した明治天皇と詔書を読み上げる右大臣[[三条実美]](堂上華族、後の公爵)。]]
特に明治初期は旧諸侯華族は各藩の藩知事を兼ねるという政治的役割を有している点において公卿華族と大きく異なったが、明治4年[[7月14日 (旧暦)|7月14日]]︵[[1871年]][[8月29日]]︶の[[廃藩置県]]をもって全ての旧 === 「華族第1号」 ===
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=== 華族の役割と「皇室の藩屏」 ===
[[廃藩置県]]によって藩知事たちが解任された明治4年7月14日︵1871年8月29日︶、旧大名華族戸主は全員[[東京府|東京]]在住が義務付けられた。旧堂上華族戸主には東京在住の義務はなく、京都在住を続ける華族もあり、彼らの事を当時の資料は﹁京都華族﹂﹁京都在住華族﹂などと称した。しかし堂上華族も明治天皇の明治元年の東幸 旧大名華族が続々と東京に結集していた頃、結婚や職業の自由などの太政官布告が出されており、特権はく奪や四民平等的な政策への不安が華族の間に広まっていた{{sfn|内藤一成|2008|p=25}}。華族たちの不安が頂点に達していた同年10月10日に[[明治天皇]]より﹁華族は四民の上に立、衆人の標的とも成られる可相成儀に付、親しく中外開化の進歩を察し、見聞を広め知識を研き、国家の御用に可相立様、各奮発勉励可致事﹂という勅旨が出された{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}{{sfn|刑部芳則|2014|p=39}}。さらに同年10月22日に明治天皇は華族全戸主を3日に分けて小御所代︵[[京都御所]]と同じ部屋を[[赤坂御所|赤坂仮御所]]内に設けた部屋︶に召集し、ここでも﹁華族は国民中貴種の地位に居り、衆庶の属目する所なれは、其履行固り標準となり、一層勤勉の力を致し、率先して之を鼓舞せさるへけんや、其責たるや亦重し﹂︵華族は国民の中の貴種の地位にあり、多くの人々が注目する存在である。その行為が標準となるので、華族は一層の勉励を率先して鼓舞しなければならない。その責任は重大である︶と勅諭している{{sfn|小田部雄次|2006|p=16}}{{sfn|刑部芳則|2014|p=44}}。京都在住の旧堂上華族たちは10月28日に京都府庁に召集され、[[京都府知事]][[長谷信篤]]から聖旨が伝えられている{{sfn|刑部芳則|2014|p=39}}。 57行目:
華族は皇室の近臣にして国民の中の貴種として民の模範たるべき存在というあり方からやがて華族は﹁'''皇室の藩屏'''︵はんぺい︶﹂と呼ばれるようになった。﹁藩屏﹂とは﹁外郭﹂のことであり、皇室の周りを取り巻く貴族集団という意味である{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。 一方、全国民ではなく、華族という一階級のみを﹁皇室の藩屏﹂と見なす議論の背景には、民衆不信・愚民視があったと考えられる。民衆は放っておけば、どのような変革を起こすかしれないので、そのような﹁人民激変﹂から皇室を守る﹁防波堤﹂になることを華族に期待する議論だったからである。だが具体的に何をすれば﹁人民激変﹂の﹁防波堤﹂たりえるのかは必ずしも明確に論じられたわけではない。華族に積極的に民衆と戦う役割が期待されているわけではなかったから、能動的な民衆不信ではなく、受動的な民衆不信の議論だったといえる。将軍家・大名家など多くの世襲制の封建権力が解体され、世襲が疑問視されるようになっていた近代において、天皇は唯一残った世襲制の権力・権威だった。華族に期待されたのは、こうした天皇の存在の特異性を緩和し、世襲の同類として存在することで天皇を社会 なお皇族も華族と似た役割を負っていたことから﹁皇室の藩屏﹂と呼ばれることがあったが、最大の違いとして皇族は﹁天皇になりうる家系﹂であり、華族は﹁天皇になりえぬ家系﹂である{{sfn|小田部雄次|2006|p=17}}。 191行目:
公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵は、それぞれ[[イギリス|英国]]の[[プリンス|prince]]、[[侯爵|marquess]]、[[伯爵|earl]]、[[ヴァイカウント|viscount]]、[[バロン (称号)|baron]]に相当するものとされた。しかし英国におけるprinceは[[王族]]に与えられる爵位であるため、[[近衛文麿]]公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。英国の爵位で公爵と[[日本語]]訳されるのは、通常は[[デューク (称号)|duke]]である。 === 華族
