「部落問題」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m 外部リンクの修正 http:// -> web.archive.org (www.soumu.go.jp) (Botによる編集) |
|||
(11人の利用者による、間の24版が非表示) | |||
2行目:
{{正確性|date=2023年11月}}
'''部落問題'''︵ぶらくもんだい︶は、[[明治]]より前の主として[[江戸時代]]における厳しい身分制度の下で ==概要==
{{出典の明記|date=2023年5月|section=1}}
日本史において、[[中世]]から[[近世]]にかけて'''[[穢多]]・[[非人]]'''︵えた・ひにん︶と言った[[賤民]]身分が存在していたが、とくに[[江戸時代]]には[[幕藩体制]]の強化・維持を目的にそれまであった偏見等を利用して身分制度の固定・強化が図られ、これらの身分制度が政治的・人為的に作成・強化されていったと言われる<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/attachment/133587.pdf |title=0311_人権テキスト_同和問題.indd - 133587 |access-date=2022-12-25 |publisher=熊本県庁}}</ref>。1871年8月28日に[[明治政府]]は[[明治維新|維新]]後の近代化改革の一つとして国民国家形成のため賤民制度を廃止し、他の身分と同じく﹁平民﹂に編入するために、﹁太政官布告﹂として[[解放令]]︵﹁賤称廃止令﹂、﹁被差別身分廃止令﹂とも︶を布告した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/310308/files/2009111100164/2009111100164_202_254_165_145_uploaded_attachment_18532.pdf |title=﹁解放令﹂発布について考える |access-date=2022-12-25 |publisher=高知県庁}}</ref>。しかし、戦前から部落差別解消のために尽力していた[[北原泰作]]によると、[[スラム街]]のような景観のために旧穢多・非人居住地域の区別が目に付きやすかった関西では、特に元の平民 [[1961年]][[12月7日]]、[[池田勇人]][[内閣総理大臣]]は同和対策審議会に対し ﹁同和地区に関する社会的及び経済的諸. 問題を解決するための基本的方策﹂について諮問、[[1965年]][[8月1日]]同審議会は答申で以下のように述べた。﹁'''いわゆる同和問題とは、日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階層構造に基づく差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、現代社会においても、なおいちじるしく基本的人権を侵害され、とくに、近代社会の原理として何人にも保障されている市民的権利と自由を完全に保障されていないという、もっとも深刻にして重大な社会問題である。'''﹂<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/9963_108721_misc.pdf |title=同和対策審議会答申︵抜粋︶ 昭和40年8月1日 |access-date=2022-12-25 |publisher=熊本県庁}}</ref> 19行目:
小池晃も﹁同和問題は基本的にすでに解消しており、不公正な同和対策を継続すること自体が新たな偏見を生み出すもの﹂とし、部落解放同盟による無法な利権あさりを批判し、またこのような批判を﹁差別﹂とされるのは完全な筋違いであると述べている<ref name=":2">{{Cite web|和書| |date=2011年7月5日 |website=J-Castニュース |archiveurl=https://megalodon.jp/2011-0705-2106-16/www.j-cast.com/2011/07/05100537.html |archivedate=2011-07-05 |url=https://www.j-cast.com/2011/07/05100537.html |title=共産党・小池前参院議員﹁松本大臣発言は部落解放同盟の地金﹂ |accessdate=2019-06-19}}</ref>。 ==「部落」の概念 ==
41 ⟶ 39行目:
