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{{Infobox 航空機
| 名称=A6M 零式艦上戦闘機
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| 用途=[[戦闘機]]
| 分類=[[艦上戦闘機]]
| 設計者=[[堀越二郎]]・[[曽根嘉年|曾根嘉年]]ら
| 製造者=<br/>
**[[三菱重工業]](開発)
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| 運用開始年月日=[[1940年]][[7月]](昭和15年7月)
| 退役年月日=[[1945年]][[8月]](昭和20年8月)
| 運用状況=退役済
| ユニットコスト=
}}
'''零式艦上戦闘機'''︵れいしきかんじょうせんとうき ==概要==
零式艦上戦闘機は、1936年に大日本帝国海軍に制式採用された[[九六式艦上戦闘機]]の後継機として 3,000 [[キロメートル|km]]の長大な航続距離、翼内に対爆撃機用の20ミリ固定機銃2門 しかし、大戦中期以降は、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立、[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]]や[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]など新鋭戦闘機の投入で劣勢となるも、後継機である[[烈風|十七試艦上戦闘機﹁烈風﹂]]の開発が大幅に遅れたことにより、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機だった。 大戦末期には、[[爆戦|戦闘爆撃機]]や[[特別攻撃隊|特攻機]]としても改造され使用された。
開発元は[[三菱重工業]]︵以下﹁三菱﹂︶。三菱に加え[[中島飛行機]]でも[[ライセンス生産]]が行われており、総生産数の6割以上は中島製である。<!--三菱の正式名称 三菱航空機→1934年三菱重工業-->生産数は日本の[[戦闘機]]では最多の {{main2|各型の零戦の詳細|零式艦上戦闘機の派生型}}
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; 降着装置
[[File:Zerob.jpg|thumb|250px|降着装置を下ろした状態。主翼の上に棒が飛び出している。]] 零戦の[[降着装置]]は、油圧作動式の引込み脚であり、空気抵抗を削減するために主脚及び尾輪を機体内へ引き込む設計とした。引込み式の降着装置は日本の艦上機としては[[九七式艦上攻撃機]]に次いで2番目の採用となる。主脚は[[ ; 主翼
二本桁構造で翼弦の30%位置を左右一直線として前桁を通し、後桁は図面計測で63%位置を通っている。[[超々ジュラルミン]]ESD材は桁のみに使われ約30kgの重量軽減になると計算された。
翼型は[[九六式艦上戦闘機|九六艦戦]]、[[九六式陸上攻撃機|九六陸攻]]、[[九七式司令部偵察機|九七司偵]]等で実績がある三菱B-9翼型の肉付けとNACA23012系<ref group="注釈">最大厚さ29.8%位置</ref>の矢高線を組み合わせた﹁三菱118番翼型﹂<ref>学習研究社 学研M文庫 零戦 P166</ref>を採用<ref group="注釈">揚・抗力曲線はB-9と同等で迎角変化による風圧中心の移動はその半分という優れた特性を持つ</ref>。 翼面荷重は海軍が要求する旋回性能、離着艦性能に応えるため当時の世界的趨勢より思いきって低くし試作機段階で105kg/㎡以下を狙った。
中央翼弦長<ref group="注釈">2617.54mm、中心から500mm外側の翼根で2500mm</ref><ref>グリーンアロー出版社 大図解 零式艦上戦闘機 P54</ref><ref>酣燈社 精密図面を読む︻1︼ P38</ref>、中央翼厚は主脚引込、燃料タンク、翼内砲の必要容積から定まったが<ref>学習研究社 学研M文庫 零戦 P167</ref>、翼厚の%について設計主務の堀越技師は書き残していない。翼型断面図<ref>モデルアート社 図解 零式艦上戦闘機 一一型/二一型 No.323 P47</ref>の寸法<ref group="注釈">取付角0度で計るべき所を取付角2度で採寸しており僅かに厚めに出る</ref>から計算すると、1番リブ位置で約14.26%<ref group="注釈">中心から125mm外側、弦長2588.16mm・厚369.2mm</ref>、12番リブ位置で約14.21%となる<ref group="注釈">中心から2475mm外側、弦長2035.71mm・厚289.34mm</ref>。1番/12番リブは共に取付角2度で、2.5度の捩り下げはその外側から始まりサインカーブ状、なだらかに捩られている<ref>養賢堂 飛行機設計論 山名正夫 中口博 P60 3.5図</ref>。21番リブ位置で約11.11%取付角0度<ref group="注釈">中心から3825mm外側、弦長1600.81mm・厚177.94mm</ref>、26番リブ位置で約9.01%、取付角-0.5度<ref group="注釈">中心から4875mm外側、弦長1272.2mm・厚114.72mm</ref>である。︵翼厚については付根14.4%、翼内砲取付部15%、翼端9%とする資料もある<ref>文林堂 世界の傑作機スペシャル・エディション Vol.6 零式艦上戦闘機 P202</ref>︶ 最大矢高は翼弦の2%、外翼で徐々に増して翼端で3%<ref group="注釈">角度の捩りを幾何学的捩り下げ、翼型を変えて失速に強くするのを空力的捩り下げといい併用される</ref>。上面図で見る翼端は丸く見えるが円弧ではなく放物線である。
; 超々ジュラルミン
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人力の操舵では操縦装置を操作した分だけ舵面が傾くが、高速飛行時と低速時では同一の舵角でも舵の利きが異なるため、操縦者は速度に合わせて操作量を変更しなければならない。そこで零戦では操縦索を伸び易いものにして、もし高速飛行時に操縦桿を大きく動かした場合でも、気流の抵抗で動きにくくなっている舵面との間で操縦索が引き伸ばされることで舵角が付き過ぎないよう補正されるようにしている。この仕組みは[[昇降舵]]につながる操縦索だけに用いられた。 従来は、主任設計者である堀越二郎の記述により、剛性低下操縦方式の採用は零戦からだと思われていた。しかし近年、[[曽根嘉年]]が残した資料によって、剛性低下操縦方式はすでに[[九六式艦上戦闘機]]二号二型から導入されていたこと、この発想の原点は[[本庄季郎]]が設計をとりまとめた[[九六式陸上攻撃機]]の先行試作機である八試特殊偵察機だったこと<ref group="注釈">完成を急いだため[[ユンカース]]社の標準部品を使用したところ、操縦装置の剛性が不十分なのに、かえって操縦性がきわめてよいという怪我の巧妙のような結果になった。</ref>などが明らかになっている{{sfn|杉田|2019|pp=83–85}}。 ; 光像式照準器(九八式射爆照準器、俗称OPL)
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; 発動機
[[ファイル:Carrier shokaku.jpg|thumb|250px|[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]から発進準備中の零戦二一型 (A6M2b)]]
[[ファイル:A6M3 Model32-common.jpg|thumb|250px|大分航空隊の零戦三二型 (A6M3)]]
[[ファイル:A6M5 52c Kyushu.jpg|thumb|250px|出撃準備中の零戦五二丙型 (A6M5c)]]
