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== 沿革 ==
[[宇多天皇]]が[[出家]]して[[仁和寺]]に入室し御室御所と称し、御室門跡となったのが始まりである。仁和寺は当初は宇多天皇の子孫(宇多源氏)が住職である別当を務めていたが、[[三条天皇]]の皇子である[[性信入道親王]]が住職に就いた際に別当よりも上位である検校を称し、その後を白河天皇の皇子である[[覚行法親王]]が継いだことから皇族が住職を務める[[真言宗]]の寺院と認識されるように、後の門跡寺院のはしりとなった<ref>横内裕人「仁和寺御室論をめぐる覚書」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。
 
一方、天台宗の総本山である延暦寺では、12世紀の初めに[[天台座主]]の[[仁豪]]([[明快]]の弟子)と[[無動寺 (大津市)|無動寺]]の[[寛慶]]([[行玄]]の師)が寺を2つに分ける内紛を起こし、その影響は後々にも及んだ(源平合戦の際にも仁豪の法流は平家支持を、寛慶の法流は中立の立場に立った)。前者は[[三千院]](梨本・梶井)、後者は[[青蓮院]]を拠点とし、前者には[[堀河天皇]]の皇子である[[最雲法親王]]、後者には[[鳥羽天皇]]の皇子である[[覚快法親王]]、次いで[[摂関家]]出身の[[慈円]]が入ったことで格式を高めて門跡寺院となった。なお、一般には明快を梨本門跡の祖、行玄を青蓮院門跡の祖とみなされているが、梨本・青蓮院が「両門跡」と称されるようになったのは鎌倉時代に入った[[1220年代]]と推定されている。その後、[[後白河天皇]]ゆかりの[[妙法院]]が[[後高倉院]]皇子である[[尊性法親王 (鎌倉時代)|尊性法親王]]を迎えたことで格式を高め、[[1260年代]]には両門跡と肩を並べるようになり、[[1280年代]]には「三門跡」と呼ばれるようになった<ref>衣川仁「延暦寺三門跡の歴史的機能」永村眞 編『中世の門跡と公武権力』(戎光祥出版、2017年) ISBN 978-4-86403-251-3</ref>。
 
[[]][[]][[]][[]][[]]<ref>[[]]<small>[[]]</small> [[]] ISBN 978-4061586215376p</ref>[[]]