[[京都市]]内のある部落では、[[京都部落史研究所]]の調査の結果、半数を超える﹁部落民﹂が部落外からの流入者と判明したこともある{{Sfn|こぺる編集部|1991|loc=山本尚友﹁部落=貧困の再検討﹂}}。[[1937年]]︵昭和12年︶に京都市社会課が市内の8箇所の部落を対象に行った﹁京都市における不良住宅地区調査﹂では、﹁部落民﹂のほぼ半数が外部からの流入者と特定された{{Sfn|こぺる編集部|1991|loc=山本尚友﹁部落=貧困の再検討﹂}}。 また、[[日本統治時代の朝鮮|日本統治時代の朝鮮半島]]から[[内地]]に渡った朝鮮人が被差別部落に住み着いた例も多 部落解放同盟や同和会が同和予算を行政から獲得するため、[[同和対策事業|同和対策事業特別措置法]]︵同対法︶のいう﹁歴史的社会的理由により生活環境等の安定向上が阻害されている地域﹂︵被差別部落︶が存在しない自治体にまで無理やり同和地区を作った事例もある︵このような地区は﹁えせ同和地区﹂と呼ばれる<ref name="nakahara">{{Cite book |和書 |author=中原京三 |title=追跡・えせ同和行為 |pages=106-110 |publisher=部落問題研究所出版部 |isbn=4829810300 |date=1988-06}}</ref>︶。 75 ⟶ 73行目:
この未指定地区は、同和地区に比べて経済的に恵まれている地域が多い{{Sfn|こぺる編集部|1991|loc=山本尚友﹁部落=貧困の再検討﹂}}。 被差別部落の中では、被差別部落の外︵いわゆる﹁一般地区﹂︶の出身者を指して﹁ハク﹂という名称が使われることがある<ref>{{Cite book |和書 |author=藤田敬一 |title=同和はこわい考 |page=64 |series=あうん双書 |publisher=阿吽社 |isbn=}}{{Full citation needed |title=刊行年不明。|date=2019-06-17}}</ref><ref>吉崎愛子﹃疾風の如く﹄p.33︵長征社、1998年︶</ref>。また﹁部落外﹂︵ムラの外︶の意味で﹁むらそと﹂という語が使われることもある<ref>三谷秀治﹃火の鎖 和島為太郎伝﹄p.360︵草土文化、1985年︶</ref>。[[高知県]][[宿毛市]]の部落では、[[カラゴ]]︵唐語︶と呼ばれる地元の部落内隠語で、部落外の者を﹁ネス﹂﹁スネグロ﹂、部落の者を﹁テコ﹂と呼ぶ<ref>{{Cite book |和書 |editor=宿毛の部落史編纂委員会 |title=宿毛の部落史 |pages=483,488 |publisher=宿毛市教育委員会 |date=1986-02}}</ref>。 89 ⟶ 83行目:
=== 起源 ===
{{main|部落の起源論争}}
[[File:Eta in 71 shokunin utaawase.png|right|200px|thumb|[[七十一番職人歌合]]36番﹁'''[[穢多]]'''﹂より。﹁この[[皮]]は大まいかな﹂]] 被差別部落の起源については諸説が存在するが、研究者で近世起源説を唱える者はいないとされ、中世あるいは古代以前から存在したとみられているが、人種起源説と職業起源説とがあり、未だ意見の統一を見ない。 政府が同和対策に取り組み出した[[1960年代]]からおおよそ[[1980年代]]の頃までは「近世に幕藩権力が無から全てを作り出した」といういわゆる「近世政治起源説」が信じられていたが、これが学術的に否定されたことによって、現在では中世以前の様々な要素を踏まえた上でその起源についての考証が行われている。社会的役割の固定化によって安定がもたらされると考えられていた。
[[1870年]]︵明治3年︶1月、[[山城国]][[愛宕郡]]蓮台野村年寄[[益井元右衛門|元右衛門]]が汚名廃止の請願書を[[京都府]]に提出する<ref name="kyoto">{{Cite book |和書 |editor=井上清 ほか|editor-link=井上清 (歴史家) |year=1991-11 |title=京都の部落史2︵近現代︶ |publisher=阿吽社 |location= |isbn=4-90-059001-0 |quote= }}</ref>。 {{quotation|一、一昨[[辰年]]八月元右衛門より供奉の願書差上げ奉り候節、由緒有増申上げ奉り候通り、私共類村の義、在昔は[[奥羽]]の土民に御座候。尤も其辺総て[[東夷]]︵[[蝦夷]]︶と称せられ、王化に復し奉らざる者もこれあり、遂に[[日本武尊]]御征伐あらせらる其の御凱陣の砌、御連れ帰り、扈従し奉り候処、[[伊勢神宮]]に御[[留置]]きなされ、[[夫役|夫]]より当時の帝御鳳闕左右に近づかせられ候事、[[日本書紀]]にも御座候。 170 ⟶ 158行目:
決して、部落が狙い撃ちされて被害をこうむったわけではなく、また差別されて貧乏になったわけでもない。解放令は、江戸時代の解放論が抜擢解放︵行ないが良かったり、社会に功績のあった者から順に身分を引き上げる︶とい漸進的方式であったのに対して、明治政府の出した解放令は即時無条件全面解放という画期的なものであり、明治政府が青臭いまでに革命的であったことを物語っている。 部落の貧困化は、そうした解放令とはまったく時期も原因もことなることにより引き起こされたのである<ref>{{Cite journal |和書 |url=http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~nadamoto/work/20021025.htm |archiveurl= 部落産業の一つに[[三味線]]製造用の[[猫]]の捕獲があり、このことから、関西地方では被差別部落民を﹁猫殺し﹂と呼ぶこともある<ref>{{Cite book |和書 |author=坂東眞砂子ほか|authorlink=坂東眞砂子 |title=﹁子猫殺し﹂を語る: 生き物の生と死を幻想から現実へ |page=78 |publisher=双風舎 |date=2009-03 |isbn=9784902465150}}</ref>。 196 ⟶ 184行目:
