「萩原朔太郎」の版間の差分
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| birth_date = [[1886年]][[11月1日]]
| birth_place = {{JPN}}・[[群馬県]][[東群馬郡]]北曲輪町
| death_date =
| death_place = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[世田谷区]][[代田 (世田谷区)|代田]]
| resting_place = 政淳寺(前橋市)
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[[ファイル:'Portrait of Hagiwara Sakutarô', woodblock print by Onchi Kôshirô, 1943, 1st edition, National Museum of Modern Art, Tokyo.jpg|thumb|left|200px|[[恩地孝四郎]]が描いた朔太郎の肖像]]
=== 誕生から学生時代 ===
[[群馬県]][[東群馬郡]][[北曲輪町 (前橋市)|北曲輪町]]︵のちの[[前橋市]]北曲輪町︵現・[[千代田町 (前橋市)|千代田町]]一丁目︶︶に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日︵ついたち︶生まれであることから、命名された。[[1893年]]︵[[明治]]26年︶に[[群馬大学教育学部附属小学校|群馬県師範学校附属小学校]]に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、﹁学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。﹂<ref>詩人全集︵1966年︶P.319</ref>と孤独を好み、一人で[[ハーモニカ]]や[[手風琴]]などを楽しんだ。 師範学校附属小学校高等科を卒業後、[[1900年]]︵明治33年︶に旧制県立前橋中学校︵現・[[群馬県立前橋高等学校]]︶入学。この時代に従兄弟[[萩原栄次]]に短歌のことを教わる。校友会誌に﹃ひと夜えにし﹄と題してはじめて[[短歌]]五首を発表。在学中に級友と共に﹃野守﹄という回覧雑誌を出して短歌を発表する。作品には[[与謝野晶子]]の影響が見られ、[[1903年]]︵明治36年︶に[[与謝野鉄幹]]主宰の﹃[[明星]]﹄に短歌三首掲載され、[[石川啄木]]らと共に﹁[[新詩社]]﹂の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた<ref>︵﹁永遠の退屈﹂︶</ref>。結局、中学で落第。 44行目:
=== 歌人・詩人としての出発 ===
[[1913年]]︵[[大正]]2年︶に[[北原白秋]]の雑誌﹃朱欒﹄に初めて﹁みちゆき﹂ほか五編の[[詩]]を発表、[[詩人]]として出発し、そこで[[室生犀星]]と知り合い、室生とは生涯の友となる。[[1914年]]︵大正3年︶に東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする<ref>現在、[[文化財]]として保存されている。</ref>。6月に室生犀星が[[前橋]]を訪れ、そこで[[山村暮鳥]]と3人で詩・宗教・音楽の研究を目的とする﹁[[人魚詩社]]﹂を設立。[[1915年]]︵大正4年︶には詩誌﹃[[卓上噴水]]﹄を創刊。﹁ゴンドラ洋楽会﹂を組織してマンドリンやギターを教授して前橋や[[高崎市|高崎]]で演奏会を開催する。またこのころから教会に出入りし、神や信仰、罪などの問題に悩み始める<ref>詩人全集︵1966年︶P.322</ref>。 [[1916年]]︵大正5年︶春頃から自宅で毎週一回の﹁詩と音楽の研究会﹂を開き、6月に室生犀星との2人雑誌﹃[[感情 (雑誌)|感情]]﹄を創刊。高度に成熟した[[散文詩]]や[[評論]]を発表し始め、[[1917年]]︵大正6年︶32歳で、第一詩集﹃月に吠える﹄を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。内容・形式共に従来の詩の概念を破り、口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。[[森鴎外]]の絶賛を受けるなど<ref>詩人全集︵1966年︶P.323</ref>、一躍詩壇の寵児となり、5月﹃[[文章世界]]﹄誌上において[[神秘主義]]・[[象徴主義]]論のきっかけをつくる論文を発表。 53行目:
[[1923年]]︵大正12年︶1月詩集﹃青猫﹄刊行、7月﹃蝶を夢む﹄を刊行し、[[谷崎潤一郎]]を訪問。[[1924年]]︵大正13年︶2月に雑誌﹃新興﹄創刊号に発表した﹁情緒と理念﹂一二篇により同誌が発売禁止となる。[[1925年]]︵大正14年︶には妻と娘二人を伴い上京し、[[東京府]][[荏原郡]][[大井町 (東京府)|大井町]]︵現・[[品川区]]内︶、[[北豊島郡]][[滝野川区|滝野川町]][[田端]]︵現・[[北区 (東京都)|北区]]内︶へ移り住み、近隣の[[芥川龍之介]]や[[室生犀星]]と頻繁に往来し、8月に﹃純情小曲集﹄を刊行。雑誌﹃[[日本詩人]]﹄の編集を後に妹・アイが嫁ぐ[[佐藤惣之助]]と担当し、[[ニヒリズム]]の傾向を強める。11月、妻の健康回復のため[[鎌倉]]に転居。 [[1926年]]︵大正15年・[[昭和]]元年︶荏原郡[[馬込町]]︵現・[[大田区]]内︶に転居。[[1927年]]︵昭和2年︶頃から[[三好達治]]、[[堀辰雄]]、[[梶井基次郎]]などの書生や門人を多く抱えるようになる。[[三好達治]]は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として[[三国町]]で暮らすが、まもなく離縁する。[[1928年]]︵昭和3年︶に﹁[[詩人協会]]﹂の創立に伴い評議委員となり、2月﹃詩論と感想﹄を、12月﹃詩の原理﹄を刊行。 [[1929年]]︵昭和4年 === 日本主義者への変貌 ===
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== 家族 ==
長女・[[萩原葉子]]も作家であり、演出家の[[萩原朔美]]は葉子の息子(朔太郎の孫)である。朔太郎の妹・愛子は、詩人[[佐藤惣之助]]の妻。
== 著作 ==
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