「門跡」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし |
m →沿革 |
||
(7人の利用者による、間の15版が非表示) | |||
1行目:
{{出典の明記|date=2013年2月13日 (水) 04:57 (UTC)}}
{{wiktionary|門跡}}
'''門跡'''︵もんぜき、もんせき︶は、[[皇族]]・[[公家]]が住職を務める特定の寺院、あるいはその住職のことである。[[寺格]]の一つ。元来は、[[日本の仏教]]の[[開祖]]の正式な後継者のことで﹁門葉門流﹂の意であった︵この場合は'''門主'''とも︶。[[鎌倉時代]]以降は[[位階]]の高い寺院そのもの、つまり[[寺格]]を指すようになり、それらの寺院を'''門跡寺院'''と呼ぶようになった。また、御由緒寺院、尼門跡寺院︵皇女や王女が務める寺院︶ともいう<ref name=kawahara> [[浄土宗]]の[[知恩院]]門跡は浄土'''門主'''(もんす)という。
8行目:
== 概要 ==
[[永村眞]]の説によれば、﹁門跡﹂という用語は、[[平安時代]]に[[法流]]・門徒︵法流の構成員︶の意味に用いられ、[[鎌倉時代]]になると[[院家]]︵法流の拠点施設︶・院主︵院家の住持︶の意味に転じ、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]以降になると特定の貴種がいる院家・院主の意味で定着したとしている。法流はその教えを維持するために有力な檀越である[[天皇家]]や[[摂関家]]などに出自を持つ貴種の出身者を後継者として遇し、法流の院家・経典︵物質的︶および教説・秘儀︵教学的︶を相承することで、排他的管理と内外に対する優位性を確立していったのである == 沿革 ==
[[宇多天皇]]が[[出家]]して[[仁和寺]]に入室し御室御所と称し、御室門跡となったのが始まりである。仁和寺は当初は宇多天皇の子孫(宇多源氏)が住職である別当を務めていたが、[[三条天皇]]の皇子である[[性信入道親王]]が住職に就いた際に別当よりも上位である検校を称し、その後を白河天皇の皇子である[[覚行法親王]]が継いだことから皇族が住職を務める[[真言宗]]の寺院と認識され、後の門跡寺院のはしりとなった
一方、天台宗の総本山である延暦寺では、12世紀の初めに[[天台座主]]の[[仁豪]]︵[[明快]]の弟子︶と[[無動寺 (大津市)|無動寺]]の[[寛慶]]︵後に天台座主、[[行玄]]の師︶が寺を2つに分ける内紛を起こし、その影響は後々にも及んだ︵源平合戦の際にも仁豪の法流は平家支持を、寛慶の法流は中立の立場に立った︶。前者は[[三千院]]︵梨本・梶井︶、後者は[[青蓮院]]を拠点とし、前者には[[堀河天皇]]の皇子である[[最雲法親王]]、後者には[[鳥羽天皇]]の皇子である[[覚快法親王]]、次いで[[摂関家]]出身の[[慈円]]が入ったことで格式を高めて門跡寺院となった。なお、一般には明快を梨本門跡の祖、行玄を青蓮院門跡の祖とみなされているが、梨本・青蓮院が﹁両門跡﹂と称されるようになったのは鎌倉時代に入った[[1220年代]]と推定されている。その後、[[後白河天皇]]ゆかりの[[妙法院]]が[[守貞親王|後高倉院]]皇子である[[尊性法親王 (鎌倉時代)|尊性法親王]]を迎えたことで格式を高め、[[1260年代]]には両門跡と肩を並べるようになり、[[1280年代]]には﹁三門跡﹂と呼ばれるようになった 鎌倉時代初期頃からは[[皇族]]や[[摂家]]等の子弟が特定の寺院に出家するようになる︵[[摂政]][[九条道家]]の息[[法助]]が初めて皇族でない御室門跡となる<ref> 医療の発達していなかった時代は、病気で子に万一のことがあり、家系が断絶することがないように、正妻の他に側室を持ちたくさんの子をもうけることが、上流階級の﹁家﹂の存続のために必要であったが、同時にそのことは冠婚葬祭で多くの出費を伴うことに直結した。出家すると婚姻しないため、結納・支度金・婚礼費用等の直接的な出費の削減になるだけでなく、子を作らないため、宮家や別家を作ることがなく、家として大幅な経費の節減となるうえ、少ない領地をさらに分封することを防ぐこともできた。なお、家に残った跡取りに万一のことがあれば、出家した子弟のうちの選ばれたものが[[還俗]]して家を継いだ。 25行目:
子弟らは[[荘園 (日本)|荘園]]を所有しておりその経済力を背景とした政治力をもって、受け入れた寺院内の支配権を掌握するようになり、各門流を継承するようになった。これらが慣例化してやがて、﹁門跡﹂自体が﹁貴族﹂出身者によって継承される特定の院家・寺院を指す称号へと変化した。 そして[[室町時代]]になると、[[寺格]]としての「門跡」が確立し、[[室町幕府]]には、門跡寺院に関する政務を執る[[門跡奉行]]が置かれた。また、[[足利義満]]以降、自分の子弟をはじめとする足利将軍家の一門を門跡寺院に入れるようになった。本来は皇室の子弟が入るべき門跡寺院に足利将軍家の一門が入ることについて、かつては研究者の間において天皇家に代わって仏教界を支配すること、あるいは皇位簒奪実現のための手段の一つと見なして「僭上の至り」などと指摘されることもあった<ref>田中義成の『足利時代史』(講談社学術文庫、1979年)や今谷明『室町の王権』(中公新書、1990年)などがこうした見方を取っていた。</ref>。しかし、実際には仏教統制の意味合いよりも、皇室や摂家と同様に家を継ぐ子以外の者を出家させることで世俗から切り離し、政治的・経済的リスクを減らそうとしたと考えられている。特に足利尊氏の庶子で一時期父と対立した[[足利直冬]]及び嫡男[[足利冬氏|冬氏]]及び足利義満の弟である[[足利満詮]]の子弟は全員門跡寺院に送られてその血筋を断絶させることで、室町殿(足利将軍家)を脅かす要素を排除している。なお、足利将軍家が断絶した際には門跡寺院に入った将軍の子弟が還俗して家を継いており、6代将軍[[足利義教]](青蓮院義円)・11代将軍[[足利義澄]](香厳院清晃)・15代将軍[[足利義昭]](一乗院覚慶)は門跡寺院に入った後に還俗して将軍家を継承している。更に義満の時代、幕府が後ろ盾になっていた[[持明院統]]([[伏見宮]]を含む)では男子皇族の早世が多く、皇統そのものが断絶しかねない危機の中で門跡寺院に入れられる皇族の絶対数が不足していた(実際に持明院統嫡流は断絶し、伏見宮から[[後花園天皇]]が迎えられることになる)。こうした状況で仏教界側からも皇族に代わりうる「貴種」の供給源として足利将軍家が期待された側面もあったのである<ref>高鳥廉「足利将軍家子弟・室町殿猶子寺院入室とその意義-室町殿と寺院・公家社会との関係を探る-」(初出:『史学雑誌』130編9号、2021年)/改題所収:「室町前期における足利将軍家出身僧の身分と役割」『足利将軍家の政治秩序と寺院』(吉川弘文館、2022年) ISBN 978-4-642-02976-6)P55-94.)</ref>。
そして[[室町時代]]になると、[[寺格]]としての「門跡」が確立し、[[室町幕府]]には、門跡寺院に関する政務を執る[[門跡奉行]]が置かれた。さらに[[江戸幕府]]では、宮門跡(親王門跡)・摂家門跡・清華門跡・公方門跡(武家門跡)・准門跡(脇門跡)などに区分して制度化した。[[禁中並公家諸法度]](第13条)では、天皇の皇子・連枝(兄弟)である宮門跡は摂家出身の摂家門跡よりも上とされ(宮中内では摂家は親王の上とされていたことから反対の扱いとなる)、同格であればその修行期間の長さに基づいた。この規定によって天皇の孫以下(具体的には宮家出身者)は宮門跡にはなれないと解されたが、宮家出身者が天皇の猶子になった場合の解釈は曖昧のまま残された。実際に[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]])に[[後陽成天皇]]の孫で伯父の[[後水尾天皇]]の猶子となっていた[[良尚入道親王]]([[八条宮家]])が門跡に列せられ、[[18世紀]]の末には宮門跡は全員天皇の猶子となった宮家出身者が占めてこの状態で明治維新を迎える事になった([[安永]]8年([[1780年]])には皇統断絶により閑院宮家から光格天皇が即位しており、天皇の皇子・連枝を出家させる余裕は失われていたのである)<ref>高埜利彦『近世の朝廷と宗教』吉川弘文館、2014年、P129-130・135-139</ref>。▼