===軍隊と部落民===
部落民にとって兵役の負担は一般社会に比してさらに一層の重 ▲部落民にとって兵役の負担は一般社会に比してさらに一層の重税であった{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。それにも関わらず、部落出身者の国民男子は[[大日本帝国陸軍]]及び[[大日本帝国海軍]]への兵役中においてあらゆる[[侮辱]]を忍び、成績が良好であっても進級することは甚だ困難であった{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。すでに入営の際に部落出身者という旨を記入し、劣等扱いをした{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。軍隊内の凌辱に堪えきれず自ら銃台をもって頭を打ち割った兵士や、脱営して古沼に投じた兵士がいた{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。[[群馬県]]の一部の村では、入営のとき次のような出来事があった{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。 その村から帝国軍人として徴兵された十幾人のうちに部落の青年が二人あった{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。十二月の入営期がきて、部落出身以外の壮丁は、在郷軍人からも町民からも送別の歓待至れり尽くせりで、[[在郷軍人会]]からは[[軍服]]を貸し渡した{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。ところが部落の両青年にはそれを貸してくれなかった{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。仕方なく一人は新調して間に合わせたが、もう一人は貧しかったため、ようやくにして一着の古いぼろぼろの軍服を町の軍人会に哀訴︵あいそ︶嘆願して借りた{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。軍人会は﹁[[穢多]]の奴︵やつ︶に貸す服はない{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。奴らにはこれでたくさんだ{{Sfn|高橋|1992|p=211}}。﹂と述べたという。 226 ⟶ 211行目:
{{要出典範囲|当時は[[1917年]]︵大正6年︶の[[ロシア革命]]の直後であり、活発化した[[社会主義]]運動はこれらの部落解放運動に大きな影響を与えた。また[[自由民権運動]]との関わりも深かった|date=2020年10月}}。 しかし、社会主義運動との連携を恐れた政府は後に水平社、特に[[日本共産党]]に関わりを持った水平社[[左派]]を弾圧した。[[1920年代]]︵大正9-昭和4年︶後半の低迷を経て、[[1930年代]]︵昭和5-14年︶以降、再建された全国水平社総本部は、[[松本治一郎]]を中心とし、合法[[無産政党]]に連なる社民派が掌握した。 [[1933年]]︵昭和8年︶の高松差別裁判糾弾闘争のように、大衆的な盛り上がりを見せることもあったが、次第に[[戦時体制]]に呑み込まれていき、弱体化、[[太平洋戦争]]︵[[大東亜戦争]]︶突入後の[[1942年]]︵昭和17年︶に消滅してしまった。 273 ⟶ 257行目:
|title=同和関係特別対策の終了に伴う総務大臣談話
|date=2002-3-29
|url=https://web.archive.org/web/20020723165329/http://www.soumu.go.jp/s-news/2002/020329_5.html
|accessdate=2021-3-25
|publisher=[[総務省]]
385 ⟶ 369行目:
===差別とされなかった表現の例===
