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'''金森 誠之'''︵かなもり しげゆき、[[1892年]][[7月27日]] - [[1959年]][[8月19日]]<ref>[[内海清温]]﹁[http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/44-09/44-9-002.pdf 金森誠之君を想う]﹂</ref>︶は、日本の河川[[技術者]] 土木の仕事を、「地球芸術」と称していた。
== 人物 ==▼
== 経歴・職歴 ==
1918年から1921年まで、多摩川改修事務所に勤務。1924年から1929年までと、1年間の欧米諸国出張をはさみ1930年から1931年の2度にわたり所長をつとめる。その間の1928年には川崎河港工事を完成させた。この工事は岸壁と水門の工事で、岸壁は平時の荷揚げ、洪水時には[[多摩川]]からの避難所で、水門は洪水を防ぐ工事であった。水門建設は、金森の申し出を受けて、[[味の素]]がその建設費用を寄付金として負担したもので、現存する構造物である。その頭頂部の彫刻峠、金森と畏友の建築技術者との共同作品で、地元川崎名産の梨や桃そして葡萄が飾られ、構造は金森が考奏した鉄筋煉瓦である。▼ ▲[[和歌山県]][[有田郡]]出身。[[1915年]]︵[[大正]]4年︶、[[東京大学工学部|東京帝国大学 ▲[[1918年]]︵大正7年︶から[[1921年]]︵大正10年︶までは、多摩川改修事務所に勤務。その後、[[1924年]]︵大正13年︶から[[1929年]]︵[[昭和]]4年︶まで [[1938年 同年、[[下関市|下関]]土木出張所長に転任。翌[[1942年]]︵昭和17年︶には内務省を退官し、その後、金森総合土木研究所を創設して所長となる。[[1945年]]︵昭和20年︶の[[終戦]]時には、三井土木建築総合研究所所長の職にあった<ref name="fukushima">{{Cite journal|和書|author=功刀俊洋 |date=1996-07 |url=https://hdl.handle.net/10270/633 |title=1946年の市長公選運動(3) |journal=行政社会論集 |ISSN=0916-1384 |publisher=福島大学 |volume=9 |issue=1 |pages=1-71 |hdl=10270/633 |CRID=1050001337527577472}}</ref>。戦後は、[[利根川]]治水同盟や日本河川協会の副会長などをつとめた。 ▲1938年から1941年までは、仙台土木出張所長︵後の[[国土交通省]]東北地方整備局長︶となる。[[八郎潟]]の干拓工事計画や仙台塩釜地域の総合開発計画を提案した。この仙台時代は地元の人々に慕われ、ことに青年層に人望あつく、市長に請われることもあったという。 == 仙台市長選 ==
終戦後の[[1946年]]︵昭和21年︶5月、初めて[[公選]]として行われることになった[[仙台市|仙台]]市長選挙において、同市[[市議会]]保守系議員の一派が、戦時中に地域開発を主導した金森を推薦、金森は同選挙に立候補することとなった<ref name="fukushima"/>。これについて金森は、﹁政治家は性に合わないので辞退するつもりだったが、技術家として仙台復興に自分が必要との意見に従い、引き受けることにした﹂と、語っている<ref>岡崎氏が首位 ﹃河北新報﹄ ︵1946年5月20日︶</ref>。投票の結果、金森は仙台市旧市街の各所で1位を獲得したものの<ref name="fukushima"/>、得票総数では工場地域や農村部で優勢だった同じく保守系の候補・[[岡崎栄松]]に及ばぬ次点となり<ref>仙台市長選挙︵1946年5月19日投票︶、有権者 136,675名、投票数57,019票、岡崎栄松 24,226票、金森誠之 21,758票、佐々木更三 9,193票、佐々木家寿治 1,175票</ref>、落選した。 ▲== 人物 ==
技術官僚としては多趣多才で、「金森式鉄筋煉瓦」や「まさかり杭」を始め、数多くの[[発明]]や[[特許]]を残した。
趣味人としては、特に[[社交ダンス]]と[[映画]]を好み、[[1931年]](昭和6年)には『力学的に見た社交ダンス入門』を著した。また、土木技術者を主人公にした映画を多く製作したが、それは、設計し施工した印旛水門の竣工式祝賀会で工事関係者への労苦言及はなく、祝辞は地元代議士を讃えるものばかりで、自分らが「酬いられぬ人」であることを寂しく実感したことが契機となったという。すなわち、土木技術者の仕事を社会に認識させる方策として映画という媒体に着眼したものという。そのために自ら[[脚本]]を書き、ロケ地を求めて自分の足で歩きまわり、時として[[映画監督]]を押し退けて自分でメガホンを手にすることもあったという。また、配役についても一家言を持ち、[[俳優|女優]]を育てることにも熱心であった。[[川崎弘子]]や[[筑波雪子]]などの女優の芸名は、金森が名付けたものである。
金森による雑誌連載記事、「酬いられぬ人」、「混凝士道路」、「国道八号線」は、それぞれ映画化された。
この他、唯一の建築設計作として、自宅の設計がある。昭和九年に大田区山王にみずから設計した自宅は現存しているが、この自宅は金森四二歳の時の作品として知られる。 法面地に建てられているので三階建てのようにみえるが、実際は地下一階、地上二階で得意の鉄筋煉瓦構造である。この地には、もともと[[八景園]]という建物があったが、跡地が東京湾を望む高台にある上、暖かい別荘地として売りに出されていたところ、妻の薦めで購入したもので、現在の建物は創建当時のまま保たれている。一階には十畳と六畳の部屋続きになっている洋間があり、それは趣味のひとつであるダンスパーティを自宅で行うための工夫であるという。当時の上流階級ではダンスパーティ開催が一種のステータスシンボルであった。この家は雨漏りがするんですよと長男夫人は述べていたというが、原因は屋上で何度か開催されたダンスパーティのせいだったようである。 ==栄典==
* [[1940年]](昭和15年)[[8月15日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|紀元二千六百年祝典記念章]]<ref>『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。</ref>
==著書==
* 『応用地震学』(1926年)
* 『大東亜建設と八郎潟』(1940年)
* 『第二放送テキスト 工業講座土木工学』(1931年)
* 「伝記大地に刻む」雑誌『河川』に14回にわたって連載
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==参考文献==
{{参照方法|date=2010年4月|section=1}}
* 伊東孝 『東京再発見―土木遺産は語る』(岩波新書、1993年)
* 金森誠之君を想う http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/44-09/44-9-002.pdf
* 第3回講座「[http://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/cmsfiles/contents/0000026/26446/03itou.pdf 川崎の都市計画と運河計画]」
* 藤井 肇男 : 川の人物誌 金森誠之-技術軽視の社会に映画で抵抗した鬼才(にほんのかわ (89), 45-50, 2000年4月号 日本河川開発調査会)
* 多摩川左岸のひときわ異彩なシンボル 六郷水門 http://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/2011/pdf/1103-09.pdf
==外部リンク==
* chapter-60 『五差路』を造った戸田土地区画整理 http://www7a.biglobe.ne.jp/~inamaru/chapter-60/chapter-60toda.html
{{DEFAULTSORT:かなもり しけゆき}}
[[Category:日本の技術公務員]]
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