華族制度が存在していた時代、授爵、陞爵︵爵位が上がること︶、復爵︵失った爵位を回復すること︶を求める請願は後を絶たなかった。大正期・昭和期は明治期と比して授爵・陞爵・復爵が格段に少なくなり、門戸が閉ざされた感もあったが、当該期でも自身の功績を理由にしたもののみならず、自家の家格や由緒を理由にする請願が数多く存在していたような状況であり、請願の勢いは衰えることがなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=3}}。 ==== 王政復古から華族制度成立までの請願 ====
こうした請願の第1期となるのは、慶応4年(明治元年)の王政復古から明治2年の華族制度誕生までの間の請願である。この時期はまだ華族の名称が定まっていないため、請願は[[地下家]]身分から[[堂上家]]への昇格、万石以下の[[旗本]]身分から万石以上の[[大名]]への昇格を求めたものである{{sfn|松田敬之|2015|p=3}}。
確認できる限り最も早い堂上家取り立て請願は慶応4年1月18日の随心院門跡付弟の増縁([[九条尚忠]]の子[[鶴殿忠善]])を当主とした旧摂家[[松殿家]]再興請願だが、不許可となっている(忠善は後に[[伊木家]]への養子入りと離縁を経て、明治22年に至って九条家の分家の公家だった[[鶴殿家]]を再興して華族の男爵に列している){{sfn|松田敬之|2015|p=5}}。ついで同年4月に公家[[高辻以長]]の養子([[梅小路定肖]]の実子)である[[太宰府天満宮]]の[[延寿王院信全]]が還俗して[[西坊城家]]を再興したい旨を請願するも、不許可となっている(信全は[[西高辻家]]を起こし、その養子[[西高辻信厳]]の代の明治15年に華族に列せられて華族令制定後男爵)
[[南都]][[興福寺]]では堂上公家の次三男で出家して僧になっていた者たちが還俗のうえ堂上格を与えられている{{sfn|松田敬之|2015|p=6}}。これらの家は全家が華族となり﹁[[奈良華族]]﹂と呼ばれる家々となった{{sfn|浅見雅男|1994|p=54-58}}。 他にも興福寺の旧学侶(門跡・院家の下位)の[[朝倉景隆]]以下15名、[[春日大社]]旧社司の[[西師香]]、[[石清水八幡宮]]社務の[[田中有年]]、[[菊大路綏清]]、[[南武胤]]らによる堂上請願があったが、いずれも不許可になっている{{sfn|松田敬之|2015|p=6}}。
武家側では新田地で万石を超えるので諸侯に列してほしいという旧[[旗本]]の請願が大半を占める。認められたのは[[交代寄合]]のうち[[本堂氏|本堂家]]、[[生駒氏|生駒家]]、[[山名氏|山名家]]、[[山崎氏|山崎家]]、[[平野氏|平野家]]、[[池田氏|池田家]]の6家、[[高家 (江戸時代)|高家]]のうち[[大沢氏|大沢家]]の1家に限られ、これらは全家華族となった(後に大沢家は石高詐称発覚により士族降格。池田家は経済的困窮で爵位返上)。一般旗本も最大禄高(9500石)の[[横田氏|横田家]]をはじめ多くの家が万石以上に達したと称する諸侯編列請願運動を行っているものの、全家不許可となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=6}}。
旗本たちの請願の中で唯一石高を理由としなかったものは、[[甲斐庄氏|甲斐庄家]]による請願である。同家は南朝忠臣[[楠正成]](大楠公)の子孫であることを理由に諸侯昇格請願を行っており、その後も大正期に至るまで華族編列請願運動を繰り返したが、系図に疑問があるとされて不許可となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=7/194}}。
また陪臣からの請願としては、紀州藩家老[[久野純固]]が慶応4年8月に紀州藩から独立して朝臣に列したい旨の請願書を提出している。[[久野氏|久野家]]はいわゆる[[付家老]]ではなく単なる万石以上陪臣家であり、付家老のような[[維新立藩]]の待遇が受けられなかったので、その待遇を請願したものと思われるが、不許可になっている{{sfn|松田敬之|2015|p=7}}。なお久野家は経済的に困窮していたらしく、明治後期に(財産がある)旧万石以上陪臣家が男爵に叙されるようになった際にも男爵に叙されなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=272}}。