零戦の性能向上が不十分だった原因として、発動機換装による馬力向上の失敗がある。[[雷電 (航空機)|雷電]]・[[紫電改|紫電]]の穴埋めとして零戦の武装・防弾の強化及び高速化を図った五三丙型︵A6M6c︶の開発を開始、[[水メタノール噴射装置]]の追加によって出力向上を図った[[栄 (エンジン)|栄三一型]]︵離昇1,300馬力を予定︶の搭載が予定されており、武装・防弾を強化しても最高速度を580[[キロメートル毎時|km/h]]台までの向上が可能と試算されていた。栄三一型の開発は比較的順調に進み、五三丙型試作一号機を用いて実用審査が行われていた。しかし、[[1944年]]︵昭和19年︶秋頃に多発した零戦のプロペラ飛散事故の原因が栄二一型の減速[[遊星歯車機構|遊星歯車]]の強度不足であることが判明し、対策を必要とする零戦︵五二型系列約300機︶の改修に海軍の栄三一型審査担当者が追われ、栄三一型の審査は一時中断された。そしてこの時に始まったフィリピン戦に対応するため、審査未了で生産できない栄三一型の代わりに栄二一型が装備されることになったものの、審査と平行して生産されていた栄三一型用の調整は困難かつ実効がほとんど認められず、性能低下の一因ともなる水メタノール噴射装置は倉庫で埃を被ることになった。同時期に陸軍の栄三一型審査担当者は審査完了しており、水メタノール噴射装置の可能性を実感した結果、これを改良した栄三二型︵離昇1,300馬力︶を搭載した一式戦闘機三型を[[1944年]]︵昭和19年︶7月から量産開始した。この結果、大量生産された零戦五二丙型︵A6M5c︶は栄二一型︵離昇1,130馬力︶装備のまま武装・防弾だけを強化したので正規全備重量が3,000 [[キログラム|kg]]近くに増加し、急降下性能の向上は見られたが、零戦の持ち味であった運動性能と上昇力がともに低下した機体が量産されるに至った。この混乱が治まった後に栄三一型の審査は再開されたものの、既に審査終了が[[1945年]]︵昭和20年︶の初頭になっていた。その後、零戦六二型︵A6M7︶には栄三一甲/乙型︵離昇1,210馬力︶、これと併行して零戦六三型︵A6M7︶には栄三一型︵離昇1,300馬力を予定︶を[[1945年]]︵昭和20年︶2月から量産開始させたが、その大多数は水メタノール噴射装置を廃した栄三一甲/乙型を搭載した零戦六二型︵A6M7︶で、一部は保管され審査完了待ち状態だった栄三一型を零戦六三型︵A6M7︶に装備した。2機種を競合させて零戦六二型︵A6M7︶の生産を優先させた理由は、水メタノール噴射装置自体の重量が約100 kgと70Lの水メタノールタンクで合わせて約170kg以上の重量があったため、零戦の運動性能が損なわれると判断されたからである。水メタノール噴射装置の不具合とそれによって引き起こされる稼働率の低下も問題になったと考えられる。運動性能を重視して稼働率の高い零戦六二型︵A6M7︶か、速度性能を重視して稼働率の低い零戦六三型︵A6M7︶を競合させた結果、前者の方を量産するに至った。 88 ⟶ 96行目:
; 定速回転プロペラ
[[可変ピッチプロペラ (航空)#定速プロペラ|恒速回転プロペラ]]とも呼ばれ、回転数を一定に保つため、プロペラピッチ変更<ref group="注釈">自動車のギヤシフトに相当する。</ref>を自動的に行うもので、操縦席にあるプロペラピッチ変更レバーにより任意でのピッチ変更も可能である<ref group="注釈">プロペラピッチの変更は29-49度の間で変更が可能である。</ref>。日本の艦上機としては九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機についで3番目に装備された。零戦に使用されたのは当時多くの機体に使われていた[[ユナイテッド・テクノロジーズ|ハミルトン・スタンダード]]製の油圧式可変プロペラを海軍向けのプロペラを生産していた住友金属工業が[[ライセンス生産]]したものである<ref group="注釈">陸軍向けは日本楽器製造︵現‥[[ヤマハ]]︶が生産している。</ref>。 アメリカの参戦により以降に開発された改良型や新型の情報、より精密な加工に必要な工作機械が入手できなくなった。対策として住友金属では独自に改良型の試作が行われ[[一〇〇式司令部偵察機]]三型にピッチの変更範囲を35度に拡大したペ26が採用されたが<ref>[https://global.yamaha-motor.com/jp/profile/technology/yamamomo/001/ やまももの木は知っている ヤマハ発動機創立時代のうらばなし - ヤマハ発動機の技と術] - [[ヤマハ発動機]]</ref>、素材や工作機械の精度により性能の向上は限定的であった。住友金属ではドイツの[[:de:Vereinigte Deutsche Metallwerke|VDM社]]からライセンス生産権を得た電動式ガバナーを備えた定速4翅プロペラも生産しており[[雷電 (航空機)|雷電]]などに採用されたが、構造が複雑で生産工程数や部品点数が多く振動問題もあったため、零戦は旧式ではあるが信頼性の高いハミルトン式の採用が続いた。大戦前の旧式プロペラが改良されなかったことは発動機と共に速度向上の足かせとなった。 96 ⟶ 104行目:
爆撃機など大型機を一撃で撃墜するため、当時としては強力な20mm機銃搭載が求められており、初期型から機首の7.7mm機銃([[九七式七粍七固定機銃]])2挺に加え翼内に20mm機銃2挺を搭載しており、当時としては高火力な機体となった。
[[ファイル:7.7mmType97AircraftMG.jpg|thumb|250px|九七式七粍七固定機銃]]
7.7mm機銃の弾丸は、当時のイギリス軍の歩兵銃であり日本海軍でも国産化していた[[ルイス軽機関銃|留式七粍七旋回機銃]]と同じ[[.303ブリティッシュ弾|7.7x56R弾︵.303ブリティッシュ弾︶]]であった。これは輸入した複葉機の時代からのものであり、この[[ヴィッカース重機関銃|歩兵用の重機関銃]]を航空機用に改良したヴィッカースE型同調機銃を、毘式七粍七固定機銃︵後に[[九七式七粍七固定機銃|九七式固定機銃]]︶として国産化したものであった。7.7mm機銃を機首上部に配置したので、操縦席の正面パネルは計器類を下に寄せたレイアウトとなっている。 [[ファイル:Navy Type 99-1 & 99-2.JPG|thumb|250px|九九式一号二〇粍機銃(上)、九九式二号二〇粍機銃(下)]]
零戦搭載の20mm機銃は、[[エリコンFF 20 mm 機関砲|エリコンFF]]をライセンス生産した九九式一号銃、FFLをライセンス生産した九九式二号銃および両者の改良型であった。初速は一号銃 (FF) が600[[メートル毎秒|m/s]]、二号銃 (FFL) が750m/sであり、携行弾数は60発ドラム給弾︵九九式一号一型・一一型 - 三二型搭載︶/100発大型ドラム弾倉︵九九式一号三型または九九式二号三型・二一型 - 五二型搭載︶/125発ベルト給弾︵九九式二号四型・五二甲型以降搭載︶となっていた。 [[ファイル:20mmvs7mm.png|thumb|250px|7.7mm機銃と20mm機銃(1号銃)の弾道]]
20mm機銃は大型機対策として搭載したものだが、防御力が高くて7.7mm機銃では効果の薄いF4Fにも有効であり、空戦でも活躍したことは多くの搭乗員が認めている。しかし、携行弾数60発︵初期型︶を二斉射で全弾消費するパイロットもおり、多数のF4Fを相手にする際は弾数が不足しがちであった{{sfn|軍艦加賀|1942|p=8|ps=. - ﹁20mm機銃の携帯弾数は不足にして一銃少なくとも100発を要するものと認む﹂}}。他にも7.7mm機銃との弾道の違い、旋回による発射G制限などが欠点として指摘されている。これに対応して携行弾数を増加させる改修が施されている。大戦中盤からは一号銃から銃身を長くして破壊力を上げた二号銃が搭載されるようになった。 九九式一号銃の初速では、弾丸の信管の不具合もあって[[B-17 (航空機)|B-17フライングフォートレス]]の防弾板を至近距離でなければ貫通できないことを海軍鹵獲の実物で確認したので、高初速の二号銃の採用で弾道、貫通力が改善し、先行して信管の改良も実施した。 110 ⟶ 118行目:
20mm機銃は威力を活かして重装甲のB-17やF4Fを数発で撃墜し、米軍に脅威を与えた。しかし﹁照準が難しく、修正しているうちに弾がなくなる﹂ため、戦闘機との格闘戦においては使い難いという欠点があり、用兵側は一号銃に不満をもっていた。威力に関しても、[[F6F (航空機)|F6F]]など防御力が向上した戦闘機が登場したこともあり、[[ミッドウェー海戦]]で沈んだ空母﹁[[加賀 (空母)|加賀]]﹂の直掩隊は、さらなる威力増大を求めている{{sfn|軍艦加賀|1942|p=19|ps=. - ﹁20mm機銃携行弾数及弾丸威力を更に増大するの要を痛感す﹂}}。 [[ファイル:三式13.2mm機銃.jpg|thumb|250px|[[大和ミュージアム]]に展示される三式13.2mm機銃]]
