落合直文
日本の歌人、国文学者 (1861 - 1903)
略歴・人物
陸奥国本吉郡松崎村字片浜︵現宮城県気仙沼市字松崎片浜 : 煙雲館︶にて仙台藩の家老の家柄で、鮎貝太郎平盛房の二男として生まれた。11歳から13歳にかけて仙台私塾、仙台中教院で漢学などを学ぶ。1874年︵明治7年︶、国学者落合直亮の養子となる。養父転任で伊勢に移り、神宮教院に学ぶ。
1881年︵明治14年︶、上京し、翌年には東京帝大文科大学古典講習科に入学、1884年︵明治17年︶、中退し入営、3年間の軍務をつとめる。1888年︵明治21年︶、伊勢神宮教院時代の師・松野勇雄に招かれ皇典講究所︵現國學院大學︶の教師となり教育者・国文学者としての道を歩む。翌年からは第一高等中学校、東京専門学校︵現早稲田大学︶、東京外語学校︵現東京外国語大学︶、跡見女学校︵現跡見学園女子大学︶など多くの学校にて教鞭をとる傍ら、歌集、文学全書の刊行など多彩な文筆活動を展開した。とりわけ 1889年︵明治22年︶には、森鴎外らとともに同人組織の新声社を結成し、8月に日本近代詩の形成などに大きな影響を与えた共訳の詩集﹃於母影﹄︵雑誌﹃国民之友﹄の夏期付録︶を刊行した[1]。なお、一高時代の教え子には尾上柴舟がいる。皇典講究所~國學院~國學院大學には晩年まで在職した。
1893年︵明治26年︶には﹁あさ香社﹂(浅香社)を結成し、﹃日本大文典﹄﹃ことばの泉﹄などの文法書や事典の編集刊行に尽力し、功績を残した。1900年︵明治33年︶、門弟与謝野鉄幹の創始した﹁明星﹂には監修の協力や歌文を寄稿した。
代表歌に﹁桜井の訣別︵青葉茂れる桜井の…︶﹂、﹁緋縅のよろひをつけて太刀はきてみはやとぞおもふ山さくら花﹂、などがある。
著作
脚注
参考文献
- 『皇典講究所草創期の人びと』、國學院大學、1982年
関連項目