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{{Infobox 作家
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| subject = 寂寥感・孤独感・倦怠感・憂鬱感・空虚感
| movement = [[象徴主義]]・[[芸術詩派]]・[[アフォリズム]]・[[口語自由詩]]・[[神秘主義]]
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| awards = 第8回[[文学界賞]](1936年)<br />第4回[[透谷文学賞]](1940年)
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'''萩原 朔太郎'''(はぎわら さくたろう、[[1886年]]([[明治]]19年)[[11月1日]] - [[1942年]]([[昭和]]17年)[[5月11日]])は、[[日本]]の[[詩人]]、[[評論家]]。[[大正|大正時代]]に[[近代詩]]の新しい地平を拓き「
== 生涯 ==
=== 誕生から学生時代 ===
[[群馬県]][[東群馬郡]][[北曲輪町 (前橋市)|北曲輪町]](のちの[[前橋市]]北曲輪町(現・
[[千代田町 (前橋市)|千代田町]]一丁目))に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。[[1893年]]([[明治]]26年)に[[群馬大学教育学部附属小学校|群馬県師範学校附属小学校]]に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」<ref>詩人全集(1966年)P.319</ref> と孤独を好み、一人で[[ハーモニカ]]や[[手風琴]]などを楽しんだ。
師範学校附属小学校高等科を卒業後、[[1900年]]︵明治33年︶に旧制県立前橋中学校︵現・[[群馬県立前橋高等学校]]︶入学。この時代に従兄弟[[萩原栄次]]に短歌のことを教わる。校友会誌に﹃ひと夜えにし﹄と題してはじめて[[短歌]]五首を発表。在学中に級友と共に﹃野守﹄という回覧雑誌を出して短歌を発表する。﹃野守﹄には[[町田佳声|町田嘉章]]も加わり交友を深めた。作品には[[与謝野晶子]]の影響が見られ、[[1903年]]︵明治36年︶に[[与謝野鉄幹]]主宰の﹃[[明星]]﹄に短歌三首掲載され、[[石川啄木]]らと共に﹁[[新詩社]]﹂の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた<ref>︵﹁永遠の退屈﹂︶</ref>。結局、中学で落第。 [[1907年]]︵明治40年 === 歌人・詩人としての出発 ===
[[File:Hagiwara Sakutaro.jpg|thumb|180px|萩原朔太郎(1930年)]]
[[File:'Portrait of Hagiwara Sakutarô', woodblock print by Onchi Kôshirô, 1943, 1st edition, National Museum of Modern Art, Tokyo.jpg|thumb|180px|[[恩地孝四郎]]が描いた朔太郎の肖像]]
[[1913年]]([[大正]]2年)に[[北原白秋]]の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の[[詩]]を発表、[[詩人]]として出発し、そこで[[室生犀星]]と知り合い、室生とは生涯の友となる。[[1914年]](大正3年)に東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする<ref group="注釈">現在、[[文化財]]として保存されている。</ref>。6月に室生犀星が[[前橋]]を訪れ、そこで[[山村暮鳥]]と3人で詩・宗教・音楽の研究を目的とする「[[人魚詩社]]」を設立。[[1915年]](大正4年)には詩誌『[[卓上噴水]]』を創刊。「ゴンドラ洋楽会」を組織してマンドリンやギターを教授して前橋や[[高崎市|高崎]]で演奏会を開催する。またこのころから教会に出入りし、神や信仰、罪などの問題に悩み始める<ref>詩人全集(1966年)P.322</ref>。