大戦後期にアメリカ軍が12.7mm機関銃6 - 8門を装備したF6Fや[[P-51 (航空機)|P-51]]を投入してくると、機首の九七式7.7mm機銃2挺に替えて、[[三式十三粍固定機銃|三式13.2mm機銃]]を1 - 3挺︵機首1、翼内2︶搭載した型も登場した。 121 ⟶ 129行目:
;通信装置
[[ファイル:Cockpit of Mitsubishi A6M Zero.jpg|
零戦には前作の九六式艦戦同様に無線電話・電信機が装備され、当初は[[九六式空一号無線電話機]]︵対地通信距離100km、電信電話共用︶を搭載していた。ミッドウェー海戦の戦訓は﹁直衛機は電話を工用し、制空隊・直衛隊の電波を同一となすの要あるものと認む﹂と述べている{{sfn|軍艦加賀|1942|p=19、49}}。大戦後半はより高性能の[[三式空一号無線電話機]]︵対地通信距離185km、電信電話共用︶に変更している。アメリカ軍は、アリューシャンで鹵獲した二一型に装備されていた九六式空一号無線電話機を軽量化のため最小限の装置だけを搭載していると評価し、マリアナで鹵獲した五二型に装備されていた三式空一号無線電話機を﹁自軍無線機に匹敵する性能をもつ﹂と評価した。ただし﹁取付方法や防湿対策に問題がある﹂とも評価していた。事実、高度や気温で不調となることが多く信頼性が低いので、軽量化目的で無線機︵約40kg︶を下ろすベテランもおり、現場では手信号が多用された。 138 ⟶ 146行目:
零戦の格闘性能は、後継機にも影響を与えた。[[烈風]]︵当時は十七試艦戦︶の研究会において、[[花本清登]]少佐︵横須賀航空隊戦闘機隊長︶は実戦で零戦が敵を制しているのは速度だけではなく格闘性能が優れているためで、次期艦戦でも速度をある程度犠牲にしても格闘性能の高さに直結する翼面荷重を低くすべきと主張し、空技廠飛行実験部の[[小林淑人]]中佐もこれを支持している{{sfn|柳田|1984|pp=441–445}}。 ;横転性能
本庄季郎技師の研究による「軽くて効きが良い」弦長比の小さい舵が補助翼(エルロン)にも採用されている<ref>グリーンアロー出版 大いなる零戦の栄光と苦悩 秋本実 P20</ref>。補助翼は昇降舵や方向舵より操作が軽い事が求められるが<ref>日本航空技術協会 飛行力学の実際 内藤子生 P124</ref>、固定脚の九六艦戦に比べ飛行する速度域が急降下を含め拡大しており、全域で満足な舵を得るのが難しくなっていた。操縦者の見解は厳しく、堀越自身も「本機は翼幅が12mと大きく低速で十分な横揺れ加速度が得られず、中速度以上では重過ぎて効き不足だった」と書いている<ref name=":0">学研M文庫 零戦 堀越二郎 奥宮正武 P168</ref>。後に空技廠の提案で高速時の操舵を軽くできる[[タブ (航空機)|バランスタブ]]を補助翼後縁に追加し<ref name=":0" />、高速/空戦時の横転性能改善を確認したが、低速で舵が軽くなり過ぎる欠点を併発<ref>国書刊行会 三菱海軍戦闘機設計の真実 曽根嘉年技師の秘蔵レポート 杉田親美 P158~159</ref>。さらに1941年4月に発生した下川大尉の空中分解で事故原因としてバランスタブが疑われ、後に直接関係がない事が判明するも<ref>学研M文庫 零戦 堀越二郎 奥宮正武 P268</ref>バランスタブは廃止された。三二型は主翼幅を11mに減じ、さらに補助翼内端を約20cm削って補助翼面積が減少したが操舵が軽くなり横転性能は向上した<ref>学研M文庫 零戦 堀越二郎 奥宮正武 P274 P280</ref>。なおフラップと補助翼の間にはどちらでもない固定部が20cm残った<ref>グリーンアロー出版 大いなる零戦の栄光と苦悩 秋本実 P45</ref>。二二型は主翼幅、補助翼幅とも二一型と同じに戻されたがバランスタブが復活<ref>グリーンアロー出版 大いなる零戦の栄光と苦悩 秋本実 P49</ref>。五二型で再び翼幅11mとし三二型と同じく補助翼内端が削られたがフラップが延長され固定部は無い。翼端を丸めた分、三二型より補助翼面積が減り、バランスタブが再び廃止されている<ref>グリーンアロー出版 大いなる零戦の栄光と苦悩 秋本実 P54</ref>。五二型試作機の試験飛行は横須賀航空隊にいた[[本田稔]]が担当し、最終仕上げに尽力したという<ref>双葉社 最後のゼロファイター 井上和彦 第二章「零戦52型」生みの親</ref>。
零戦が採用した金属骨組みに羽布張りの補助翼は軽量化で有利となる反面、高速で舵角を取ると骨と骨の間の羽布面が風圧でたわみ、舵軸から遠い後縁ほど角度が急になる。これは操舵を軽くするバランスタブと逆の効果を産み、舵を押し戻すので操舵が重くなる。スピットファイアがV型で採用した金属外皮の補助翼は変形せず高速域で良く効いたという。<ref>朝日ソノラマ 編隊飛行J・E・ジョンソン P98</ref><ref group="注釈">﹁私たちの見るところ、スピットファイア2型と5型の最も重要な違いは、前者のエルロンが羽布張りなのに対し、後者のそれは金属製に改良されている点にあった。空中に上がると、このことが性能におよぼす違いは極めてはっきりしていた。操縦桿の重かったのが軽くなり、高速での横転の速さは2倍以上になった﹂ 「新しいエルロンの形と寸法は羽布張りのものと全く同じだったので、もし手に入りさえすれば、それを私たちが現在使っているスピットに取りつけていけない技術的理由は何もなかった。」</ref>
;速力
軽量化のため、500 km/h (270kt) 超の最高速度。急降下に弱いのは徹底した軽量化により機体強度の限界が低く、初期型の急降下制限速度は、F4Fなどの米軍機よりも低い629.7 km/h (340kt) であった。試作二号機や二一型百四十号機と百三十五号機が急降下試験の際に空中分解事故を起しており、原因解析の結果を受けて、以降の量産機では、主翼桁のシャープコーナーの修正・昇降舵マスバランスの補強・主翼外板厚の増加などの対策が施され、急降下性能の改善が図られた{{sfn|柳田|1977}}。五二型以降では更に外板厚増加などの補強が行われ、急降下制限速度は740.8 km/h (400kt) まで引き上げられている。 156 ⟶ 170行目:
== 歴史 ==
=== 十二試艦上戦闘機 ===
零戦の仕様は「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている{{sfn|学研|2001|p=106}}。
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[[1938年]]︵昭和13年︶1月17日、十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で、日中戦争から帰還した第二連合航空隊航空参謀[[源田実]]少佐が飛行機隊の集団使用、遠距離進出などの新境地を開拓した経験から実戦での九六式艦戦や九五式艦戦の働きを説明して格闘性能と航続距離の必要を訴える{{sfn|堀越・奥宮|2007|pp=156–157}}{{sfn|堀越|1970|p=56}}。 [[ファイル:The design team for the Zero fighter.png| 1938年4月10日、三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した[[堀越二郎]]は、3日後︵4月13日︶に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において、格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。すると横須賀航空隊飛行隊長の[[源田実]]には日中戦争の実戦体験から﹁どれも基準を満たしてもらわなければ困るがあえて挙げるなら格闘性能︵空戦性能︶、そのための他の若干の犠牲は仕方ない﹂と返答された。一方で、航空廠実験部の[[柴田武雄]]には実地経験から﹁攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し、格闘性能は搭乗員の腕で補う﹂と返答された。どちらも平行線ながら正論であり、堀越は真剣な両者の期待に応えることにした{{sfn|堀越・奥宮|2007|p=145}}{{sfn|堀越|1970|pp=79–82}}。 200 ⟶ 214行目:
=== 太平洋戦争開始前の日中戦争(支那事変) ===
[[ファイル:Zero 11 on China.JPG|thumb|
