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== 人物 ==
1915年、[[東京大学工学部|東京帝国大学 1918年から1921年まで、多摩川改修事務所に勤務。1924年から1929年までと、1年間の欧米諸国出張をはさみ1930年から1931年の2度にわたり所長をつとめる。その間の1928年には川崎河港工事を完成させた。この工事は岸壁と水門の工事で、岸壁は平時の荷揚げ、洪水時には[[多摩川]]からの避難所で、水門は洪水を防ぐ工事であった。水門建設は、金森の申し出を受けて、[[味の素]]がその建設費用を寄付金として負担したもので、現存する構造物である。その頭頂部の彫刻峠、金森と畏友の建築技術者との共同作品で、地元川崎名産の梨や桃そして葡萄が飾られ、構造は金森が考奏した鉄筋煉瓦である。 21行目:
技術官僚としては多趣多才で、数多い発明や特許を残す。とくに、﹁金森式鉄筋煉瓦﹂と﹁まさかり杭﹂で知られている。また、趣味人としても知られ、社交ダンスと映画好きは有名で、1931年には﹃力学的に見た社交ダンス入門﹄を著す。 土木技術者を主人公にした映画製作を多くてがけているが、契機となったのは、設計し施工した印旛水門の竣工式祝賀会で工事関係者の労苦言及はなく、祝辞は地元代議士を讃えるものばかりで、金森はしみじみと「酬いられぬ人」であることを寂しく実感したというもの。土木技術者の仕事が社会に認識されない現状に不満を抱いて、その解決にむかって歩を進める方策として映画という媒体に着眼したという。酬いられることが少ない工学技術と技術者に対する再評価を映画によって訴えかけた。そのため自ら脚本を書き、ロケ地を求めて自分の足で歩きまわり、時として監督を押し退けて自分でメガホンを手にすることもあったという。また、配役についても一家言を持ち、女優を育てることにも熱心であった。女優の[[川崎弘子]]や[[筑波雪子]]らは、金森が名付けた芸名である。
金森は雑誌に記事を連載しはじめ、この中で、「酬いられぬ人」、「混凝士道路」、「国道八号線」が映画化された。
==著書==
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