[[1916年]]︵大正5年︶春頃から自宅で毎週一回の﹁詩と音楽の研究会﹂を開き、6月に室生犀星との2人雑誌﹃[[感情 (雑誌)|感情]]﹄を創刊。高度に成熟した[[散文詩]]や[[評論]]を発表し始め、[[1917年]]︵大正6年︶32歳で、第一詩集﹃[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]﹄を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。内容・形式共に従来の詩の概念を破り、口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。[[森 [[1918年]]︵大正7年︶﹃[[感情 (雑誌)|感情]]﹄に詩 === 再度の上京から「氷島」まで ===
[[1923年]]︵大正12年︶1月26日詩集﹃青猫﹄刊行、7月﹃蝶を夢む﹄を刊行し、[[谷崎潤一郎]]を訪問。[[1924年]]︵大正13年︶2月に雑誌﹃新興﹄創刊号に発表した﹁情緒と理念﹂一二篇により同誌が発売禁止となる。[[1925年]]︵大正14年︶には妻 [[1926年]]︵大正15年・[[昭和]]元年︶荏原郡[[馬込町 (東京府)|馬込町]]︵現・[[大田区]]内︶に転居。[[1927年]]︵昭和2年︶頃から[[三好達治]]、[[堀辰雄]]、[[梶井基次郎]]などの [[1929年]](昭和4年)7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町(現・港区赤坂)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町(現・新宿区内)に居住。[[1931年]](昭和6年)5月、[[万葉集]]から[[新古今和歌集|新古今集]]にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。[[1933年]](昭和8年)に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、[[与謝蕪村]]や[[松尾芭蕉]]など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。
=== 日本主義者への変貌 ===
[[1934年]]︵昭和9年︶に詩集﹃氷島﹄を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。[[1935年]]︵昭和10年︶4月﹃純正詩論﹄、10月﹃絶望の逃走﹄、11月には﹃猫町﹄を刊行。自らが発起人となって[[伊東静雄]]の出版記念会を行った。[[1936年]]︵昭和11年︶3月﹃郷愁の詩人与謝蕪村﹄、5月随筆論評集﹃廊下と室房﹄を刊行。前年に雑誌﹃[[文学界]]﹄に連載した﹁詩壇時評﹂により、第八回文学界賞を受ける。10月に﹁[[詩歌懇和会]]﹂が設立されると役員となる。 [[1937年]](昭和12年)に[[上毛新聞]]主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。3月『詩人の使命』、8月『無からの抗争』を刊行。「[[透谷会]]」の創立発起人となり、9月に「透谷文学賞」が設立されると、[[島崎藤村]]・[[戸川秋骨]]・[[武者小路実篤]]と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。[[1938年]](昭和13年)1月「新日本文化の会」の機関紙『[[新日本]]』を創刊。3月に『日本への回帰』を発表して[[日本主義]]を主張し、一部から[[国粋主義者]]と批判される。雑誌『
[[1939年]]︵昭和14年︶に[[パノンの会]]︵正式名・詩の研究講義の会︶を結成。9月﹃宿命﹄を刊行。[[1940年]]︵昭和15年︶に﹃帰郷者﹄︵第四回透谷文学賞受章︶、﹃港にて﹄を刊行し、10月﹃阿帯﹄を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始め、[[1942年]]︵昭和17年 == 家族 ==
長女・[[萩原葉子]]も
== 著作 ==
=== 詩集 ===
