削除された内容 追加された内容
矢刺幹人 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
{{文学}}
'''連句'''とは[[室町時代]]の[[俳諧連歌]]より派生し、江戸時代に入って独立した
文芸として発展していったものである。
 
'''連句'''とは[[室町時代俳諧]]の[[俳諧連歌]]のこと。[[室町時代]]より派生し、[[江戸時代]]に入って独立した[[文芸]]として発展していった。
単に[[俳諧]]と呼ばれることもある。「連句」の
名称は明治37年に[[高浜虚子]]が提唱してから定着した。 形としては[[連歌]]の様式を踏襲
 
単に[[俳諧]]と呼ばれることもある。「連句」の名称は[[明治37年]]に連歌や俳句と区別するため[[高浜虚子]]が提唱してから定着した。形としては[[連歌]]の様式を踏襲し、五七五の句の後に七七の句を交互に付けていき、三十六句([[歌仙]])、五十句([[五十韻]])、百句([[百韻]])等よりなる。
し、 
五七五の句の後に七七の句を交互に付けていき、
三十六句([[歌仙]])、五十句([[五十韻]])、百句([[百韻]])等よりなる。
 
 連歌に比べ、俗語、漢語等を用い、様式、[[式目]]も簡便になり、即興性や諧謔性が好まれるようになり、より庶民的な文芸として江戸時代に隆盛した。特に[[松永貞徳]]を中心とした一派は[[貞門]]と呼ばれ、全国的な規模で広まり連句を文芸の一ジャンルとして確立し
[[西]][[西]][[]][[]][[]]
好まれるようになり、より庶民的な
文芸として江
 
=== 連句の歴史= ==
戸時代に隆盛した。
特に[[松永貞徳]]を中心とした一派は[[貞門]]と呼ばれ、全国的な規模で広まり
連句を文芸の一ジャンルとして確立し
 
== 連句の様式、式目 ==
た。その後
[[西山宗因]]、[[井原西鶴]]の[[談林派]]を経て、
[[松尾芭蕉]]が、言語遊戯に堕しがちな風潮
 
=== 主な作者及び作品= ==
に対して、芸術作品としての方向性を
*'''[[松尾芭蕉]]'''(まつお ばしょう1644年-1694年)冬の日、猿蓑、ひさご、炭俵
追求し[[蕉風]]と呼ばれた。参照 '''[[連句の歴史]]'''
*'''[[与謝蕪村]]'''(よさ ぶそん1716年-1783年)
===連句の歴史===
 
=== 現代の連句の様式、式目= ==
 
[[Category:俳諧|れんく]]
===主な作者及び作品===
[[Category:詩|れんく]]
*'''[[松尾芭蕉]]'''(まつおばしょう1644年-1694年)冬の日、猿蓑、ひさご、炭俵
*'''[[与謝蕪村]]'''(よさぶそん1716年-1783年)
 
===現代の連句===