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'''西原 亀三'''︵'''にしはら かめぞう'''、[[明治6年]]︵[[1873年]]︶[[6月3日]]~ - [[昭和29年]]︵[[1959年]]︶[[8月22日]]︶は、[[明治]]、[[大正]]、[[昭和]]時代の[[日本]]の[[実業家]]、[[政治家]]。
明治6年︵1873年︶6月3日[[京都府]][[与謝郡]][[雲原村]]︵現、[[福知山市]]︶に生まれる。家は製糸業を営んでいたが、没落し、父親の死後、[[丁稚]]奉公に出る。その後、[[京都]]から[[東京]]に出て、同郷の[[神鞭知常]]の知遇を得る。[[日露戦争]]終了後、[[朝鮮半島]]に渡り、[[共益社]]を設立、[[綿]]製品の貿易事業を開始する。初代[[朝鮮総督]]の[[寺内正毅]]︵後、首相︶の元にも接近し、寺内の側近となる。[[大正5年]]︵[[1916年]]︶に帰朝する。次いで[[中国]]に渡り、[[寺内内閣]]による[[北京]]政府]]︵[[段祺瑞]]︶援助政策に参画した。[[大正7年]]︵[[1918年]]︶西原は、[[朝鮮銀行]]総裁で、寺内内閣の[[大蔵大臣]]・[[勝田主計]]と計り、[[興業銀行]]、朝鮮銀行、[[台湾銀行]]からそれぞれ資金を調達し、総額1億4500万円という莫大な[[借款]]︵'''[[西原借款]]'''︶を提供する。この西原借款は、大部分が[[段祺瑞]]政権の政治資金として使われ、成果を得るどころか、結局、回収できなかったため、[[帝国議会]]の轟々たる非難を浴びた。その後も、政界の黒幕的な動きを見せ、東亜研究会を設立し、[[田中義一]]を支持したり、[[昭和5年]]︵[[1930年]]︶[[浜口雄幸]]内閣の[[陸軍大臣]]であった[[宇垣一成]]の擁立を目指し、[[立憲民政党]]総裁に推戴する動きを見せた。宇垣擁立工作はその後も続け、宇垣が朝鮮総督となり、[[朝鮮半島]]に赴任すると、[[昭和7年]]︵[[1932年]]︶、[[昭和9年|9年]]、[[昭和11年|11年]]に渡鮮し、内地に戻っては、[[立憲政友会|政友会]]、民政党の幹部の間を周旋する。[[昭和12年]]︵[[1937年]]︶大命降下が宇垣に降りるが、陸軍内の意見を纏めきれず宇垣内閣が流産し、結局、[[林銑十郎]]内閣が成立すると、西原は絶望し、日記に﹁ああファッショか、立憲政治か。堤防は決潰せり。国家の前途果して如何。﹂と記す。[[昭和13年]]︵[[1938年]]︶郷里に戻り、雲原村村長に就任し、13年間在職した。
昭和29年(1959年)8月22日死去。81歳。
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