また前述の通り福井藩の付家老だった[[本多副元]]が明治2年から諸侯編列請願をやっている。この時点では不許可になったが、明治11年に華族の地位を認められ、後に男爵となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=8/651}}。
第1期の請願の特徴として、すべてが家格や家の由緒を理由とした請願であり、本人の勲功を理由とした請願は確認できないことがある{{sfn|松田敬之|2015|p=8}}。
==== 華族誕生から華族令までの請願 ====
つづいて明治2年6月に華族制度が成立した後、明治17年7月の華族令制定までの第2期の請願である。
第1期には甲斐庄家だけだった南朝忠臣の子孫であることを理由とした請願がこの時期から増える。特に[[楠木正成]]、[[新田義貞]]、[[菊池武時]]、[[名和長恭]]の末裔として請願を行う者が多かった。最終的には[[新田俊純]](旧[[岩松氏|岩松家]])が新田義貞、[[菊池武臣]](旧[[米良氏|米良家]])が菊池武時、[[名和長恭]]が名和長年の末裔と認められて華族に列して華族令施行後男爵となっている{{sfn|松田敬之|2015|p=9}}。楠木正成の正統の末裔と認められた者はついに出なかった{{sfn|浅見雅男|1994|p=60}}。
またこの時期から旧万石以上陪臣家が、地方庁︵府県庁︶を通じて士族から華族への昇格を求める請願を行うことが増えた。政府の案でも旧万石以上陪臣家を華族に列する案が出始める頃である。ただしこの段階では実現しなかった。明治17年の叙爵内規にも旧万石以上陪臣家は盛り込まれず、彼らが男爵に叙され始めるのは明治後期となる{{sfn|松田敬之|2015|p=10}}。 また、単に自分自身が既存の華族の戸籍に入る﹁付籍﹂を求める請願も出てくる。これは旧堂上華族の[[猶子]]となっていた寺院の僧侶に多く見られ、[[永平寺]]住職の[[細野環渓]]、[[青蔭雪鴻]]、[[清水寺]]成就院住職の園部忍慶といった僧たちが[[久我家]]・[[園家]]の猶子だったことを理由に久我、園に改姓のうえ、その華族籍に入ることを請願している。ただし、この種の請願は数としては多くなく、猶子制度の廃止後は猶父との関係を解消して生家に復籍して士族か平民になっている者が多い{{sfn|松田敬之|2015|p=10}}。 ==== 華族令から明治末までの請願 ====
つづいて華族令施行から明治天皇崩御までの第3期の請願である。
この時期の請願の特徴としては、家柄を理由にしたものばかりでなく、自身の勲功を理由とした請願が増えることが挙げられる{{sfn|松田敬之|2015|p=12}}。第2期の時期に[[大久保利通]]の[[大久保家]]、[[木戸孝允]]の[[木戸家]]、[[広沢真臣]]の[[広沢家 (伯爵家)|広沢家]]が華族に叙されたことで、家柄に依らずとも勲功のみで華族に叙され得ることが示され、華族令施行で勲功華族の叙爵が本格的に開始されたことが影響していると見られる{{sfn|松田敬之|2015|p=12}}。 ただし、この時期以降も家柄を理由とした請願は減らない。この時期の家柄関係の請願で特筆すべき傾向としては、旧大社系の神主や浄土真宗系の僧侶の授爵は「血統連綿」が重視されたことがある。たとえば、浄土真宗[[誠照寺]]26代で同派管長の[[二条秀源]]はこの時期に華族編列請願をたびたび行っているが、[[宮内庁書陵部]]宮内公文書館所蔵の『授爵録』(明治29年)によれば、宮内省は、秀厳(同寺23代目。[[二条治孝]]の子)以降の同家は、[[親鸞]]男系の血統が全く途絶えているとしてこの請願を却下しているのである{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。旧大社系からの授爵請願の却下にも同様の理由が散見される{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。他家から養子を迎えて家系をつなぐのは、堂上華族や大名華族でも少なくないはずだが、宗教系の授爵はそれよりも血統が重視されていたと見られる{{sfn|松田敬之|2015|p=13}}。