▲ == 本願寺の門跡成 ==
なお、門跡寺院の歴史の中で特殊な地位を占める存在に[[本願寺]]がある。[[浄土真宗]]の祖・[[親鸞]]︵[[日野家]]出身︶の直系子孫が継承した本願寺は歴史的経緯 == 門跡寺院 ==
36 ⟶ 38行目:
** [[大乗院 (門跡寺院)|興福寺大乗院]]
* [[山門派|天台宗山門派]]
** [[青蓮院]](
** 魚山[[三千院
** 南叡山[[妙法院]]
** 護法山安國院出雲寺[[毘沙門堂]]
** [[曼殊院]](
** 東叡山輪王寺([[寛永寺]])
** 日光山[[輪王寺]](東叡山と兼ねる)
** [[本覚寺]]▼
** [[法住寺 (京都市)|法住寺]]
** [[妙香院]]▼
** [[滋賀院]]
▲** [[本覚寺]] - 廃寺
** [[浄土寺]] - 廃寺
▲** [[妙香院]] - 廃寺
* [[寺門派|天台宗寺門派]]
** [[聖護院]]
55 ⟶ 57行目:
** 朝日山[[平等院]](浄土宗と兼ねる)
** [[常住院]]
** [[如意寺 (京都市)|如意寺]]([[如意ヶ嶽]]山上、
* [[真言宗]]
** 大内山[[仁和寺]](
** 嵯峨山[[大覚寺]](
** [[蓮華光院]]
** 醍醐山[[三宝院|醍醐寺三宝院]]
** 醍醐山[[金剛王院|醍醐寺金剛王院]]
** 牛皮山[[随心院|隨心院]](
** 亀甲山[[勧修寺]](
** 吉祥山[[安祥寺 (京都市)|安祥寺]]
** [[東南院 (奈良市)|東南院]] - 廃寺
** [[上乗院]] - 廃寺
** [[勝宝院]] - 廃寺
** [[菩提院]]
** [[教令院]] - 廃寺
* [[浄土宗]]
** 華頂山知恩教院大谷寺([[知恩院]])
** 聖衆來迎山無量壽院[[禅林寺 (京都市)|禅林寺]](永観堂)
* [[日蓮宗]]
** [[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]](
{{colend}}
91 ⟶ 93行目:
* 魚山[[三千院]]
* [[曼殊院]]
*
* [[円満院|圓満院]]
*
*
*
*
{{colend}}
130 ⟶ 132行目:
* 渋谷山(汁谷山)[[佛光寺]]
* 高田山[[専修寺]]
*
* 遍照山天神護法院[[錦織寺]]
{{colend}}
これら6家は明治5年3月にいずれも華族となった<ref> === 尼門跡 ===
139 ⟶ 141行目:
{{colbegin|3}}
* [[天台宗]]
** 真盛山[[本光院 (上京区真盛町)|本光院]]{{small|︵本光院門跡、[[上七軒 * [[真言宗]]
** [[妙心寺 (新宮市)|妙心寺]]
* [[臨済宗]]
** 岳松山[[大聖寺 (京都市)|大聖寺]](
** 西山[[宝鏡寺|寳鏡寺門跡]](
** [[曇華院]](竹御所、
** 円成山[[霊鑑寺]](
** 普門山[[圓照寺]](
** 聖明山[[林丘寺]](
** 広徳山[[慈受院]](
** [[宝慈院]](
* [[律宗]](光明宗)
** [[法華寺]](
* [[法相律宗]]([[聖徳宗]])
** 法興山[[中宮寺]](
* [[浄土宗]]
** [[三時知恩寺]](
* [[四宗兼学]]
** [[光照院]](
* [[日蓮宗]]
** [[瑞龍寺 (近江八幡市)|瑞龍寺]](
{{colend}}
このうち、奈良にある == 御里房 ==
168 ⟶ 170行目:
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{脚注ヘルプ}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|editor-last=永村|editor-first=眞|title=中世の門跡と公武権力|publisher=戎光祥出版|year=2017|isbn=978-4-86403-251-3}}
== 関連項目 ==
175 ⟶ 184行目:
* [[法主]]
{{日本の建築}}
{{Buddhism2}}
|