「金森誠之」の版間の差分
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[[1938年]]︵昭和13年︶、仙台土木出張所︵後の[[国土交通省]]東北地方整備局︶の所長に就任。[[八郎潟]]の干拓工事計画や、[[仙塩|仙塩総合開発計画]]を提案した。この仙台時代には地元の人々に慕われ、ことに青年層に人望あつく、市長にと請われることもあったという。[[1941年]]︵昭和16年︶には、一時期[[名取川]]改修・[[釜房ダム|釜房堰堤]]工事事務所長に就任し、鉄道技師を兼任した。 同年、[[下関市|下関]]土木出張所長に転任。翌[[1942年]]︵昭和17年︶には内務省を退官し、その後、金森総合土木研究所を創設して所長となる。[[1945年]]︵昭和20年︶の[[終戦]]時には、三井土木建築総合研究所所長の職にあった<ref name="fukushima"> == 仙台市長選 ==
終戦後の[[1946年]]︵昭和21年 == 人物 ==
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趣味人としては、特に[[社交ダンス]]と[[映画]]を好み、[[1931年]]︵昭和6年︶には﹃力学的に見た社交ダンス入門﹄を著した。また、土木技術者を主人公にした映画を多く製作したが、それは、設計し施工した印旛水門の竣工式祝賀会で工事関係者への労苦言及はなく、祝辞は地元代議士を讃えるものばかりで、自分らが﹁酬いられぬ人﹂であることを寂しく実感したことが契機となったという。すなわち、土木技術者の仕事を社会に認識させる方策として映画という媒体に着眼したものという。そのために自ら[[脚本]]を書き、ロケ地を求めて自分の足で歩きまわり、時として[[映画監督]]を押し退けて自分でメガホンを手にすることもあったという。また、配役についても一家言を持ち、[[俳優|女優]]を育てることにも熱心であった。[[川崎弘子]]や[[筑波雪子]]などの女優の芸名は、金森が名付けたものである。 金森による この他、唯一の建築設計作として、自宅の設計がある。昭和九年に大田区山王にみずから設計した自宅は現存しているが、この自宅は金森四二歳の時の作品として知られる。 34行目:
* 『応用地震学』(1926年)
* 『大東亜建設と八郎潟』(1940年)
* 『第二放送テキスト 工業講座土木工学』(1931年)
* 「伝記大地に刻む」雑誌『河川』に14回にわたって連載
== 脚注 ==
{{Reflist}}
==参考文献==
{{参照方法|date=2010年4月|section=1}}
* 伊東孝
* 金森誠之君を想う http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/m_jsce/44-09/44-9-002.pdf
* 第3回講座「
* 藤井 肇男 : 川の人物誌 金森誠之-技術軽視の社会に映画で抵抗した鬼才(にほんのかわ (89), 45-50, 2000年4月号 日本河川開発調査会)
* 多摩川左岸のひときわ異彩なシンボル 六郷水門
==外部リンク==
* chapter-60
{{DEFAULTSORT:かなもり しけゆき}}
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