明治22年から華族編列請願を繰り返していた旧伊勢神宮内宮神主家である[[藤波亮麿]]は、『授爵録』(明治23年)の記録によれば、明治23年3月26付けで男爵に叙す明治天皇の裁可書が出ているが、直後に同族[[藤波名彦]]からの申請により急遽却下され、伊勢神宮内宮神主家(本姓は[[荒木田氏|荒木田]])の正嫡調査が行われることになり、その結果8月27日に[[沢田幸一郎]]が正統と認定されて華族の男爵に叙されるという事案が起きた。数多い華族請願史の中でも一度天皇の裁可を得ながら一転して取り消しになったのは、この一例のみである{{sfn|松田敬之|2015|p=14}}。
明治30年代になると第2期の時期から請願が多かった旧万石以上陪臣家の男爵への叙爵が開始される。宮内省は以前から各地方庁(道府県庁)を通じて対象者の身辺調査を行っており、その家庭状況や、華族としての体面を維持するに足りる財産を持っているかの把握に努めていた。その調査に基づき、旧万石以上陪臣家でも華族に足りる財産(年500円以上を生ずる財本)を持っていない家の請願は却下している{{sfn|松田敬之|2015|p=15/68}}{{#tag:ref|財産条件をクリアできず授爵請願を却下された旧万石以上陪臣家は、[[志水家]](旧尾張藩家老)、[[山野辺家]](旧水戸藩家老)、[[久野家]](旧紀州藩家老)、[[横山氏|横山分家]](旧加賀藩家老)、[[本多氏#その他|本多分家]](同)、[[登米伊達家]](旧仙台藩一門)、[[亘理家]](同)、[[陸奥石川氏|石川家]](同藩家老)、[[留守氏|留守家]](同)、[[茂庭氏|茂庭家]](同)、[[須古鍋島家]](旧佐賀藩一門)、[[村田氏|村田家]](同)、[[神代氏|神代家]](同)の13家{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。|group="注釈"}}。
この時期の授爵は、旧万石以上陪臣家に限らず、他の授爵でも財産の有無を重視する傾向がある。ただこれには批判もあり、旧伊勢神宮外宮神主家の[[久志本常幸]]は、明治27年に宮内省次官[[花房義質]]に宛てた書状の中で、もし楠木正成正統の子孫が発見されたとしても華族としての体面を維持できる財産を持っていなかったら華族に列しないつもりなのかと批判している{{sfn|松田敬之|2015|p=15}}。
明治33年5月9日に授爵された60名のうち、26名の勲功華族について授爵の基準として、次の五項目の基準が明文で示された{{sfn|松田敬之|2015|p=16}}。
#維新の際、大政に参与し、特殊の功労ありし者
#維新の功により[[賞典禄]]50石以上を賜りたるものにして、現に[[勅任官]]にある者
#維新前後、国事に功労ありし者にして、10年以上勅任官の職にありし者、または現に勅任官在職中の者(ただし、勅任官在職10年未満といえども、6年以上在職、特に録すべき功績の顕著なる者)
#10年以上勅任官在職の者にして、功績の顕著なる者(ただし勅任官在職10年未満といえども、6年以上在職、特に録すべき功績の顕著なる者)
#特に表彰すべき、偉大の功績なる者
具体的な在職年数などが明示された初の勲功華族の基準である。この基準はこの後の勲功華族の授爵でも参考にされたと思われるが、該当者が年々増加する基準であるうえ、大正時代以降は爵位が認められる基準が厳しくなっていく{{sfn|松田敬之|2015|p=16}}。
==== 大正期の請願 ====
大正期は授爵も陞爵も明治期に減少するが、請願は相変わらず多く存在した。特に大正3年と4年に請願が多かった。これは大正4年に挙行された大正天皇の即位大礼に際して大規模な栄典授与が行われるであろうことに期待した動きである{{sfn|松田敬之|2015|p=23}}。
しかし大正デモクラシーの高まりにより、大正期は華族の世襲制度が国民の強い批判を受けていた。そのため、宮内省はこの頃から家柄や先祖の功績を理由にした授爵を忌避するようになり、今後の授爵は本人の勲功を理由としたものに限定する方針を固めつつあった。そんな中でも旧[[交代寄合]]だの、旧[[地下家]]だの、中古以来の名族の末裔だの、家柄を理由にした授爵請願は後を絶たなかったが、宮内省はこの手の家柄を理由にした請願はことごとく却下して取り合わなくなった{{sfn|松田敬之|2015|p=23}}。
