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そして[[室町時代]]になると、[[寺格]]としての「門跡」が確立し、[[室町幕府]]には、門跡寺院に関する政務を執る[[門跡奉行]]が置かれた。また、[[足利義満]]以降、自分の子弟をはじめとする足利将軍家の一門を門跡寺院に入れるようになった。本来は皇室の子弟が入るべき門跡寺院に足利将軍家の一門が入ることについて、かつては研究者の間において天皇家に代わって仏教界を支配すること、あるいは皇位簒奪実現のための手段の一つと見なして「僭上の至り」などと指摘されることもあった<ref>田中義成の『足利時代史』(講談社学術文庫、1979年)や今谷明『室町の王権』(中公新書、1990年)などがこうした見方を取っていた。</ref>。しかし、実際には仏教統制の意味合いよりも、皇室や摂家と同様に家を継ぐ子以外の者を出家させることで世俗から切り離し、政治的・経済的リスクを減らそうとしたと考えられている。特に足利尊氏の庶子で一時期父と対立した[[足利直冬]]及び嫡男[[足利冬氏|冬氏]]及び足利義満の弟である[[足利満詮]]の子弟は全員門跡寺院に送られてその血筋を断絶させることで、室町殿(足利将軍家)を脅かす要素を排除している。なお、足利将軍家が断絶した際には門跡寺院に入った将軍の子弟が還俗して家を継いており、6代将軍[[足利義教]](青蓮院義円)・11代将軍[[足利義澄]](香厳院清晃)・15代将軍[[足利義昭]](一乗院覚慶)は門跡寺院に入った後に還俗して将軍家を継承している。更に義満の時代、幕府が後ろ盾になっていた[[持明院統]]([[伏見宮]]を含む)では男子皇族の早世が多く、皇統そのものが断絶しかねない危機の中で門跡寺院に入れられる皇族の絶対数が不足していた(実際に持明院統嫡流は断絶し、伏見宮から[[後花園天皇]]が迎えられることになる)。こうした状況で仏教界側からも皇族に代わりうる「貴種」の供給源として足利将軍家が期待された側面もあったのである<ref>高鳥廉「足利将軍家子弟・室町殿猶子寺院入室とその意義-室町殿と寺院・公家社会との関係を探る-」(初出:『史学雑誌』130編9号、2021年)/改題所収:「室町前期における足利将軍家出身僧の身分と役割」『足利将軍家の政治秩序と寺院』(吉川弘文館、2022年) ISBN 978-4-642-02976-6)P55-94.</ref>。
 
[[]][[]]13[[ ()|]][[1681]][[]][[]][[]][[]][[18]][[]]8[[1780]]<ref>{{Cite book||author=|title=|publisher=|year=2014|pages=129-130135-139}}</ref>