*『月に吠える』感情詩社 ほか, 1917([[角川文庫]]・[[講談社文庫]]で再刊)
*『蝶を夢む』[[新潮社]], 1923
*『青猫』新潮社, 1923(三笠文庫、新潮文庫で再刊)
*『純情小曲集』新潮社, 1925
*『萩原朔太郎詩集』[[第一書房 (第1期)|第一書房]], 1928(復刻版も刊)
*『氷島』第一書房, 1934
*『定本 青猫』版画荘, 1936
*『宿命』[[創元社]], 1939(創元文庫<ref group="注釈">昭和20年代後半に、伊藤信吉らの解説で文庫選集を刊行</ref> で再刊)
;選集「詩集」
*『萩原朔太郎詩集』 [[三好達治]]選、[[岩波文庫]], 1952、改版1981
*『萩原朔太郎詩集』 [[伊藤信吉]]編、[[彌生書房]], 1963/角川文庫, 1956
*『萩原朔太郎詩集』 [[河上徹太郎]]編、[[新潮文庫]]、改版2004
*『萩原朔太郎詩集』 [[思潮社]] [[現代詩文庫]], 1975
*『萩原朔太郎 近代の詩人7』 [[中村真一郎]]編・解説、[[潮出版社]], 1991
*『青猫 萩原朔太郎詩集』 [[阿毛久芳]]解説、[[集英社文庫]], 1993
*『月に吠える 萩原朔太郎詩集』 [[角川文庫]], 改版1999
*『萩原朔太郎詩集』 [[ハルキ文庫]]・[[角川春樹事務所]], 1999
===
*『新しき欲情』[[アルス (出版社)|アルス]], 1922
*『虚妄の正義』第一書房, 1929([[講談社文芸文庫]]で再刊)
*『絶望の逃走』第一書房, 1935
*『港にて』創元社, 1940
===
*『詩論と感想』素人社書屋, 1928
*『純正詩論』第一書房, 1935
*『猫町』版画荘, 1935 - 唯一の小説
*『人生読本 春夏秋冬』[[辻野久憲]]編、第一書房, 1936([[ちくま文庫]]で再刊)
*『廊下と室房』第一書房, 1936
*『詩人の使命』第一書房, 1937
*『無からの抗争 詩と文学に関する問題』[[白水社]], 1937
*『日本への回帰』白水社, 1938
*『帰郷者』[[白水社]], 1940([[中公文庫]]で再刊)
*『阿帯 萩原朔太郎随筆集』河出書房, 1940
===
*『詩の原理』第一書房, 1928(創元選書、新潮文庫で再刊)
*『恋愛名歌集』選評 第一書房, 1931(岩波文庫で再刊, 2022)
*『郷愁の詩人 [[与謝蕪村|與謝蕪村]]』第一書房, 1936(新潮文庫、岩波文庫で再刊)
*『昭和詩鈔』[[冨山房]]百科文庫, 1940
===
*『萩原朔太郎全集』全10巻・別冊 [[小学館]], 1943-44
*『萩原朔太郎全集』全8巻 [[東京創元社|創元社]], 1951。伊藤信吉ほか解説
*『萩原朔太郎全集』全5巻 [[新潮社]], 1959-60。編集委員:室生犀星・三好達治・伊藤信吉
*『萩原朔太郎全書簡集』[[人文書院]], 1974。伊藤信吉編
*『萩原朔太郎全集』全15巻 筑摩書房, 1975-78、補訂版(全16巻), 1986-89
*『萩原朔太郎全詩集』筑摩書房, 1979
=== 編著・選集(新版)===
*『昭和詩鈔』萩原朔太郎編、[[安藤元雄]]解説、[[冨山房]]百科文庫、1977、新版1989(本編は上記版)
*『エレナ! 萩原朔太郎<郷土望景詩>幻想』[[司修]]画、[[小沢書店]]、1993
*『萩原朔太郎の人生読本』[[辻野久憲]]編、[[ちくま文庫]]、1994
*『猫町 他十七篇』[[清岡卓行]]編、岩波文庫、1995
*『萩原朔太郎 [[ちくま日本文学]]』 [[筑摩書房]]、2009。文庫判
*『萩原朔太郎 近代浪漫派文庫21』 [[新学社]]、2005
*『猫町』[[金井田英津子]]・画、パロル舎 のち長崎出版 / しきみ・画 立東舎。ISBN 4845628791
*『宿命』(未来社〈転換期を読む〉、2013)
*[[室生犀星]]との共著『二魂一体の友』中公文庫、2021。巻末は娘の萩原葉子×室生朝子対談
*『詩人はすべて宿命である』[[国書刊行会]]、2022(安智史・栗原飛宇馬編)
==
[[ファイル:Maebashi City Museum of Literature Hagiwara Sakutaro statue.jpg|thumb|前橋文学館]]
