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{{基礎情報 公家
| 氏名 = 藤原信通
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[平安時代]]後期
| 生誕 = [[寛治]]5年([[1091年]])
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| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[従三位]]
| 主君 = [[白河天皇|白河上皇]]
| 氏族 = [[藤原北家]][[中御門流]]
| 父母 = 父:[[藤原宗通]]、母:[[藤原顕季]]の娘
| 兄弟 = [[藤原宗子 (藤原宗通女)|宗子]]、'''信通'''、[[藤原伊通|伊通]]、[[藤原季通|季通]]、[[藤原成通|成通]]、[[藤原重通 (大納言)|重通]]、[[藤原定通|定通]]、
| 妻 = [[藤原基隆]]の娘
| 子 = '''[[藤原行通|行通]]'''、
| 特記事項 =
}}
'''藤原 信通'''︵ふじわら の のぶみち︶は、[[平安時代]]後期の[[公卿]]。[[藤原北家]][[中御門流]]、[[大納言|権大納言]]・[[藤原宗通]]の長男。[[官位]]は[[従三位]]・[[参議]]、[[近衛府|左近衛中将]]。 == 経歴 ==
[[康和]]2年︵[[1100年]]︶10歳にして[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。康和4年︵[[1102年]]︶正月に[[侍従]]に任ぜられ、[[昇殿]]を聴される。同年2月、さらに[[白河天皇|白河院]]昇殿を聴され、6月には[[院司|院別当]]に補任された。同年7月には院の御給で従五位上に叙せられ、康和5年︵[[1103年]]︶白河院の孫にあたる[[皇太子]]宗仁親王︵後の[[鳥羽天皇]]︶家の昇殿を聴されるなど、白河院に接近した。康和6年︵[[1104年]]︶院別当として[[正五位|正五位下]]に進み、[[近衛府|右近衛少将]]に任官。[[長治]]2年︵[[1105年]]︶にはさらに院の御給で[[従四位|従四位下]]に叙せられ、[[伊予国#国司|伊予権介]]を兼ねた。 しかし、[[保安 (元号)|保安]]元年︵[[1120年]]︶10月21日、30歳の若さで ▲しかし、[[保安 (元号)|保安]]元年︵[[1120年]]︶10月21日、30歳の若さで[[崩御#薨去|薨去]]。最終[[官位]]は従三位参議左近衛中将。同年7月に父・宗通が薨去して喪中にあったが、喪が明ける前に信通も薨去し、父子で[[公卿]]の者が同年中に薨逝することは例がなかったという<ref name="a">﹃[[中右記]]﹄[[保安 (元号)|保安]]元年10月21日条。</ref>。[[藤原宗忠]]は[[琵琶]]や[[笛]]に長じ、家風を伝えたと評しており、宗忠も親類の縁で[[催馬楽]]を伝えている<ref name="a"/>。10月27日、鳥部野に葬送。 == 官歴 ==
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*妻:[[藤原基隆]]の娘
**男子:[[藤原行通]](?-1180)
**男子:[[藤原信経]]
*生母不明の子女
**女子:[[藤原公隆]]室
72 ⟶ 70行目:
{{reflist}}
{{DEFAULTSORT:ふしわら の の
[[Category:中御門流|の
[[Category:平安時代後期の貴族]]
[[Category:1091年生]]
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