[[1940年]]︵昭和15年︶7月15日、大陸戦線︵[[日中戦争|中国戦線]]︶にて101号作戦のため、第二連合航空隊に[[横山保]]大尉と[[進藤三郎]]大尉率いる零戦13機が進出した。零戦はまだ実用試験中のものであり、全力空中戦闘をするとシリンダーが過熱し焼け付くおそれがあった。また、Gが大きくなると脚が飛び出すこと、同様にGがかかると20mm機銃が射撃できなくなる点が未解決のままであった。これらの問題に対して、技術廠から飛行機部の[[高山捷一]]技術大尉、発動機部の[[永野治]]技術大尉が解決にあたり、技術者、整備員、搭乗員が一体となって解決した{{sfn|防衛庁|1975|p=156}}。 零戦の最初の出撃は8月19日の[[九六式陸上攻撃機]]護衛任務だったが、あいにく会敵しなかった{{sfn|牧島|2001|p=113}}。翌日にも伊藤俊隆大尉指揮のもと出撃したが会敵せず、悪天候のため出撃は翌月に延ばされた。第1回出撃時に燃料補給のため[[宜昌市|宜昌]]飛行場に着陸する際、1機︵藤原喜平二空曹︶が着陸に失敗し転覆。これが事実上最初の喪失となった。 [[9月12日]]、ようやく三度目の出撃となり、重慶上空に1時間も留まったが、これも会敵しなかった。基地に戻ると、敵は交戦を避け、去った後に大編隊を飛ばせて日本軍機を追い払っているように見せているということが判明した{{sfn|神立|2004|p=304}}。進藤大尉はこれを逆手に取り、翌日再び出撃、ようやく敵機の大編隊と遭遇した。相手は日本機を初撃墜した国民党空軍の精鋭である第四大隊︵志航大隊、指揮官・鄭少愚少校︶、および第三大隊率いるアメリカ・ソ連・国民党の戦闘機34機︵[[I-15 (航空機)|I-15]]×19、[[I-16 (航空機)|I-16]]×15、I-15、I-16とも初飛行が1933年で、零戦より旧式機︶で、うち1機がこの直前急激な発進による故障のため帰還しており実際に戦闘に参加したのは33機である。初陣で動揺していた日本軍とは対照的に、経験豊富だった国民党軍は奇襲で撃墜されてもすぐさま編隊を立て直し奥地へ誘い込もうとしたが、やがてスピード・火力ともに優れた新鋭機の前に圧倒され次々と撃墜されていった{{sfn|神立|2004|p=298}}。 214 ⟶ 228行目:
=== 太平洋戦争緒戦 ===
[[ファイル:A6M2 Cockpit.jpg|thumb|250px|零戦二一型の操縦席]]
[[ファイル:Zero Akagi Dec1941.jpg|thumb|
[[ファイル:AkutanZero1.jpg|thumb|250px|1942年7月、[[アリューシャン列島]]アクタン島で鹵獲された零戦二一型 (A6M2b)]]
[[ファイル:A6M3 Type32 Tainan Kokutai V174.jpg|thumb|
[[ファイル:Aircraft prepare to launch from Japanese carrier Shōkaku during Battle of the Santa Cruz Islands, 26 October 1942 (80-G-176150).jpg|thumb|250px|1942年10月26日、[[南太平洋海戦]]において九九艦爆と共に空母[[翔鶴 (空母)|翔鶴]]からの発艦に備える零戦二一型 (A6M2b)]]
[[ファイル:Mitsubishi A6M2 takes off from Japanese carrier Shōkaku during the Battle of the Santa Cruz Islands, 26 October 1942.jpg|thumb|
[[ファイル:A6M taking off from aircraft carrier.jpg|thumb| 太平洋戦争の中期まで、空戦性能において優越する零戦を装備した日本海軍航空隊は、グラマン[[F4F (航空機)|F4Fワイルドキャット]]やカーチス[[P-40 (航空機)|P-40]]などを装備する連合国軍に対して優勢だった{{sfn|秋本|1995|pp=118–156}}{{sfn|加藤|1991|p=68}}。また、零戦は約2200キロの航続距離をもっていた︵当時連合軍の戦闘機が[[ロンドン]]と[[ベルリン]]間︵片道約900キロ︶を飛行し空戦を実施して帰還することは困難であった︶{{sfn|ケイディン|1971|p=36}}。零戦は太平洋戦争初期に連合軍航空兵力の主力を撃破した。その空戦性能と長大な航続距離によって、連合軍将兵の心の中に零戦に対する恐怖心を植え付けた{{sfn|ケイディン|1971|p=37}}。 228 ⟶ 242行目:
対アメリカ戦の始まりとなった[[真珠湾攻撃]]は奇襲であったため[[アメリカ軍]]戦闘機との空戦の機会の少なかった零戦は主に飛行場へ機銃掃射をおこなった。その直後のフィリピン爆撃では台湾から出撃する陸攻隊を掩護しフィリピンを攻撃するという当時の単座戦闘機としては例の無い長距離作戦を成功させ、植民地フィリピン駐留の[[アメリカ陸軍]]航空隊を制圧した。南太平洋においても[[ラバウル]]から[[ガダルカナル島]]や[[ニューギニア島|ニューギニア]]への攻撃に活躍した。 太平洋戦争初期の1942年(昭和17年)3月までのアメリカ陸軍航空部隊のジャワ作戦での消耗と零戦隊の優勢、同部隊のオーストラリアへの撤収があった{{sfn|ケイディン|1967|pp=270–274}}。ラエ基地では1942年(昭和17年)の5・6・7月の間、ほとんど連日空戦があったという。ラエの零戦隊は連日奮戦していた。彼我の機数では零戦隊が劣勢であった{{sfn|加藤|1991|p=74}}。ラエ基地からは、ニューギニアにおける連合軍の拠点ポートモレスビーに爆撃に向かう[[一式陸上攻撃機]]の護衛任務として出撃を繰り返しており、迎撃してきた[[アメリカ陸軍航空隊]]とオーストラリア軍の[[P-39 (航空機)|P-39]]との空戦となった。P-39はこれまで主に[[ソビエト連邦]]へ[[レンドリース法|レンドリース]]されていたが、ドイツ空軍の[[メッサーシュミット Bf109]]や[[フォッケウルフ Fw190]]と互角以上に戦い、多くのエースパイロットを生み出し、エリート部隊の第153親衛戦闘機連隊のわずか20機のP-39は、2か月の間に45機のドイツ軍戦闘機と18機の爆撃機を撃墜し、損失はたったの8機という大活躍をしていた<ref>{{Cite web |url=https://nationalinterest.org/blog/reboot/p-39-airacobra-world-war-ii-fighter-plane-russia-loved-battle-209600 |title=P-39 Airacobra: The World War II Fighter Plane Russia Loved in Battle|publisher=National Interest |accessdate=2024-3-16}}</ref>。
しかし、零戦の搭乗員から見ると組み易いという印象で、「大空のサムライ」こと[[坂井三郎]]によれば、その性能は芳しいものではなかったという評価であり、初の[[ポートモレスビー]]への爆撃機護衛任務で一撃で2機のP-39を撃墜している<ref>{{Harvnb|坂井三郎|2003|p=277}}</ref>。また、坂井の上官である「ラバウルの貴公子」こと[[笹井醇一]]中尉もポートモレスビー上空において、1列縦隊で飛行するP-39の3機編隊を[[三段跳|三段跳び]]をするように次々と撃墜したこともあった<ref>{{Harvnb|坂井三郎|2003|p=354}}</ref>。
1942年5月8日には人類史上初の空母同士の海戦となった[[珊瑚海海戦]]が ﹁1942年︵昭和17年︶6月におこなわれたミッドウエー海戦における米陸海軍戦闘機への零戦の優勢﹂{{sfn|ケイディン|1967|p=336}}。﹁当時ブリュースター・[[F2A (航空機)|バッファロー]] とグラマン[[F4F]]ワイルドキャットが使用されていた﹂{{sfn|ケイディン|1967|p=322}}。 243 ⟶ 257行目:
=== 零戦鹵獲と大戦中期 ===
[[ファイル:Mitsubishi A6M2 NASA GPN-2000-001245.jpg|thumb|
[[ファイル:Spitfire versus Zero.jpg|thumb|250px|1943年2月、ポートダーウィン空襲の際の連合国側新聞]]
[[ファイル:A6M3 Munda 1943.jpg|thumb|250px|1943年9月、占領されたニュージョージア島ムンダ飛行場に放棄された零戦三二型 (A6M3) の残骸]]
