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'''藤原 範兼'''︵ふじわら の のりかね、[[嘉承]]2年︵[[1107年]]︶ - [[永万]]元年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]︵[[1165年]][[6月6日]]︶︶は、[[平安時代]]末期の[[公家]]。[[藤原南家]][[藤原貞嗣|貞嗣]]流。[[従三位]]大学頭、刑部卿。従四位下式部少輔[[藤原能兼]]︵[[1086年]] - [[1139年]]︶の長男。弟に[[藤原範季|範季]]。子に従二位権中納言[[藤原範光|範光]]︵1155 - 1213︶、[[後鳥羽天皇]]の乳母で権勢を誇った事で知られる[[藤原範子|範子]]、[[藤原兼子|兼子]]姉妹がいる。叔母︵範兼の妹︶は[[源頼政]]の母。 [[儒家]]の家に生まれ、学者として知られた。父・能兼が[[保延]]5年︵[[1139年]]︶に死去すると、残された10歳の弟範季を引き取って養子とした。[[永万]]元年︵[[1165年]]︶に死去。残された幼い子供達は範季に引き取られて養育された。範季が[[高倉天皇]]の第4皇子・尊成親王︵後の[[後鳥羽天皇]]︶の乳母父となった事から、範兼の娘の範子・兼子らも乳母として親王に仕え、その即位ののちは権勢を振るった。[[土御門天皇]]は曾孫にあたる。 |