「藤貞幹」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Normdaten |
編集の要約なし |
||
1行目:
'''藤 貞幹'''︵とう ていかん、[[享保]]17年[[6月23日_(旧暦)|6月23日]]︵[[1732年]][[8月13日]]︶ - [[寛政]]9年[[8月19日_(旧暦)|8月19日]]︵[[1797年]][[10月8日]]︶︶は、[[江戸時代]]中期の[[有職故実]]研究家。[[諱]]は'''藤原 貞幹'''︵ふじわら さだもと︶。[[字]]は子冬。通称・叔蔵。[[号 (称号)|号]]は無仏斎・蒙斎・瑞祥斎・好古など。[[京都]]の[[佛光寺]]久遠院院主[[玄煕]]︵[[権律師]]、[[日野家]]出身︶の子。[[日本]]の[[文献学]]・[[目録学]]の祖とも言われている。なお、[[姓]]を﹁藤井﹂と称したとする説もあるが、誤伝によるもので事実ではない。 父親と同様に[[僧侶]]になるべく育てられ、11歳で[[得度]]する。だが、[[仏教]]の教えに疑問を抱いて18歳で家を飛び出して[[還俗]]、日野家の本姓である[[藤原氏|藤原]]を名乗った。宗家の[[日野資枝]]から[[和歌]]を、[[高橋宗直]]から有職故実を、[[持明院宗時]]から[[書道]]を、[[後藤柴山]]・[[柴野栗山]]から[[儒学]]を、[[高芙蓉]]から[[篆刻]]を学んだほか、[[雅楽]]・[[篆書]]・[[草書]]・[[金石文]]などに精通し、[[韓天寿]]や[[上田秋成]]とも親交を有した。後に[[水戸藩]][[彰考館]]に招かれて﹃[[大日本史]]﹄編纂にも関与している。日野資枝の実弟で[[宝暦事件]]で逼塞していた[[裏松固禅]]と意気投合してその家臣となり、﹃大内裏図考証﹄の執筆を助けた。だが、その一方で発掘された出土品などを吟味して厳密な考証の必要を唱えて[[記紀]]の記述と言えども無条件でこれを支持すべきではないと主張し、[[神武天皇]]の在位を600年繰り下げて[[神代文字]]の存在を否定した﹃[[衝口発]]﹄を著すが、これが[[国学者]]達の反感を買い、特に神武天皇や[[スサノオ|素戔嗚尊]]︵その正体を[[新羅]]の国王であるとした︶の問題については[[本居宣長]]が﹃鉗狂人﹄を著して貞幹の考証が杜撰であると主張し、逆に上田秋成が貞幹を擁護して宣長の姿勢を非難するなど激しい﹁[[日の神論争]]﹂等の論争を招いた。他にも﹃百官﹄・﹃国朝書目﹄・﹃逸号年号﹄・﹃伊勢両大神宮儀式帳考註﹄・﹃古瓦譜﹄など自著多数がある。 == 関連項目 ==
* [[伊平屋島]] - 『衝口発』において、この島が神武天皇の出生地であると主張した。
== 参考文献 ==
|