[[1942年]]︵昭和17年︶6月、アメリカ軍は[[アリューシャン列島]]の[[ダッチハーバー]]に近い[[アクタン島]]の沼地に不時着した零戦︵[[アクタン・ゼロ]]<ref group="注釈">搭乗員の古賀忠義一飛曹は頭部を強打して死亡していた。</ref>︶をほぼ無傷で鹵獲することに成功した。この機体の徹底的な研究によって、零戦が優れた旋回性能と上昇性能、航続性能をもつ一方で、高速時の横転性能や急降下性能に問題があること<ref group="注釈">珊瑚海海戦で急降下からの引き起こしで分解する零戦をF4Fのパイロットは目撃し、零戦の急降下性能が低いことをすでに知られていた。</ref>が明らかとなり、アメリカ軍は﹁零戦と格闘戦をしてはならない﹂﹁背後を取れない場合は時速300マイル以下で、ゼロと空戦をしてはならない﹂﹁上昇する零戦を追尾してはならない﹂という﹁三つのネバー (Never)﹂と呼ばれる勧告を、零戦との空戦が予想される全てのパイロットに対して行った。 不要な装備を除き、なるべく機体を軽くするように指示した{{sfn|堀越|1995|pp=107–108}}。弱点を衝いた対抗策として優位高度からの[[一撃離脱戦法]]と﹁[[サッチウィーブ]]﹂と呼ばれる編隊空戦法がアメリカ軍に広く普及することになった。一撃離脱戦法とサッチウィーブが徹底された1942年年間の零戦とF4Fのキルレシオは1‥5.9とされたが、上述のようにアメリカ軍の公式撃墜数と被撃墜数を合わせたものであり、裏付けは取れていない。 253 ⟶ 267行目:
1942年12月までには[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]を含む英陸軍航空部隊は、西南太平洋戦域で零戦によって壊滅されていた{{sfn|ケイディン|1967|pp=238–262}}。{{See also|日本のオーストラリア空襲}} [[1943年]]︵昭和18年︶にオーストラリアの[[ダーウィン (ノーザンテリトリー)|ダーウィン]]で[[スーパーマリン スピットファイア|スピットファイア]]Mk.Vとの戦闘が数度生起している。この一連の戦闘では、一式陸攻を援護して単発機の限界に近い長距離を進攻する零戦隊を、自隊の基地近くで待ち伏せし迎撃するというスピットファイアMk.V隊に有利な状況であったが、零戦隊が優勢に戦っている。正確な日程は不明だが、ダーウィン上空の空戦で、スピットファイアの損失17対し零戦の損失はわずか2機という一方的な勝利も記録されている。この結果に対してフライングタイガーズの司令官だったクレア・シェンノート将軍は﹁英空軍の戦術はカルワザ的な日本軍に対しては自殺行為だった﹂と発言している{{sfn|ケイディン|1971|p=151}}。戦闘は一般に零戦有利といわれる低空に限らず高高度でも行われ、当初格闘戦であったスピットファイア隊の戦闘スタイルも一撃離脱へと切り替えられたが、最後まで零戦隊の優勢は変わらなかった。[[バトル・オブ・ブリテン]]でドイツ空軍戦闘機を圧倒し、﹁英国を救った戦闘機﹂などとも称されたスピットファイアですらも{{sfn|ベダー|1986|p=1}}、零戦相手には苦戦を強いられた。 ジョン・ベダー著﹃スピットファイア﹄によると、初期の戦闘においては大きな差はなかったものの、次第に零戦が優位に変わり、スピットファイアには燃料切れやエンジントラブルで帰投できない機体が相次いだという。また、豪英空軍の証言として﹁エンジンの出力低下が激しかった﹂﹁機関砲が凍結した﹂などがあり、スピットファイアが南太平洋の環境に適応できず、次第に劣化していったと記載されている{{sfn|ベダー|1986|pp=147, 150, 151}}。 270 ⟶ 284行目:
=== 大戦末期 ===
[[ファイル:USS White Plains attack by Tokkotai unit 25.10.1945 kk1a.jpg|thumb|
[[ファイル:Mitsubishi A6M kamikaze attacking USS Enterprise (CV-6) 1945.jpg|thumb| 零戦の実用化に目処が立った頃、海軍は三菱に十四試局地戦闘機︵J2M1。後の雷電︶の開発を指示している。しかし、試算により十四試局戦の性能が今ひとつであることが判明すると、より大馬力の発動機に換装した十四試局戦改/試製雷電 (J2M2) の開発を三菱に命じ、これを次期主力戦闘機︵艦上戦闘機ではない︶として零戦の減産と雷電の大増産計画を立てる一方、同じ頃に川西が提案してきた十五試水上戦闘機 (N1K1) の局地戦闘機化︵後の紫電一一型、紫電二一型︵紫電改︶︶を許可している。しかし、雷電が数々のトラブルで早期戦力化が不可能、紫電一一型・二一型の実用化はまだ先という状況になったことから、この両機種の代替として零戦の武装・防弾の強化及び高速化に泥縄的に取り組まざるを得なくなってしまった。そのため、アメリカ軍が投入した新鋭戦闘機[[F6F (航空機)|F6Fヘルキャット]]や[[F4U (航空機)|F4Uコルセア]]などに対して零戦は劣勢を強いられていたが、雷電や[[烈風]]など零戦の後継機の開発に遅れた日本海軍は零戦の僅かな性能向上型<ref group="注釈">武装強化や防弾装備の追加等を行ったが、その重量増加に見合う発動機出力の向上ができなかったため、最高速度や上昇力などの飛行性能を大幅に向上させることができなかった。</ref>でこれらに対抗せざるを得なかった。 283 ⟶ 298行目:
その後、美濃部は夜間戦闘機部隊﹁[[芙蓉部隊]]﹂の指揮官となり、重武装、重装甲型の[[零式艦上戦闘機の派生型#零戦五二型系統|零戦五二丙型]]型が配備されたが<ref>{{Harvnb|吉野泰貴|2012|p=66}}</ref>、ここでも美濃部は、空戦の訓練を一切行わせず、芙蓉部隊の戦闘機搭乗員は空戦技術をほとんどもたなかった。この美濃部の方針によって、[[坊ノ岬沖海戦|戦艦大和による海上特攻]]の際には、[[第五航空艦隊]]司令部からの戦艦[[大和 (戦艦)|大和]]の護衛要請を、多数の零戦を擁していたのにも拒否している<ref>{{Harvnb|境克彦|2017|p=314}}</ref>。[[沖縄戦]]で美濃部は、1945年4月下旬より芙蓉部隊の零戦をアメリカ軍飛行場への機銃掃射に投入したが<ref group="注釈">戦闘三一六飛行隊では零戦を爆装させて、戦爆による夜襲や特攻による運用を検討していた美濃部であったが、芙蓉部隊においては原則零戦には爆装させず機銃掃射による攻撃を行わせていた。</ref>、アメリカ軍の激烈な対空砲火で、戦果はなかったのにもかかわらず損害が続出したので、まもなく任務継続不可能となり<ref>{{Harvnb|渡辺洋二|2003|p=201}}</ref>、早くも5月5日以降には艦船や潜水艦を発見したら銃撃するという索敵攻撃任務に回している<ref>{{Harvnb|吉野泰貴|2012|p=131}}</ref>。しかし、夜間戦闘機隊と称しても芙蓉部隊の零戦に夜間戦闘用の装備はなかったので、その後も芙蓉部隊の零戦夜戦隊はめぼしい戦果のないまま、夜間戦闘の装備が充実していたアメリカ軍の対空砲火や夜間戦闘機に撃墜されて損害が積み重なり、空戦では1機の撃墜戦果もなかったのに対し{{sfn|芙蓉部隊天号作戦々史|1945}}、1945年5月15日までに戦闘内外で零戦39機を失い{{sfn|芙蓉部隊|1945}}、搭乗員の戦死率も60%と非常な高率となった<ref>{{Harvnb|美濃部正|2017|p=354}}</ref>。このように大戦初期から中期には見られなかった零戦の大きな損害が見られるようになっていく。 零戦によるアメリカ軍飛行場攻撃で大きな戦果を挙げた例もある。[[第二五二海軍航空隊]]で編成された﹁第1御盾隊﹂の12機の零戦は{{efn|硫黄島に派遣されていた兵器員、杉本寅夫︵二五二空、戦闘三一七飛行隊︶によると五二型の新品で武装は13ミリ機銃5梃︵両翼各2梃、胴体1梃︶、20ミリは装備しておらず、現地にて製造番号、日の丸とも真っ黒に塗り潰されたという<ref>光人社NF文庫 零戦よもやま物語