[[File:A plaque posted on the concourse of Naebo Station.jpg|thumb|JR苗穂駅出札口上の額]]
*出生地である[[前橋市]]にある[[水と緑と詩のまち前橋文学館]]に、地元出身の詩人[[伊藤信吉]](全集編集に従事し、伝記『萩原朔太郎』により、第28回[[読売文学賞]]を受賞)らの努力により、朔太郎など[[群馬県]]出身の詩人に関する貴重な資料が保存・展示されている。
*[[2007年]]9月7日、台風による強風で木が倒れ、生家に直撃し、屋根などが破損し修理された。
*朔太郎の功績を記念し、前橋市の条例により、[[萩原朔太郎賞]]が制定されている。萩原朔太郎賞一覧([http://homepage3.nifty.com/sakutarou/genzai/shou.htm 萩原朔太郎賞一覧]-萩原朔太郎研究所 のHPより)
*前橋市[[敷島公園]]に詩碑が建立されている。
*[[2013年]](平成24年)東京世田谷の市民ボランティア団体[[北沢川文化遺産保存の会]]が、朔太郎終焉の地近くの北沢川緑道に「萩原朔太郎・葉子と代田の丘の61号鉄塔」という由来碑を建立した。これには『定本青猫』の一節が刻まれている。この高圧鉄塔は、萩原朔太郎の居住痕跡を示す唯一のものということで「[[世田谷区]]地域風景資産」に選定されている。
*没後80年となる[[2022年]]、朔太郎に関する企画展「萩原朔太郎大全2022」が全国52カ所の文学館等で開催された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.atpress.ne.jp/news/312430 |title=「萩原朔太郎大全2022」を開催 ~萩原朔太郎没後80年記念事業~ |publisher =アットプレス |date=2022-06-08 |accessdate=2022-12-04}}</ref>。
*[[北海道旅客鉄道|JR北海道]][[苗穂駅]]の出札口上に「ふらんすへ 行きたしと...」で始まる朔太郎の詩「旅上」の一節が書かれた額が掲げられている。この一節は[[2018年]]の現駅舎供用開始前まで使用された旧駅舎の頃から長らく駅舎の外壁に看板として掲げられており<ref>{{Cite web|和書|url=https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000244643 |title=苗穂駅に掲示されている、「フランスに行きたいが遠いので、せめて新しい背広に着替えて旅に出よう」というような内容の詩の作者とタイトルを特定したい。 |date=2018-10-31 |work=[[国立国会図書館]] レファレンス協同データベース |accessdate=2023-11-16}}</ref>、駅を通る列車からよく目立つこともあって苗穂駅の名物として親しまれていた。
== 作品の特徴 ==
[[1917年]]2月刊行の処女詩集『[[月に吠える (萩原朔太郎の詩集)|月に吠える]]』で全国に名を知られるようになった。続いて[[1923年]]1月に『[[青猫]]』を刊行。これは『月に吠える』と並ぶ朔太郎の代表作とされている。白秋に次いで[[文化学院]]で教鞭をとる。
この他、『蝶を夢む』、『萩原朔太郎詩集』、それらを集成した『定本青猫』がある。これらの作品は、口語体によって書かれ、[[高村光太郎]]と共に「[[口語]][[自由詩]]の確立者」とされる。一方、実生活上では医師の長男でありながら、生涯定職に就かなかった負い目の意識や、2度の離婚。最初の離婚にまつわる家庭内のいざこざが原因で次女に知的障害が残るなど、過失の意識を強めていった。[[1934年]]6月に刊行された『氷島』では、全篇[[漢文]]調の文語体を用いて、寂寥と懐疑の情を訴えている。この作品を巡っては、評価は好悪まったく二分されている。最後の詩集は、[[散文詩]]と[[抒情詩]](行わけ詩)をまとめた綜合詩集『宿命』であった。
==
*[[マンドリン]]奏者でもあり、たびたび前橋市で演奏している。[[群馬県立前橋高等学校]]には朔太郎にちなんで結成されたギター・マンドリン部がある。[[ギター]]も独学で学んでおり、家では娘[[萩原葉子]]が[[マンドリン]]を弾き、朔太郎が[[ギター]]を弾くということもあったという。朔太郎の演奏は非常に感情がこもっており、「音楽は正確なテンポと感情が大事だよ」と娘に決まって言っていた。
