「野呂栄太郎」の版間の差分
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== 生涯 ==
[[北海道]][[長沼町]]に生まれ育ち、旧制北海中学︵現[[北海高等学校]]︶から[[慶應義塾大学]]理財科︵現在の[[経済学部]]︶に進む。少年時代は[[野球]]の[[スコアラー]]を勤めたが、小学2年で[[関節炎]]のため片足を切断した。彼が北海中学、慶應義塾大学に入学したのは、片足切断という障害のために公立[[旧制中学校|中学]]・官立[[旧制高等学校|高校]]には入学を認められなかったからである。北海中学では、秀才として知られ、[[北海タイムス]]に卒業時に記事が載るほどであったが、札幌一中︵現[[北海道札幌南高等学校|札幌南高等学校]]︶には、2年連続で不合格となっている。 大学在学中は[[向井鹿松]]のゼミで学ぶ。後述する[[小泉信三]]の授業も受けており、同時期に[[猪俣津南雄]]の下でも研究を行う。その傍ら先輩に当たる[[野坂参三]]の設立した[[産業労働調査所]]を手伝い、社会科学研究・革命運動に参加し、[[日本学生連合]]の関東代表委員を務めるなどした。 [[1926年]]︵大正15年︶<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1710883/264 ﹃慶応義塾塾員名簿 昭和4年版﹄慶應義塾塾監局、1929年、p.502]</ref>、卒業論文として﹃[[日本資本主義発達史]]﹄を執筆。慶應大学の助手採用試験・[[朝日新聞社]]を受けるも、不採用となり、卒業翌日、[[京都学連事件|学連事件]]に連座し、10か月の禁固が言い渡され収監される。8月に病気療養のために保釈され、産業労働調査所調査員として勤務。また[[1929年]]︵昭和4年︶[[4月16日]]の[[四・一六事件]]で、1月程拘束される<ref name="cv"/>。 42行目:
== 野呂と小泉信三 ==
[[1925年]]︵大正15年︶10月、野呂はマルクスの価値論を批判した[[小泉信三]]教授に授業中に反論し、論争を交わした。これによって小泉は野呂の才能を認め、研究の便宜を与えたというエピソードがある == 脚注 ==
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