P209~P211</ref>}}、1944年11月27日に[[硫黄島 (東京都)|硫黄島]]から出撃し、[[彩雲 (航空機)|偵察機﹁彩雲﹂]] 2機の誘導で、B-29が展開する[[サイパン島]]の[[アスリート飛行場|イズリー飛行場]]を襲撃した{{Sfn|土井全二郎|2000|p=119}}。奇襲は成功し、午前10時40分から、零戦は地上に並んでいたB-29を3度にもわたって徹底的に機銃掃射し、4機爆破炎上、6機大破、23機損傷という大戦果を挙げている。零戦は最後まで攻撃を続け、激しい対空砲火と迎撃してきた[[P-47 (航空機)|P-47]]に撃墜され、1機だけが生還したが、不時着基地として指定されていた[[パガン島]]に到達したとき、執拗に追跡してきたP-47に撃墜され全滅した{{Sfn|土井全二郎|2000|p=125}}。 零戦戦爆がアメリカ軍機動部隊に通用しないのは明らかであったが<ref>{{Harvnb|野原|2017|p=121}}</ref>、日本軍は[[捷号作戦|捷一号作戦]]の作戦準備として、[[フィリピン]]において零戦戦爆に[[反跳爆撃]]の訓練を行わせていた。しかし、[[ダバオ誤報事件]]で零戦を多数損失すると、もはや戦爆での運用は困難となり<ref>{{Harvnb|戦史叢書37|1970|p=165}}</ref>、やがて[[フィリピンの戦い (1944-1945年)|フィリピンに連合軍が侵攻]]してくると、[[関行男]]大尉ら戦爆として訓練していた零戦搭乗員によって、1944年10月20日最初の[[神風特別攻撃隊]]が編成され、それ以降も終戦まで零戦は[[特別攻撃隊]]に使用された。フィリピンの戦いや[[硫黄島の戦い]]で零戦は、[[護衛空母]]﹁[[セント・ロー (護衛空母)|セント・ロー]]﹂や﹁[[ビスマーク・シー (護衛空母)|ビスマーク・シー]]﹂の撃沈を含めて、多数のアメリカ軍艦船を撃沈破するといった戦果を挙げている。[[沖縄戦]]では、特別攻撃隊に対応してさらに強化された連合国軍の警戒網を突破するために日本陸軍側も戦術を工夫して突入を成功させ、零戦の特攻による確実な戦果としては、空母﹁[[エンタープライズ (CV-6)|エンタープライズ]]﹂や﹁[[バンカーヒル (空母)|バンカーヒル]]﹂を大破炎上させ アメリカ軍に占領された[[マリアナ諸島]]からは、新型爆撃機[[ボーイング]][[B-29 (航空機)|B-29]]が日本本土に来襲し、[[日本本土空襲]]が激化した。海上からも日本本土に接近した連合軍機動部隊の艦載機が来襲したので、それらを迎撃する日本本土の各航空隊に零戦は配備されたが、性能の劣後は明らかになっており、迎撃戦の主力は海軍は雷電、紫電改、陸軍は[[三式戦闘機]]、[[四式戦闘機]]、[[五式戦闘機]]などとなっていった。 296 ⟶ 312行目:
=== 戦後 ===
[[file:Mitsubishi A6M6C Zero 2.jpg|thumb|
[[file:2017RedBullAirRaceChibaMitsubishiA6MZero.jpg|thumb|
終戦時に残存していた零戦は1,166機であり<ref>{{Harvnb|神立|大島|2015|p=335}}</ref>、これは日本軍航空機では[[九三式中間練習機]]に次ぐ機数であった。残った零戦は、イギリスやアメリカ、[[オーストラリア]]など連合国軍によりテスト用に持ち去られた分以外はすべて廃棄処分にされ、完全な形で日本に残っていた機体は少ないが、廃棄された機体や残骸から復元した機体が展示品として国内に複数存在する。 305 ⟶ 321行目:
[[2016年]]︵平成28年︶[[1月27日]]、ゼロエンタープライズ・ジャパンが﹁[https://www.zero-sen.jp/ 零戦里帰りプロジェクト]﹂で復元し、アメリカで登録した機体︵N553TT︶を[[海上自衛隊]]の[[鹿屋航空基地]]で試験飛行させた{{sfn|西日本新聞|2016}}{{sfn|読売新聞|2016}}。戦後の日本国内で、日本人所有の零戦が飛行するのは初{{sfn|ITmedia News|2016}}{{sfn|毎日新聞|2016}}。2017年には[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ]]の[[2017年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉|千葉大会]]でデモ飛行を行った{{sfn|SankeiNews|2017}}。 {{-}}
== 諸元 ==
[[ファイル:Mitsubishi A6M Zero drawing.svg|thumb|300px|零式艦上戦闘機二一型 (A6M2b) 三面図]]
{{航空機スペック・ヘッダー| 出典 = 野沢正 編著﹃日本航空機総集﹄1981年 {{sfn|野沢|1981|p=189}}。}} {| class="wikitable" align="none" cellpadding="5" style="background:#fff; text-align:center; font-size:smaller"
|-
!制式名称||零式艦上戦闘機二一型||零式艦上戦闘機五二型||零式艦上戦闘機五四型
334 ⟶ 351行目:
|2,421 kg||2,733 kg||3,150 kg
|-
![[翼面荷重]]<ref group="
|107.89 kg/m{{sup|2}}||128.31 kg/m{{sup|2}}||147.89 kg/m{{sup|2}}
|-
341 ⟶ 358行目:
|-
!最高速度
|533.4 km/h (288kt)<ref group="
|-
!上昇力
350 ⟶ 367行目:
|-
!航続距離
|巡航3,350 km︵増槽あり︶<br/>巡航2,222 km︵正規︶<br/>全速30分+2,530 km︵増槽あり︶<br/>全速30分+1,433 km︵正規︶||全力30分+2,560 km︵増槽あり︶<br/>1,921 km︵正規︶||全力30分+1200 km︵増槽あり︶<ref group=" |-
!武装
|翼内[[九九式二〇ミリ機銃]]2挺︵携行弾数各60発︶<ref group=" |-
!爆装
361 ⟶ 378行目:
|1940年7月||1943年4月||1945年4月
|}
{{reflist|group="
{{main|零式艦上戦闘機の派生型}}
== 型の変遷 ==
{| class="wikitable" align="none" cellpadding="5" style="background:#fff; text-align:center; font-size:smaller"
|+ 派生型
!発動機!!colspan="11"|型式!!主翼
|-
!rowspan="2"|栄一二
|style="background-color:#ddf;|一一||colspan="10"| ||翼端折り畳みなし
|-
|└→||style="background-color:#ddf;|二一||colspan="4"|→||colspan="2" style="background-color:#ddf; |四一(計画のみ)||colspan="3"| ||翼端折り畳みあり
|-
!rowspan="2"|栄二一
|style="border-right:none"|
|style="border-left:none"|└→||style="background-color:#ddf;|三二||colspan="8"| ||翼端切落し(角型)
|-
|colspan="2" style="border-right:none"|
|style="border-left:none"|└→||style="background-color:#ddf;|二二||style="background-color:#ddf;|二二甲||colspan="6"| ||翼端折り畳みあり
|-
!栄二一<br/>栄三一甲<br/>栄三一乙
|colspan="4" style="border-right:none"|
|style="border-left:none"|└→||style="background-color:#ddf;|五二||style="background-color:#ddf;|五二甲||style="background-color:#ddf;|五二乙||style="background-color:#ddf;|五二丙||→||style="background-color:#ddf;|六二||rowspan="3"|翼端切り落とし(丸型)
|-
!栄三一
|colspan="8" style="border-right:none"|
|style="border-left:none"|├→||style="background-color:#ddf;|五三丙||style="background-color:#ddf;|六三
|-
!金星六二
|colspan="8" style="border-right:none"|
|style="border-left:none"|└→||style="background-color:#ddf;|五四||style="background-color:#ddf;|六四