*[[1902年]](明治35年)頃、16歳の時最初のカメラを買って写真を始めた。この時従兄である萩原栄次の日記に「朔ちゃんが六五銭の写真機を買って来て、屋根の上から釣鐘堂を撮す」とある。この頃はパノラマでない通常の、おそらく軽便写真器を使っていたが、明治期に撮影されたと思われるステレオ[[写真乾板]]も存在することから写真を始めて10年程ですでにステレオカメラを入手し、その後は特にパノラマ写真を好んだ。ステレオカメラに詳しい島和也によれば使ったカメラは[[ジュール・リシャール]]のヴェラスコープではないかという。前橋文学館に45×107mm判写真乾板が展示されている。これらの写真は妹の幸子の家で1972年に発見され、前橋市立文化会館館長で若い頃から朔太郎の詩に魅せられ研究を続けていた野口武久の元に持ち込まれ、7年をかけて撮影年代や場所を特定され、1979年『萩原朔太郎撮影写真集』として出版され、また再編集の上で1994年10月『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景』として出版された<ref>『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』p.116。</ref>。
*大の[[ミステリ]]ファンとして知られており、1926年のエッセイ「[[推理小説|探偵小説]]に就いて」で[[江戸川乱歩]]の、とくに「[[人間椅子 (江戸川乱歩)|人間椅子]]」を賞賛(ちなみに、朔太郎の詩に「腕のある寝台」の題もある)。1931年からは直接親交を結び、「[[パノラマ島奇譚]]」を賞賛した(朔太郎が「パノラマ島奇譚」を直接に論じた文章は現在までの所確認されていないが、乱歩の『[[探偵小説四十年]]』中に、朔太郎が直接乱歩に賞賛の言葉を贈った旨の回想がある。朔太郎自身、しばしば[[パノラマ]]を詩・散文詩のモティーフとして取り上げている)。
*20代の頃から手品に興味を持っており、晩年になって阿部徳蔵主催のアマチュア・マジシャン・クラブに入会した。当時この会に入会するのは難しかったそうで入会した時には「僕のようなものでも不思議に入会できたよ。なにしろ偉い人達ばかりなので詩人の僕など、とてもだめかと思っていたのだが…。」とまるで子どものような表情で喜んでいたという。亡くなるまで手品を楽しんでおり、朔太郎の亡き後書斎の棚に「手をふれるべからず」という紙が書いた紙が貼ってある棚を開けるとすべて手品のネタ明かしだったというエピソードが残っている。
*とても正直で嘘や、その場の取り繕いということができない性格だった。また非常に気が弱くお金を借りにきた人に断ることができなかった。
*非常に臆病で、自分の書いたものの悪口を言われるとかなり気にして、幾日も家にこもったきりということもあったという。また、家に知らない人が来るとかなり怯えた様子をすることもあった。話し方は早口でことばがもたれたりしてちょっと舌ったらずの感じで話すが、飲むと少しゆっくりになったという。いつも伏し目がちで相手の顔を見なかったが、なにかの拍子に不意に顔を挙げて、おどろくほど大きな目で一瞬相手の目を見て、すぐまた目を逸らしてしまうのが癖だった。 *娘達が小さい頃、よく寝る前に童話を話して聞かせていた。中でも[[不思議の国のアリス]]は朔太郎が子供の頃から好きだったこともあり繰り返し聞かせたという。アリスの映画が上映されたときには娘達に「映画に行こう」と誘ったという。
*[[三好達治]]がよく家を訪ねてきており、仕事中だと家の者がちょっとでも入ると嫌がる書斎に通してよく話をしていた。気が弱くて喧嘩の嫌いな朔太郎は危険の感じられるような会合の時には三好によく用心棒を頼んでおり、何か困ったことがあると「三好君に相談してみよう」と言って頼りにしていた。病気で寝込んでいる際にも三好が来ると家族のものに「寝室に通してくれ」と頼んでいたという。家に苦手な人が訪ねてきたときには三好の下宿に「原稿を書かせてくれ」と言いながら訪れ、2~3時間後に三好を引き連れて家に戻り「三好君と会ったので一緒に散歩していた」と言ったというエピソードがあったと後日三好が語っている。
*暑さに弱く暑い時期には毎年弱っていたが、寒さには強く「僕は夏にはかなわないが、冬は元気だよ」と寒さに強いのを得意にしていた。
