「銀貨」の版間の差分
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[[File:Potosì 8 reales 1768 131206.jpg|thumb|right|300px|スペインドル(8レアル銀貨)、1768年 ]]
'''銀貨'''(ぎんか)とは、[[銀]]を素材として作られた[[貨幣]]をいう。古来、[[金貨]]・[[銅貨]]とともに世界各地で流通した。
== 概要 ==
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一方で近世にいたり[[銀山]]の新規採掘が相次ぎ、金銀比価が低下の一途を辿るようになると、国内に大量の銀を保有する[[フランス]]や[[中国]]の抵抗、さらに[[アメリカ合衆国]]では[[通貨供給量]]の増大を望む中西部農民、西部の銀坑夫、南部出身者らが金銀複本位制度の維持を主張した︵{{仮リンク|自由銀運動|en|Free silver}}︶が通らず、19世紀末には主要国は金銀複本位制度を放棄して[[金本位制]]への移行を行った。ここにおいて本位貨幣としての銀貨はその役目を終え、銅貨と同じく[[補助貨幣]]としての銀貨が成立する。金本位制では金の絶対量が少量であるため、経済規模の拡大に対し対応できないとして[[恐慌]]の発生を懸念する声があり、さらにそれが現実のものとなったため、20世紀初頭には希少金属を貨幣価値の裏付けとする本位貨幣制度はその歴史に幕を閉じた。 [[画像:American Silver Eagle, obverse, 2004. 20世紀に入り工業用銀需要の高まりなどで銀の価格が上昇すると、世界的に銀貨は[[ニッケル]]、[[白銅]]などへの素材変更を余儀なくされていき、更に[[紙幣]]の流通もあって、20世紀の末 == 日本・中国の前近代の銀貨 ==
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従来から無文銀銭など、[[秤量貨幣]]として用いられていた銀と異なり、銅銭はその価値基準を定める経験に乏しく、価額設定は政府の恣意によるものとなった。[[711年]]︵[[和銅]]4年︶には銅銭1文で穀6[[升]]とされたが、[[729年]]︵[[天平]]1年︶米1[[石 (単位)|石]]が銀1両、銭100文となっており、銅銭の価値は1/3に下落している<ref>{{Cite book|和書|author=滝沢武雄|authorlink=滝沢武雄|title=日本の貨幣の歴史|year=1996|pages=|publisher=[[吉川弘文館]]|isbn=4-642-06652-7}} {{要ページ番号|date=2015年2月}}</ref>。[[760年]]︵[[天平宝字]]4年︶には[[大平元宝]]という銀銭が発行されたといわれるが、これは流通目的ではなく、銅銭の価値を上げるためのものといわれ、さらに遺物も現存しない。 [[江戸時代]]に[[丁銀]]、[[豆板銀]]といった[[秤量銀貨]]が、主に[[西日本]]から[[北陸]]、[[東北]]で流通した。これは[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から江戸時代初期に掛けて[[灰吹銀]]に極印を打った[[領国貨幣]]が商取引に盛んに使用されたことの名残である。だが、[[南鐐二朱銀]]の発行以後、[[定位貨幣]]である額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代後期には、[[五匁銀]]、[[一分銀]]、[[一朱銀]]など、額面表記銀貨も発行された。秤量銀貨の丁銀、豆板銀、および定量銀貨の五匁銀は﹁銀~[[匁]]﹂といった[[銀目]]建の銀貨であるのに対し、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀といった銀貨は、銀製の金貨代用貨幣であり、金貨の単位で用いられたものである。これらの江戸時代の銀貨は銀銭の発達したものではなく、全く別系統のものである。 中国では[[明]]の[[洪武帝]]治世下で金銀貨幣の使用が禁止され、[[1375年]]には通貨は[[大明宝鈔]]という[[紙幣]]に切り替えられ、額面1貫文が銀1両=米1石に相当するとされたが、[[永楽帝]]の
== 脚注 ==
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* [[硬貨]]([[金貨]]・[[銅貨]])
* [[ターラー (通貨)|ターラー]]
* [[テトラドラクマ]]
* [[通貨]]
* [[日本の銀貨]]
118 ⟶ 60行目:
* [[本位銀貨]]
* [[貿易銀]]
* 『[[星の銀貨]]』
{{Normdaten}}
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