また大正期は藩閥の衰退で藩閥的経歴を持っていると不当に選に漏れることがあった。たとえば、大正4年12月の叙爵で「地方官の二元老」と呼ばれる有力地方官[[大森鐘一]]と[[服部一三]]が候補にあがったが、大森だけ華族となり、服部は華族になれなかったことがあった。2人は官歴が類似しており、[[勲一等旭日大綬章]]の叙勲も、[[正三位]]に叙されたのも、[[知事]]として[[親任官]]待遇を与えられたのも同日だったから、華族になるのも同日であるのが公正であり、新聞紙上でも2人は同日に授爵されるだろうと予想されていた。ところが、実際に華族になれたのは大森だけだった。服部は旧長州藩士の家系の出身者だったので不当に退けられ、大森は旧幕臣家系出身者だったので奏功したのではないかと言われる{{sfn|松田敬之|2015|p=24}}。
==== 昭和期の請願 ====
昭和期になると大正期以上に授爵・陞爵は狭き門となる{{sfn|松田敬之|2015|p=26}}。
『東京朝日新聞』昭和3年9月12日付朝刊の「叙爵・昇爵の範囲協議昨日の閣議」という見出しの記事によれば、今秋の御大典(即位大礼)を機に授爵・陞爵の基準を定めることが内閣・宮内省の間で協議検討されており、協議の中で内閣と宮内省が次の点で一致したと報じている{{sfn|松田敬之|2015|p=28}}。
#家格による授爵は認めないこと(例えば「何十万石の大名だったから、これに比適する爵位を」だの「先代に功労があったから、その子孫に授爵を」だのといった請願は問題外とする)
#その人自身の偉勲、偉功を挙げて奏請すること
#大正4年の御大典の際には昇爵は奏請しなかったが、今回は主義として昇爵の奏請を認めること。
ついに華族の授爵・陞爵は当人に勲功がある場合のみとなり、家格や先祖を理由とした授爵・陞爵請願は一切不可能となった。そのような時期であるにも関わらず、昭和天皇の即位の大礼に狙いを定めて、[[伊達氏|伊達宗家]]の[[伊達興宗]]伯爵︵伯爵→侯爵請願︶、旧盛岡藩[[南部氏|南部家]]の[[南部利淳]]伯爵︵伯爵→侯爵請願︶、[[会津松平家]]の[[松平保男]]子爵︵子爵→伯爵請願︶など先祖が戊辰戦争で[[減封]]を受けた結果、爵位が落ちたと主張する旧大名華族が陞爵請願をやっているが、当然全員不許可となっている。昭和初期はもはや家柄を理由にして陞爵が認められるような時代ではなかった{{sfn|松田敬之|2015|p=28/430/535/691}}。 ただし、皇族の臣籍降下による授爵は例外であり、昭和期にも頻繁に行われている。昭和期に家柄関係で認められる授爵は皇族の臣籍降下のケースのみである{{sfn|小田部雄次|2006|p=363-364}}。 == 華族の財産 ==
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しかし、1880年代以降になると土地所有の安定有利性が増大し、皇室の御料地設定を契機として、富裕な華族が関東、東北、北海道などの御料林周辺の官有地の払い下げを受けて土地所有を増やしていく{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.2-3}}。 明治10年代から旧臣の保護授産のため北海道開拓の援助をしていた旧尾張藩主家の[[徳川義礼]]侯爵や旧加賀藩主家の[[前田利嗣]]侯爵は、明治20年以降には北海道に個人農場を所有して大規模土地所有者となっている{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。北海道は明治19年の土地払下規則に基づいて広大な官有地が有利な条件で処分されていたから、このほかにも多くの華族が北海道に土地を購入して農場主となっている。太政大臣[[三条実美]]公爵、[[菊亭修季]]侯爵、[[蜂須賀茂韶]]侯爵らが共同出資した華族組合農場などが有名である{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。 旧大藩大名華族の土地所有の事例として[[細川氏|細川]]侯爵家の事例を挙げる。同家は明治前期に多額の金禄公債を獲得して金利生活を送りつつ、それに留まらず、それを積極的に運用する資本として登場し、明治10年代前半頃から旧領だった[[熊本県]]において免祖新地を中心に土地を購入。[[芦北郡]]、[[八代郡]]、[[玉名郡]]に最低642[[町 (単位)|町]]という広大な新地を取得したのを皮切りに、明治30年末までには熊本県の千町歩地主となっている{{sfn|千田稔|1987|p=41/58-59}}。