*歩き方が変わっていてふわふわと宙に浮くような早足で、あやつり人形のようなぎこちない歩き方だった。自動車や自転車がたくさん走っている道路を横断するのが苦手で、同行者に引っ張ってもらうように恐々と渡っていたという。
*同姓同窓同郷の詩人の[[萩原恭次郎]]と交友があった。尚、朔太郎が主宰していたマンドリン研究会に中学生時代に参加しておりその頃からの知り合いであった。
*作曲もいくつか試みており、[[室生犀星]]の詩による合唱曲『野火』、マンドリン曲"A Weaving Girl"([[機織る乙女]])などが残されている。
== 発言・持論等 ==
* 私の詩集﹁月に吠える﹂を変態心理の代表作品の如く言ふ人があるが、そんなことからの御問合せならば少しく不愉快です。私自身では別に常人と変つた心理は持つて居ないと思つてゐます。しかし解しやうによつては、 すべての芸術家は皆一種の変態心理者でせう。我々は千里眼や狐ツキでこそないが、物事を直覚する点では遥かに常人にすぐれてゐます。何かさういふ意味の変態はあるでせう<ref>萩原朔太郎﹁私の変態心理﹂︵﹃変態心理﹄十一巻二号 一九二三・二︶</ref>。 * 物の「真理」といふべき普遍の本質をつかむことはむつかしく、その智慧を有する人だけが恵まれた芸術の天才なのだ。(中略)但し最後に注目すべきは、普遍性と通俗性とは、似て非なるものだと言ふことである。 民衆派詩人たちの芸術論は、いつもこの点で誤解があるやうに思はれる<ref>萩原朔太郎「質疑問答」(『日本詩人』大正十五年四月号 一九二六・四)九七頁</ref>。
==
*萩原葉子『父・萩原朔太郎』筑摩書房, 1959、新版1980、[[中公文庫]] 1979、小学館 2022
**萩原葉子『朔太郎とおだまきの花』新潮社, 2005
*三好達治『萩原朔太郎』筑摩書房「筑摩叢書」, 1963、[[講談社文芸文庫]] 2006
*『萩原朔太郎研究』伊藤信吉編、[[思潮社]], 1966、増補版1972
*[[伊藤信吉]]『萩原朔太郎』北洋社, 1976。増訂版「著作集 第二巻」沖積舎 2001
*『萩原朔太郎研究』[[那珂太郎]]編、[[青土社]], 1974
**那珂太郎『萩原朔太郎その他』[[小沢書店]], 1975
**那珂太郎『萩原朔太郎詩私解』小沢書店, 1977
*[[清岡卓行]]『萩原朔太郎『猫町』私論』[[文藝春秋]], 1974、筑摩叢書 1991
*[[岡庭昇]]『萩原朔太郎 陰画の近代』[[第三文明社]], 1974
*[[村上一郎]]『萩原朔太郎ノート 抒情と憤怒』[[国文社]], 1975
*[[飯島耕一]]『萩原朔太郎』[[角川書店]], 1975
*[[富士川英郎]]『萩原朔太郎雑志』小沢書店, 1979
*[[粟津則雄]]『萩原朔太郎論』思潮社, 1980
*[[嶋岡晨]]『伝記萩原朔太郎』[[春秋社]], 1980
*[[大岡信]]『萩原朔太郎』(近代日本詩人選)筑摩書房, 1981、[[ちくま学芸文庫]] 1994
*岸田俊子([[エリス俊子]])『萩原朔太郎 詩的イメージの構成』[[沖積舎]], 1986
*[[磯田光一]]『萩原朔太郎』講談社, 1987、講談社文芸文庫 1993
*[[北川透]]『萩原朔太郎<詩の原理>論』筑摩書房, 1987
*[[坪井秀人]]『萩原朔太郎論 <詩>をひらく』和泉書院, 1989
*北川透『萩原朔太郎<言語革命>論』筑摩書房, 1995
*安智史『萩原朔太郎というメディア ひき裂かれる近代/詩人』森話社,2008
*[[野村喜和夫]]『萩原朔太郎』[[中央公論新社]]「[[中公選書]]」, 2011
*[[中村稔 (詩人)|中村稔]]『萩原朔太郎論』青土社, 2016
*『萩原朔太郎大全』同・実行委員会編、[[春陽堂書店]], 2022
=== アルバム ===
*『萩原朔太郎 日本文学アルバム17』筑摩書房, 1956
*那珂太郎『名詩鑑賞 萩原朔太郎』[[講談社学術文庫]], 1979
*『萩原朔太郎 新潮日本文学アルバム15』新潮社, 1984
*『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや-詩人が撮ったもうひとつの原風景』フォトミュゼ・[[新潮社]], 1994。朔太郎による写真・詩
== 派生関連作品 ==