* [[松本治一郎]]は、[[1952年]]︵昭和27年︶7月、[[徳川夢声]]との対談で﹁﹃部落﹄と書こうが﹃[[穢多|エタ]]﹄といおうが、問題じゃないんです。……その前後に差別の意味が加わってさえいなけりゃ、少しも問題はないわけですよ。それを[[確認・糾弾|糾弾]]するというのは、ことさらためにしようとするハシッパのもんです。……悪い奴にかかると、やっぱりヘンなことが生ずる﹂{{Sfn|松本|1977|p=20}}と語り、差別表現として糾弾するか否かはその語が差別的文脈で使われているか否かによるという見解を示したが、1948年︵昭和23年︶には松本自身が﹁私は三百万部落民の水平運動から、さらに数歩をすすめて、いわば世界の特殊部落におちこんだ八千万日本人民の水平運動をおこしたいと考えているのだ﹂{{Sfn|松本|1948|p=57}}と述べ、特殊部落という語を'''差別的文脈'''で使用していた。しかし、これは糾弾の対象とならず、松本自身も自己批判しなかった{{Sfn|金|1994|p=539}}。 * [[1952年]]︵昭和27年︶8月20日、﹃[[解放新聞]]﹄は﹁おじいさん達も斗つた─八十一回目の解放令記念日を迎え﹂と題する[[中西義雄|山村槙之助]]の記事を載せた。この記事の中では﹁再軍備と植民地化に反対し、民族の解放を斗いとることが、外国帝国主義と国内反動のために世界の特殊部落になれはてた日本民族全体の死活の問題として切実に出されてきている﹂と、やはり特殊部落という語が差別的文脈で使われていた。しかし、これもやはり糾弾の対象とならず、﹃解放新聞﹄も山村も自己批判しなかった{{Sfn|金|1994|p=542}}。 * [[1966年]]、[[丸山眞男]]が鼎談集﹃現代日本の革新思想﹄︵[[河出書房新社]]︶の中で﹁とかく左翼インテリの論議は、現実の勢力配置をそっちのけにして、せまいイデオロギー的"部落"のなかでワイワイやることになりがちですからね﹂と発言。しかし糾弾の対象とならず、読者の[[呉智英]]は﹁釈然としない気持ちだった﹂と回想している<ref>呉智英﹃危険な思想家﹄p.63。{{Full citation needed |title=単行本と文庫版の2つがありますが、どちらのこのページを指しているのか不明です。|date=2019-06-18}}</ref>。 * [[1970年]]、[[大江健三郎]]はルポルタージュ﹃沖縄ノート﹄の中で、集団自決を強制したとされている元守備隊長を﹁屠殺者﹂と表現した。この件について、﹁世界屠畜紀行﹂︵[[解放出版社]]︶の作者・[[内澤旬子]]は﹁誤植……じゃないよなあ﹂﹁屠場労働組合がまさに糾弾対象としている使われ方にドンピシャリ﹂と驚きを示した︵[[2007年]]12月3日付の著者ブログ︶。また、評論家の[[呉智英]]は﹁部落解放同盟などは﹁だれだれの作品だから差別はないと“神格化”したものの考え方を一掃したい﹂と言明した﹂﹁だが﹃沖縄ノート﹄は一度も糾弾されずに今も出版され続けている。大江健三郎に限ってなぜ糾弾から免責されるのか。大江健三郎のみ“神格化”される理由は何か。かくも悪質な差別がなぜ放置されているのか。知らなかったと言うのなら、それは許す。だが、今知ったはずだ。岩波書店、部落解放同盟にはぜひ説明していただきたい﹂<ref>{{Cite news |archiveurl=https://megalodon.jp/2008-0712-0708-31/sankei.jp.msn.com/culture/academic/071201/acd0712010322001-n1.htm |archivedate=2008-07-12 |url=https://web.archive.org/web/20071202112355/http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071201/acd0712010322001-n1.htm |title=大江健三郎の“特権” |author=呉智英 |newspaper=[[産経新聞]] |date=2007年12月1日}}</ref> と問題提起した。しかし、今日に至るまで部落解放同盟は大江を一度も糾弾しておらず、その理由も説明していない。 * [[1971年]]、[[塚本邦雄]]が﹃悦楽園園丁辞典﹄︵[[薔薇十字社]]、1971年︶p.38で﹁商業美術といふ画壇の特殊部落で、お前はつひぞ劣等感を感じなかつた﹂と記述。しかし糾弾には至らなかった。 * [[1981年]]、[[中野孝次]]が﹃[[文藝]]﹄1981年4月号における対談で﹁闇を意識しないで、明るみの中だけで書いていると、言葉はどうしても特殊部落的な言葉になっちゃうでしょ、インテリ語というか﹂と発言。[[?秀実]]はこの発言を自己批判するよう促したが、中野はこれを拒否。その後、部落解放同盟と友好関係にある[[野間宏]]が中野孝次と部落解放同盟の間に入り、中野を糾弾しないよう話をつけた、という<ref>呉智英﹃危険な思想家﹄p.58。{{Full citation needed |title=単行本と文庫版の2つがありますが、どちらのこのページを指しているのか不明です。|date=2019-06-18}}</ref>。 403 ⟶ 387行目:
なお、﹃同和利権の真相﹄で主要な批判の対象とされている部落解放同盟の公式見解として公表された反論文{{Sfn|部落解放同盟中央本部|2003}}や、[[宮崎学]]、[[角岡伸彦]]など解放同盟外の論者らの同書への批判を眼目とした反論本﹃﹃同和利権の真相﹄の深層﹄︵[[解放出版社]]︶がある。 ==地域
