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'''護命'''︵ごみょう、[[天平勝宝]]2年︵[[750年]]︶- [[承和 (日本)|承和]]元年[[9月11日 (旧暦)|9月11日]]︵[[834年]][[10月20日]]︶︶は、[[奈良時代]]末から[[平安時代]]前期にかけての[[法相宗]]の[[僧]]。俗性は[[秦氏]]。小塔院僧正とも呼ばれる。[[美濃国]][[各務郡]]の出身。奈良市西新屋町45番地、史跡﹁元興寺小塔院﹂に墓が残っている。 日本における法相教学の大成者で、[[元興寺]]の法相宗が[[興福寺]]の法相宗に上回る原動力となった。著作に天長六本宗書の一つ『大乗法相研神章』5巻などがある。[[比叡山]]の[[最澄]]による天台戒壇独立運動には[[僧綱]]の上首として反対した。一方で[[真言宗]]の[[空海]]とは親交があり、空海から80歳を祝う詩(『[[性霊集]]』巻十所収)を贈られている。
== 経歴 ==
*[[天平宝字]]3年([[759年]])、10歳のとき美濃[[国分寺]]の[[道興]]に師事。
*天平宝字8年([[764年]])、15歳のとき[[奈良]][[元興寺]]の[[万耀]]に師事。吉野山で苦行する。
*[[天平神護]]2年([[766年]])、17歳で得度。元興寺の[[勝虞]](勝悟)<ref>『日本後紀』弘仁2年6月6日条の卒伝は名を勝悟と表記するが、勝虞が一般的。</ref>に法相宗を学ぶ。月の前半は深山で虚空蔵法を修し、後半は元興寺で宗学の研鑽を積む生活。
*[[大同 (日本)|大同]]元年([[806年]])、一説にこの年、律師に任ぜられる。<ref>『僧綱補任』は同年の律師補任を記す一方、弘仁6年の少僧都補任記事に「律師を経ざるか」と記しており、朱注で矛盾を指摘されている。僧綱への登竜門である維摩会講師を大同3年に務めたとの記事がある点も、朱注で「不審」とされている。『続日本後紀』の卒伝は、律師補任にふれず「擢んじて少僧都に任ず」としているので、律師を経ずに少僧都に抜擢された可能性も十分考えられる。</ref>
*[[弘仁]]6年([[815年]])、少僧都に抜擢される。
*弘仁7年([[816年]])、大僧都に任ぜられる。
*弘仁10年([[819年]])、護命以下の僧綱が連署して最澄の大乗戒壇設立構想への反対を上表。
*弘仁14年([[823年]])、大僧都職を辞し山林に隠棲することを上表。僧綱を代表して反対してきた大乗戒壇設立に、前年勅許が下されたことによるとみられる。辞職は不許可となるが[[山田寺]]に隠棲。
*[[天長]]3年([[826年]])、[[淳和天皇]]から西寺での[[桓武天皇]]追善供養の講師として招請される。
*天長4年([[827年]])、[[僧正]]に任ぜられる。
*天長7年([[830年]])、勅命により『大乗法相研神章』5巻を撰上。
*承和元年(834年)9月11日、元興寺小塔院で入滅。享年85。
== 補注 ==
<references/>
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