趙衰
中国春秋時代の晋の政治家。戦国七雄の趙の祖
生涯
出奔
献公の公子のうち、占いで吉と出た重耳︵後の文公︶に仕えた。
紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳に従い、その後19年にわたって諸国を放浪した。狄での亡命生活中に叔隗︵重耳の妾となった季隗の姉︶を妻とした。叔隗は後の趙の礎を築く趙盾を生んだ。
紀元前645年、晋で重耳の弟である恵公が即位した。恵公が声名のある重耳の帰国を恐れて刺客を送ってきたため、重耳とともに斉へ逃れた。
放浪
斉に向かう途中、衛を通過したが、衛の文公は歓迎しなかった。一行は食料が尽きてしまい、地元の農民に乞うた。これに対して、農民は器に土に盛って出した。重耳は激怒したが、趙衰が﹁土を得たということは、この土地を得るということです。拝して受けましょう﹂と言ったので、その通りにした[1]。
放浪中の紀元前637年、重耳が楚の成王に招かれたとき、成王は重耳の器量を認めて、自分と対等の者に対する礼をもってもてなした。重耳は典礼にはよく通じていなかったが、趙衰が側に付き添い、細かく指導したので恥をかかなかった。
同年、秦の穆公が、重耳を迎え入れた。
帰国
関連項目
出典・脚注
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