被差別部落の数や部落問題の認知度については大きな地域 一方、[[関東地方]]では、残存した被差別部落が極めて少ない上に、[[1960年代]]以降の人口移動の継続的な増加<ref>{{PDFlink|[https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/keizai_prism/backnumber/h20pdf/20085420.pdf ﹁戦後日本の人口移動と経済成長﹂参議院調査資料]}}</ref> と、大規模な[[都市再開発]]が進められたため、[[1970年代]]半ばには、住民とその居住する地域の関連性が見出せなくなった。これにより、被差別部落も曖昧な﹁過去の概念﹂に変化し、自律的な被差別部落の解消が急速に生じた。 412 ⟶ 396行目:
このように、[[東日本]]では[[1980年代]]初頭までに、被差別部落の解消が広い範囲で進展したため、解放運動も局所的かつ小規模なものに留まるようになった。なお、[[北海道]]や[[南西諸島]]には、この項でいう﹁被差別部落﹂は存在していない。︵琉球における宮古・八重山に対する差別と、この項で述べるものとでは、その背景が異なっている。︶ [[ファイル:ShinranShonin.png|thumb|150px|浄土真宗開祖[[親鸞]]の肖像画には、鹿骨の杖、猫皮の履物、狸の毛皮の敷物が描かれている]]
浄土真宗への帰依が深い越中︵富山︶において被差別民にあたる職業を担っていた﹁藤内﹂は一般集落から隔離されること無く、各集落内に分拠していたため被差別部落そのものが形成されなかった。加えて、[[1980年代]]後半以降、これらの地域では急速な[[過疎化]]が進み、[[1990年代]]以降は被差別部落も含め[[消滅集落]]になる集落が珍しくなくなった。この状態で被差別部落の隔離が維持されることはなく、意識が低かったこともあって部落問題そのものが過去のものとなりつつある。そのため、[[北関東|北関東地方]]も含めたこれらの地域では、通常の学校教育では現代の部落問題に関して教えることはまずないことから、関西以西に進学する学生を対象に、部落問題についての禁忌、タブーといったものを特別に講義する事態になっている。 430 ⟶ 415行目:
=== 福井県高浜町 ===
[[2019年]]9月に発覚した[[福井県]][[高浜町]]における[[関西電力#関西電力幹部らの金品受領・便宜供与問題|関西電力幹部らの金品受領・便宜供与問題]]の[[第三者委員会]]の報告書では[[1987年]]に[[高浜発電所]]において従業員間で同和地区出身者による差別事案が発生し、また[[1988年]]には関西電力協力会社の従業員が同和地区出身者に対し、差別発言をしたとして部落解放同盟高浜支部から問題提起がなされて以降、関西電力では主に原子力発電所関連の要職に就いている役職員に対し人権教育をするようになったとしている<ref>{{Cite report|author=関西電力第三者委員会|date=2020-03-14|title=第三者委員会調査報報告|url=https://www.kepco.co.jp/corporate/pr/2020/pdf/0314_2j_01.pdf|accessdate=2021-04-11}}</ref>。また事件に関与した[[森山栄治 (地方公務員)|森山栄治]]が高浜町長をもしのぐ権威をもつに至る背景に部落解放同盟の存在があり、﹁森山さんは部落解放同盟の力を笠に着て、役場でも出世していきました﹂との[[共産党]]町議の言葉を引用した[[週刊新潮]]の記事や﹁人権団体を率いて、差別をなくす“糾弾活動”の名目で恐怖政治を敷き﹂と同じ町議の言葉を引用し、﹁女性教師が差別発言をしたとして森山らに糾弾され教員を辞めた﹂という話を紹介した[[週刊文春]]の報道に対し、部落解放同盟中央本部が執行委員長名で﹁部落は怖いものとする予断や偏見を利用し﹂﹁部落差別の助長拡大﹂をしていると批判コメントを発表する事態となった<ref>{{Cite press release|和書|title=福井県高浜町元助役から関西電力幹部への金品受領問題に関する部落解放同盟中央本部のコメント|publisher=部落解放同盟中央本部|date=2019-10-07|url=http://www.bll.gr.jp/info/news2019/news20191008.html|accessdate=2021-04-11}}</ref><ref>{{Cite news|title=関電金品受領 部落解放同盟がコメント|newspaper=毎日新聞|publisher=毎日新聞社|date=2019-10-09|url=https://mainichi.jp/articles/20191009/k00/00m/040/201000c|accessdate=2021-04-11}}</ref><ref>{{Cite web|和書|author=[[平野次郎]]|url= === 「差別落書き事件」取材動画 ===
|