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'''諸侯王'''(しょこうおう)は、[[中国]]において[[皇帝]]によって封じられた[[王]]号を持つ
== 概要 ==
中国の皇帝の臣下たる王を、一国の君主たる王と区別するためにこの言葉を使う。そのうち、皇帝の一族で皇帝と同じ 歴史用語であり、同時代において用いられた言葉ではない。同時代における呼び方としては、諸侯王は﹁郡王﹂、一国の君主たる王は﹁国王﹂として、区別した場合もあった<ref>[[黒田日出男]][[編集|編]]﹃歴史学事典12王と国家﹄([[弘文堂]]、[[2005年]]) 372頁参照。</ref>。しかし中国王朝として重要度が低い国の君主に対しては、あえて国王より低い位として郡王の位を与える場合もあり、一定したものではない。 諸候王の制度が定まったのは[[前漢]]においてであり︵[[郡国制]]︶、当初は功臣にも王号を授与したが、斉王、楚王を歴任した[[韓信]]を淮陰侯に降格するなど、皇族以外には王号を与えない方針へと転換したが、[[呂雉]]が実権を握ると呂氏一族が諸侯王に任命される事例が起きた。しかし呂雉の死後に、呂氏一族はクーデターで誅され、[[文帝 (漢)|文帝]]の代に[[長沙]]王の[[呉ゼイ|呉氏]]が断絶したことで完全に劉氏以外の異姓諸侯王は消滅した。その後の中華王朝でもその方針は踏襲され、臣下でありながら王号を授与されるのは、よほど特筆した実績がある場合か、あるいは死後の追贈に限られた。また、大功のあった臣下が王号を受けた場合、[[後漢]]の魏王[[曹操]]や[[魏 (三国)|魏]]の晋王[[司馬昭]]のようにその臣下が[[禅譲]]を受けて新王朝を建てる前段階のようになることもあった︵両者とも息子の代に魏・晋の皇帝を名乗っている︶。 == 諸侯王の反乱 ==
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