*『[[世界の中心で、愛をさけぶ]]』の主人公の名前はこの朔太郎から名付けられた。
*映画『[[ゲド戦記 (映画)|ゲド戦記]]』の挿入歌「[[テルーの唄]]」は萩原朔太郎の詩「こころ」に着想を得た[[宮崎吾朗]]監督が作詞し、[[谷山浩子]]が作曲した。
*[[清家雪子]]『[[月に吠えらんねえ]]』[[月刊アフタヌーン]] 2013~2019年 - 萩原朔太郎の作品から受けた印象をキャラクター化した朔くんという人物が主人公として登場する
*『天上の花』- 2022年公開の映画、原作は[[萩原葉子]]『天上の花 三好達治抄』(新潮社、1966年)、萩原役は[[吹越満]]、[[三好達治]]は[[東出昌大]]、妹・萩原慶子を[[入山法子]]が演じる。
== 関連項目 ==
*[[
*[[日本主義]]
*[[日本の近現代文学史]]
*[[猫町紀行]] - [[つげ義春]]が、朔太郎『猫町』に感得し、実際の[[甲州街道]]の宿場町への[[旅行]]に題材を得て書き上げた[[エッセイ]]。
*[[宮沢賢治]] - 朔太郎から強い影響を受けた詩人の一人。
*[[レーゼシナリオ]]、[[シネポエム]] ‐ 自身の『文学としてのシナリオ』なる論稿で、[[北川冬彦]]らによって後に左のように呼ばれるようになる文学形式の可能性について言及した<ref>[[筑摩書房]]『萩原朔太郎全集 第十一巻』所収の同名の[[エッセイ]](576頁)。『年末の一日、浅草公園 他十七篇』([[芥川龍之介]]・作、石割透・解説 岩波書店より2017年6月に[[岩波文庫]]として刊行)においても、石割による巻末解説の文中(204頁9行目)に「レーゼ・シナリオ」という語が出てきて、朔太郎による芥川や北川のレーゼシナリオやシネポエムについての同論稿における言及も紹介・引用されている。</ref>。
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
<references/>
== 参考文献 ==
*
*『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』[[双葉社]] ISBN 4-575-47199-2
== 外部リンク ==
{{Commonscat|Sakutarō Hagiwara}}
{{Wikiquote|萩原朔太郎}}
* {{青空文庫著作者|67|萩原 朔太郎}}
* [https://www.maebashibungakukan.jp/ 萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち 前橋文学館]
* [http://www.kamakurabungaku.com/literature/w100_6.html 文学者100人|鎌倉と文学【鎌倉文学館】]
* [https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/32837 『氷島』の著者(萩原朔太郎像)] 文化遺産オンライン
* [http://saku.in.coocan.jp/sakulabo/index.php 萩原朔太郎研究所]
* [http://blog.livedoor.jp/sakutaro_society/ 萩原朔太郎研究会 - Society for the study of HAGIWARA Sakutaro -]
* [https://web.archive.org/web/20120305132021/http://jliterature.com/ Takemoto Hiroaki Page] -「月に吠える」のテキストを掲載
* {{Wayback |url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarotop.htm |title=萩原朔太郎(日本詩人愛唱歌集) |date=20190330043608 }}
* {{Wayback |url=http://www.geocities.jp/scaffale00410/sakutarolist.htm |title=萩原朔太郎 詩一覧 |date=20190330043611 }}
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