逸然性融
逸然性融︵いつねん しょうゆう、1601年8月28日︵万暦29年8月1日︶- 1668年8月21日︵寛文8年7月14日︶︶は、中国明末に日本に渡来した僧である。俗姓は李氏。逸然は字、性融は法諱である。浪雲庵王・煙霞比丘・煙霞道人と号する。
逸然性融 | |
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1601年 - 1668年 | |
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尊称 | 請法東伝 |
生地 | 浙江省杭州府銭塘県 |
没地 | 興福寺 |
宗派 | 臨済宗黄檗派 |
寺院 | 興福寺 |
師 | 黙子如定 |
弟子 | 澄一道亮 |
著作 | 『隠元語録』・『五灯厳統』 |
生涯
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1601年︵万暦29年︶、浙江省杭州府銭塘県に生まれる。
1641年︵寛永18年︶[注1]明末反乱期の動乱を避けて41才の時に商人として貿易のために長崎へ来舶した[1]。1644年︵正保元年︶、長崎・興福寺の第2代住持黙子如定の許で帰依し仏門に入る[2]。1645年︵正保2年︶には、黙子が隠退し、第3代住持の座を継承した[3]。
1641年︵寛永18年︶、黙子如定が住持の隠居所とするため幻寄山房東盧庵を建てる[4]。
1652年︵承応元年︶、無心性覚の懇願により、隠元隆琦を招請した。結果、4次にわたる招請状の往還の末、1654年︵承応3年︶7月に、隠元の来日が成った。逸然はこれを慶び以降、引首印に﹁請法東伝﹂の語句を刻み書画に捺した。
隠元が渡来すると、逸然は、興福寺の住持を隠元に移譲した上で、自身は監寺と就ったが、翌年、隠元が摂津国の普門寺に移転したため、住持に復帰した。
1656年︵明暦2年︶、澄一道亮に住持の座を譲り退隠した[2]。
1657年︵明暦3年︶には、﹃隠元語録﹄と﹃五灯厳統﹄︵費隠通容撰︶を板行した。
1658年︵万治元年︶頃から幻寄山房東盧庵に住み始める[5]。
1668年︵寛文8年︶7月、東盧庵で没した。享年68[6]。墓所も興福寺後山にある。
作品
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
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●阿野露団﹃長崎の肖像 長崎派の美術家列伝﹄形文社、1995年12月22日。全国書誌番号:97006152。
●大槻幹郎﹁初期黄檗の画僧 - 逸然性融について﹂﹃禅文化﹄78号、禅文化研究所、1975年9月20日、66-73頁。doi:10.11501/6082273。ISSN 0514-3012。
●古賀十二郎﹃長崎画史彙伝﹄大正堂書店、1983年11月。doi:10.11501/12744149。全国書誌番号:85000844。
●徐興慶、劉序楓﹁第三章 隠元禅師と日中雅交﹂﹃十七世紀の東アジア文化交流 - 黄檗宗を中心に﹄國立臺灣大學出版中心、2018年6月19日。ISBN 9789863502852。