|-
!rowspan="5"|装備
421 ⟶ 438行目:
! style="width:5%;"|二二型
! style="width:5%;"|五二型
! style="width:5%;"|五二
! style="width:5%;"|五二
! style="width:5%;"|六二型
! style="width:5%;"|五四丙型
! style="width:5%;"|二一型
! style="width:5%;"|五二型
! style="width:5%;"|五二
|-
|1940.5||5機||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-||-
558 ⟶ 575行目:
|}
注1:中島製五二型には五二
注2:1942年2月の三菱製三二型4機は同年2 - 4月の合計数<br/>
注3:1944年4月の中島製二一型111機は同年4 - 5月の合計数<br/>
注4:1945年4月 - 5月の三菱製五四丙型2機は試作機
</div>
</div></div>
== 塗装 ==
帝国海軍において塗装は「塗粧」と呼称されていたが、本項ではより一般的な「塗装」として表記する。
610 ⟶ 628行目:
||[[ファイル:Mitsubishi_Zero-Tokyo-NSM.jpg|180px]]
||科博廣澤航空博物館
||
||静態展示
||53-122/中島 31870(主要部品)
||1943年5月頃より、[[ラバウル航空隊]]に属する航空隊が順次撤退していたが、そのうち最後まで残り撤退した航空隊の武器や人員を受け入れていた[[第二五三海軍航空隊|二五三空]]が[[ラバウル海軍工廠|ラバウル工廠]]で偵察用に改造した複座機。[[吉澤徳重]]上飛曹の乗機だったが、1945年1月9日、ラバウル北西ニューブリテン島ランバート岬沖約250m地点で撃墜され、水深8mの海底に沈んでいた。[[1972年]]︵昭和47年︶に引き上げられ、復元された後に[[国立科学博物館]]へ寄贈された{{sfn|国立科学博物館 理工学研究部 電子図書館}}︵日大教授による︶。2020年7月まで国立科学博物館で展示されていたが、[[ザ・ヒロサワ・シティ#科博廣澤航空博物館|科博廣澤航空博物館]]に移設され、 |-
|二一型
633 ⟶ 651行目:
|二一型
||[[ファイル:Hokoku-515 a6m zero.jpg|180px]]ガダルカナル時の写真<br/>上 : 主翼<br />中 : 胴体後部<br />下 : 報国号の表記
||零式一号艦上戦闘機 二型 三菱
||月一度公開
||静態展示
647 ⟶ 665行目:
||マーシャル諸島タロア島で残骸が発見され、現地所有者より買い取った[[中日本航空|福岡航空宇宙協会が中日本航空]]で修復して[[2004年]]︵平成16年︶まで[[名古屋飛行場|名古屋空港]]航空宇宙館に展示していた機体。 福岡航空宇宙協会の所有物であったが現在は筑前町に寄贈され左記施設に展示されている。
|-▼
|二二型▼
||[[ファイル:零式艦上戦闘機 二二型 AI-112.jpg|180px]]<br/>分割した状態<br/>▼
[[ファイル:2017RedBullAirRaceChibaMitsubishiA6MZero.jpg|180px]]<br />[[2017年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉|レッドブル・エアレース<br/>千葉]]で飛行する<br/>零戦二二型<br/>▼
||公開▼
||飛行可能▼
||(AI-112)/中島 3858▼
||1970年代にパプアニューギニア・[[ラバウル]]近郊で[[:en:Museum of Flying|サンタモニカ航空博物館]]によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシア・[[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコヴレフ社]]で新造して復元された飛行可能な3機のうちの3つ目。エンジンはP&W R-1830。米映画『[[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]]』などに使用され、アメリカ人パイロットが所有していたが、後に[[THE FEW]]を経営する石塚政秀が購入した。2010年に日本への「零戦里帰りプロジェクト」を設立したものの、日米両国「武器輸入」の通関問題や、それまでの維持費の資金難などで紆余曲折した末、100人以上の協力と資金援助を受けて、2014年11月に帰国が実現し、同月21日から24日の4日間、[[さいたまスーパーアリーナ|埼玉スーパーアリーナ]]にて分解状態のままで一般公開された後2015年内までに組立が完了し、翌年1月27日に本機の国内初飛行を実施{{sfn|BIGLOBEニュース編集部|2016}}。2017年に千葉県で開催された[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ|エアレース世界選手権]]にてデモフライトも行われた(このとき、[[機体記号]](N553TT)は米国籍のままである{{sfn|関|2016}}{{sfn|産経WEST|2016}})。国内での保存を計画していたが、維持費の捻出が難しくなったので売却を予定している<ref>{{Cite web |url=https://www.zero-sen.jp/information/20181213.html |title=零戦の大口支援者、購入希望者を探しています!!!! |date=2018-12-01 |archiveurl=https://archive.ph/bl1hQ |archivedate=2020-07-17 |accessdate=2021-08-14}}</ref>。▼
|-
|五二型
671 ⟶ 680行目:
||静態展示
||81-161/三菱 4240、?/三菱 4241(主翼と前部胴体の一部)
||1943年︵昭和18年︶11月に製造された初期の五二型。戦後ラバウルで連合軍の連絡機として使用されていた。1975年にラバウルから回収され[[河口湖自動車博物館・飛行舘]]館長の原田信夫 |-
|五二
||[[ファイル:零式艦上戦闘機52型.jpg|180px]]
||[[浜松広報館|航空自衛隊浜松基地浜松広報館]]
679 ⟶ 688行目:
||静態展示
||43-188/三菱 4685
||1944年︵昭和19年︶3月に三菱名古屋工場にて製造。同年[[グアム]]のアガナ (Agana) 飛行場において不時着・破損。そのまま放置されていた機体が1963年︵昭和38年︶に発見され日本へ搬送し復元されたもの<ref>{{Cite web |-
|五二甲型
687 ⟶ 696行目:
||静態展示
||/三菱 4708
||1975年にミクロネシアの[[ヤップ島]]から回収され、[[河口湖自動車博物館・飛行舘]]館長の原田信夫 |-
|五二甲型
695 ⟶ 704行目:
||静態展示
||三菱 ???? (二一型)<br/>中島 22383 (五二型丙)
||[[1992年]]︵平成4年︶に鹿児島県の錦江湾と吹上浜の海底から引き揚げられた二一型の末期生産型と五二丙型の2機を使用し、1機の五二甲型として復元した機体<ref>{{Cite web |-
|五二丙型
703 ⟶ 712行目:
||静態展示
||ヨD-127/中島 62343
||大戦末期の1945年︵昭和20年︶5月に鹿児島県[[甑島列島|甑島]]の手打港近海に没した機体。[[1980年]]︵昭和55年︶に知覧町︵当時︶によって引き上げられた。ほぼ海底から引き上げられたままの状態で主翼を含めた機体前部が展示されている。損傷が大きいためか六二型とされることもある<ref>{{Cite web |-
|六二型
711 ⟶ 720行目:
||静態展示
||210-118B/中島 82729
||終戦間際に[[琵琶湖]]へ不時着水し湖底に沈んでいた機体を[[1978年]]︵昭和53年︶に引き上げ、[[京都嵐山美術館]]が外観を修復した<ref>{{Cite web |url=https://onitama.tv/gamemachine/pdf/19780515p.pdf |title=Game Machine |accessdate=2019-06-08 |date=1978-05-15 |format=PDF |website=[https://onitama.tv/gamemachine/archive.html ゲームマシン アーカイブ - Game Machine Archive] |work=ゲームマシン 第96号 |page=4 |quote=よみがえる﹁ゼロ戦﹂}}</ref>後、和歌山市の白浜零パーク{{sfn|白浜御苑のZEROパーク}}{{sfn|嵐山美術館・零パーク}}で展示されていた。現在は[[呉市海事歴史科学館]]で展示されている<ref>{{Cite web |-