さらに東京府内にも土地を所有し、明治末の時点では[[麹町区]][[麹町]]3,798坪(うち224坪、貸家5棟)、[[日本橋区]][[日本橋浜町|浜町]]13,182坪(うち11,242坪が貸地、1941坪が賃家37棟)、[[小石川区]][[茗荷谷町]]1,883坪(うち1877坪貸地)、同[[関口町]]2,176坪、同[[関口台町]]7,228坪と同[[高田老松町]]12,145坪(関口台町と高田老松町にまたぐ2,459坪の土地に貸家30棟)、同[[高田豊川町]]2,797坪、[[浅草区]][[今戸町]]2,238坪(2,545坪貸地)、荏原郡北品川宿1,421坪、北豊島郡高田村1,194坪(貸家4棟)を所有している{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。東京の土地はかなりの部分が貸地・貸家経営に供されているが、東京市内の宅地にかかる税金は高額であり、経費が収入を大幅に超過しているものが多い{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.3}}。
また細川侯爵家は[[朝鮮]]の大地主だったことも特筆される。明治37年8月に[[第一次日韓協約]]が締結されると同家はただちに家従を渡韓させ、[[全羅北道]](全北)の土地買収のための調査を開始させている。細川家がここに目を付けたのは、朝鮮における農産業の主要地でありながら低廉だったためである。特に「細川家韓国出張所」が設置された大場村は水陸接続の要地で肥沃でありながら水害が稀な絶好の営農地だった。細川侯爵家は、かかる土地に明治38年から40年にかけて、毎年約2万円前後の予算で100町歩前後ずつ田畑を購入している。明治44年からは[[全羅南道]](全南)にも進出を開始し、大正3年までに全北・全南合わせて1683町歩に及ぶ広大な田畑を取得。その結果、大正8年、9年、12年、13年には朝鮮からの収入が熊本県からの収入を凌駕するに至っている{{sfn|千田稔|1987|p=48-51}}。
大正時代の細川侯爵家の基本財産(土地)にかかる歳入歳出は、東京が赤字だが、熊本と朝鮮から上がる莫大な小作料収入がそれをカバーしており、全体としては大きな黒字である{{sfn|千田稔|1987|p=56}}。ただし、熊本・朝鮮の大地主になったことで細川侯爵家の金利生活者の面がなくなったわけではない。同家の経産方は公債・株券売買や貸付・預金などに従事した銀行類似の資本だったのであり、明治中期以降は所有会社を株式会社形態に改組して積極的な資本主義ブルジョア化を進め、ほぼ小作料収入に匹敵する有価証券収入を得ている(純収入では有価証券収入が小作純収入を凌駕している){{sfn|千田稔|1987|p=58}}。
=== 旧堂上華族・奈良華族・神官華族の保護 ===
一方、
明治天皇は、古代より歴代天皇に奉仕し、皇室との由緒が深い堂上華族が困窮しているのを見かねており、彼らの保護策を考えていた。明治22年︵1889年︶には旧五摂家の近衛公爵家、鷹司公爵家、九条公爵家、二条公爵家、一条公爵家の5家に対して総計10万円が明治天皇より下賜された。皇室と特別な関係にある旧五摂家が没落しないようにとの配慮であったが、この下賜金は旧五摂家の公爵家に限定されていたことから、宮内省内では侯爵以下の堂上華族にも適当な資金を配分する制度を作るかの調査委員会が[[近衛篤麿]]公爵を委員長として設置された{{sfn|刑部芳則|2014|p=174}}。 449 ⟶ 525行目:
この配分は維新前からの堂上家のみが対象となり、奈良華族など維新後に堂上格を与えられた家は対象とならなかったが、明治30年12月には奈良華族・神官華族の男爵19名を対象に総額3050円の援助が行われ、その後も毎年1家につき300円以内の恵与が行われた。恵恤賜金の貯蓄額が増加してきたので堂上華族に次いで皇室との由緒がある彼らにも金を配る余裕が出てきたのである{{sfn|刑部芳則|2014|p=179}}。 恵恤賜金の管理期限は明治42年1月1日から15年延長され、明治45年7月9日には﹁旧堂上華族保護資金令﹂︵皇室令第3号︶が公布されて恵恤賜金が保護資金に改称されるとともに、これまで不透明だった保護資金の管理方法が明記された。またこの交付に合わせて﹁男爵華族恵恤金﹂も別に設置されて﹁男爵華族恵恤資金恩賜内則﹂が作成され、奈良華族 一方、旧堂上華族と同水準の経済状況にありながら、恵恤賜金に与かれない旧小藩大名華族は不満を抱き始めた。京都の地方紙﹃[[日出新聞]]﹄の報道によれば、明治27年4月12日に[[京極高典]]子爵︵旧讃岐多度津藩主家︶、[[新庄直陳]]子爵︵旧常陸麻生藩主家︶、[[鳥居忠文]]子爵︵旧下野壬生藩主家︶、[[板倉勝達]]子爵︵旧三河重原藩主家︶、[[米津政敏]]子爵︵旧常陸竜ヶ崎藩主家︶を総代として旧小藩大名華族90余名が連帯して、宮内大臣[[土方久元]]に宛てて意見書を送り、公家も大名家も職種に差異はあっても皇室に奉仕してきた点は変わらない、天皇陛下から公家・武家は一致協力して華族の義務を果たすようにとの勅諭が下されているにもかかわらず、旧堂上華族のみ恵恤賜金が与えられるのは不公平と訴えた。土方がこれにどう回答したかは分からないが、大名華族に恵恤賜金が認められることはなかった。恵恤賜金は困窮華族を手当たり次第に救済する制度ではなく﹁皇室への奉仕の由緒﹂に重きが置かれていた制度だからである{{sfn|刑部芳則|2014|p=182}}。 492 ⟶ 568行目:
明治20年代以降、湘南地域では海水浴客を対象に大旅館、料亭、茶室などが次々と建設されて賑わった。華族の別荘も多く建設された。特に大磯と葉山が有名である{{sfn|青木信夫|1996|p=II.5}}。 [[大磯町|大磯]]は[[東海道線]]の大磯停車場の開設を契機として別荘地として栄えるようになった。[[伊藤博文]]、[[西園寺公望]]、[[山縣有朋]]、[[原敬]]、[[島津忠亮]]、[[酒井忠道]]、[[徳川頼倫]]、[[鍋島直大]]、[[岩崎彌太郎]]、[[浅野総一郎]]などの政治家、華族、実業家 [[葉山町|葉山]]は駐日イタリア公使 ==== 那須 ====
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財閥華族の三井男爵家では華族になる前は独自の役職名の家政組織を持っていたが、明治29年に惣領家が男爵に叙位されて華族に列した際に家政組織の役職名を他の華族に合わせ、[[家令]]、[[家扶]]、[[家従]]、[[雇員]]、[[御者|馭者]]、[[家丁]]︵以上表役員︶、老女、女中︵以上茶の間員︶、料理人、小使、半女、車夫、[[厩務員|馬丁]]︵以上台所員︶という名称に変更している。ただ三井惣領家では実際には家令は置いてなかったようである{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.11}}。 === 使用人の給与 ===
[[細川氏|細川]]侯爵家の『職員録』に記載されている昭和14年時の使用人の役職・氏名・給与(月給)を事例としてあげる{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.7}}。
*「家政所」(高田本邸内の事務所)
*:家扶 [[馬場一衛]](250円)
*:書記役 高岡光雄(80円)
*:家従 中村隆徳(守衛、75円)
*:書記役 緒方鉄雄(70円)
*:雇書記役 岐部正之(55円)
*:雇書記役 建部勇(50円)
*:雇 井戸次雄(43円)
*:女中待遇 岩橋ヨシ(御居間掃除嘱託、25円)
*:藤田辰雄(家政所事務嘱託、80円)
*:松島敏(給仕、17円)
*:小使 金子米喜知(36円)
*細川侯爵家本邸([[小石川区]][[高田老松町]])
*:家扶 菱田喜太郎
*:家従 新美辰馬(105円)
*:家従 鵜殿又男(89円)
*:家従 安藤又雄(75円)
*:女中 木村キク(40円)
*:女中 本田操(38円)
*:女中 山川トシ(23円)
*:女中 田上シヅエ(23円)
*:女中 中村孝(23円)
*:家丁 木下直(49円)
*:家丁 池田倉五郎(47円)
*:家丁 渡辺繁造(44円)
*:家丁待遇 土田秀雄(運転手、105円)
当時細川侯爵家は家令を置いておらず、家扶が最上位であり、家扶の給与が別格になっている。[[細川護貞]]の証言などから、家丁・女中については実際にはこれよりも多くいたと考えられる{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.7}}。なお昭和12年時における[[高等官]]︵[[高等文官試験]]合格者︶の初任給︵月俸︶は75円である{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.7}}。 == 特権 ==
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[[1886年]]︵明治19年︶4月28日には[[華族世襲財産法]]が公布され、華族は差し押さえを受けない世襲財産の設定が可能となった。同法の要旨は次のとおりである。世襲財産には第1類︵田、畑、山林、宅地、塩田、牧場、池沼等︶と第2類︵政府発行の公債証書、または政府の保証もしくは特別な監督に属する銀行・会社の株券︶の分類があり︵同法3条︶、宮内大臣の許可を得て第2類の財産を第1類に換えることは可能だったが、第1類の財産を第2類に換えることはできなかった︵同法8条︶。世襲財産の設定のためには最低額として毎年500円以上の総収益を生じる財産である必要があった︵同法4条︶。家屋や庭園、図書、宝器も世襲財産付属物と為しえた︵同法5条︶。﹁負債償却ノ義務アル財産﹂は世襲財産およびその付属物にはなしえなかった︵第6条︶。世襲財産はその純収益を抵当として負債をなしうるが、債務額は毎年純収益の三分の一を超えることはできなかった︵第12条︶。世襲財産の売却・譲与・質入書入は禁止されており︵13条︶、また負債の抵当として差し押さえはできなかった︵14条︶{{sfn|青木信夫|1996|p=IV.1}}。 この法律が制定されると資産の富裕な華族は積極的に世襲財産の設定を行ったが、資産の乏しい男爵や勲功華族の中には年収500円以上の物件自体を設定できない者が多く、そのため世襲財産を設定した また前述の通り堂上華族、奈良華族、神官華族は、明治27年以降︵奈良華族と神官華族は明治30年から︶、皇室の御手許金から出された﹁旧堂上華族恵恤賜金﹂で購入された公債証書の利子の配分が受けられるようになった。明治45年には恵恤賜金が保護資金に改称され、また﹁男爵華族恵恤金﹂が設置されて奈良華族と神官華族への配当はそこから行うことになった{{sfn|刑部芳則|2014|p=179-180}}。これは大名華族や勲功華族には認められていない、皇室への奉仕の特別な由緒がある華族のみの経済的特権であった。 1,013 ⟶ 1,120行目:
*{{Cite book|和書|author1=鈴木博之|author2=和田久士|date=2006|title=皇室の邸宅 御用邸・離宮・宮家の本邸・別邸・庭園…全国25カ所|publisher=[[JTBパブリッシング]]|isbn=978-4533062483|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=2007年(平成19年)|title= 元勲・財閥の邸宅―伊藤博文、山縣有朋、西園寺公望、三井、岩崎、住友…の邸宅・別邸20|author=鈴木博之|publisher=[[ジェイティビィパブリッシング]]|isbn= 978-4533066092|ref=harv}}
*{{Cite journal|date=1987年(昭和62年)|title=華族資本としての侯爵細川家の成立・展開|url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/tochiseido/29/4/29_KJ00005119598/_article/-char/ja/|author=千田稔|authorlink=千田稔|journal=土地制度史学29 巻4号|publisher=土地制度史学会|ref=harv}}
*{{Cite journal|author=[[園田英弘]]|year=2011年(平成23年)|title=華族論|url=https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/779|format=PDF|journal=日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要|publisher=国際日本文化研究センター|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|ref= {{SfnRef|多田|1906a}}|editor= 多田好問|year= 1906|title= 岩倉公実記. 下巻 1|publisher= 皇后宮職|doi= 10.11501/781064}}
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