|}
743 ⟶ 752行目:
||公開
||静態展示
||中島 3471,4460,4461,4469,<br/>,EII-140/中島 5450(報国第1045號 内外印刷號)<ref name=one>{{Cite web
||カナダ人大戦機収集家のロバート・ディマート [http://www.pacificwrecks.com/people/restore/diemert/index.html] が[[バラレ島]]で収集した8機のパーツより復元された3機のうちの2機目(3機目は墜落事故で喪失)。
修復後塗り直されたが、後に2回塗替えされ現在の姿となった。
849 ⟶ 858行目:
||公開
||飛行可能
||X-133
||1970年代に[[パプアニューギニア]]で[[:en:Museum of Flying|サンタモニカ航空博物館]]によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代後半にロシアのストレラ・プロダクション・アソシエイツ社で新造して復元された、飛行可能な3機の零戦二二型の内の1機目。エンジンはP&W R-1830。飛行登録ナンバー:NX712Z。 所有者はアメリカ国内を中心に歴史的航空機を保存・再生し[[航空ショー|航空祭]]でそのデモフライトを行っている[[非営利団体|NPO]]である、記念空軍︵略称'''CAF'''︶である。同団体は他にも、[[T-6 (航空機・初代)|T-6 テキサン]]を改造して二一型に模したレプリカ機︵﹃[[トラ・トラ・トラ!]]﹄などの映画やドラマに出演している︶など保存している。 859 ⟶ 868行目:
||公開
||飛行可能
||UI-161/
||1970年代にパプアニューギニアで[[:en:Museum of Flying|サンタモニカ航空博物館]]によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシアで新造して復元された飛行可能な3機のうちの2機目。複座仕様へ改造の後、2011年にフライング・ヘリテージ・コレクションにより二度目の飛行を行った<ref name="Flying Heritage Collection">Flying Heritage Collection 館内の当該機体の説明板の記載による。</ref>。[[ポール・アレン]]が購入後、私設博物館で常設展示している他、アメリカの[[機体番号]]︵N3852︶を取得し、定期的にデモ飛行を行っている。[http://www.flyingheritage.com/TemplatePlane.aspx?contentId=20] |-
889 ⟶ 898行目:
||不明
||主翼が展示されている。
▲|-
▲|二二型
▲||[[ファイル:零式艦上戦闘機 二二型 AI-112.jpg|180px]]<br/>分割した状態<br/>
▲[[ファイル:2017RedBullAirRaceChibaMitsubishiA6MZero.jpg|180px]]<br />[[2017年レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ 千葉|レッドブル・エアレース<br/>千葉]]で飛行する<br/>零戦二二型<br/>
||アメリカ
||米国内の財団(詳細不明)
▲||非公開
▲||飛行可能
▲||1970年代にパプアニューギニア・[[ラバウル]]近郊で[[:en:Museum of Flying|サンタモニカ航空博物館]]によって発見・回収された残骸を元に、失われた部品あるいは損傷の激しい部品を1990年代初めにロシア・[[A・S・ヤコヴレフ記念試作設計局|ヤコヴレフ社]]で新造して復元された飛行可能な3機のうちの3つ目。エンジンはP&W R-1830。米映画﹃[[パール・ハーバー (映画)|パール・ハーバー]]﹄などに使用され、アメリカ人パイロットが所有していたが、後に[[THE FEW]]を経営する石塚政秀が購入した。2010年に日本への﹁零戦里帰りプロジェクト﹂を設立したものの、日米両国﹁武器輸入﹂の通関問題や、それまでの維持費の資金難などで紆余曲折した末、100人以上の協力と資金援助を受けて、2014年11月に帰国が実現し、同月21日から24日の4日間、[[さいたまスーパーアリーナ|埼玉スーパーアリーナ]]にて分解状態のままで一般公開された後2015年内までに組立が完了し、翌年1月27日に本機の国内初飛行を実施{{sfn|BIGLOBEニュース編集部|2016}}。2017年に千葉県で開催された[[レッドブル・エアレース・ワールドシリーズ|エアレース世界選手権]]にてデモフライトも行われた︵このとき、[[機体記号]]︵N553TT︶は米国籍のままである{{sfn|関|2016}}{{sfn|産経WEST|2016}}︶。日本国内での保存を計画していたが |-
|五二型
896 ⟶ 915行目:
||公開
||飛行可能
||61-120/中島 5357<ref>{{Cite web
||オリジナルの栄三一甲型エンジンを搭載して飛行可能な唯一の零戦。アメリカで登録され︵ナンバー:N46770︶ 1995年には竜ヶ崎飛行場をはじめ国内数か所でデモフライトをおこなった。2012年12月1日から2013年8月まで埼玉県の所沢航空発祥記念館の特別展にて展示。エンジンの起動とタキシングを披露した。[https://www.youtube.com/watch?v=FfFMuKymg3c デモフライトの様子] {{main|零式艦上戦闘機五二型61-120号機}}
927 ⟶ 946行目:
||静態展示
||HK-102/三菱 4400
||1945年9月にトラック島で米軍により鹵獲され1947年に戦利品として米国に渡った。1950年代に[[:en:Edward T. Maloney|エドワード・マロニー]] |-
|五二型
1,030 ⟶ 1,049行目:
||1944年2月17日の[[トラック島空襲]]で沈没した[[富士川丸]]の船内に放棄されている。
|-
|二
型<br /> ||[[ファイル:Japanese airplane ZERO at Fujikawa maru.jpg|180px]]
||[[ミクロネシア連邦]]
1,040 ⟶ 1,060行目:
|}
</div>
* この他にも、太平洋やアジア・オセアニアの各地に零戦が眠っている。また、博物館での展示や映画の撮影、個人の趣味などのために製作された[[レプリカ]]も、飛行可能なもの・外観のみを再現したものを併せて複数存在する<ref>{{Cite Web |url = https://www.sorahaku.net/exhibition/permanent/air/a2/ |title = 航空エリア 戦前・戦中の航空機開発 |publisher = [[岐阜かかみがはら航空宇宙博物館]] |language = ja |accessdate = 2024-04-06}}</ref><ref>{{Cite Web |url = https://p-ibaraki.com/basementpit |title = 地下戦闘指揮所・零戦レプリカ展示 |publisher = [[筑波海軍航空隊記念館]] |language = ja |accessdate = 2024-04-06}}</ref><ref>{{Cite Web |url = https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000180410 |title = 国内で実物の零戦が展示されている場所が知りたい。 |publisher = [[レファレンス協同データベース]] |language = ja |date = 2018-02-28 |accessdate = 2024-04-06}}</ref><ref>{{Cite journal |和書 |author = [[瀬尾央]] |title = 蒼穹劇場 No.16 80%スケール,180hpの零戦を製作する濱尾豊さん |date = 1998-03 |publisher = [[文林堂]] |journal = [[航空ファン (雑誌)|航空ファン]] |volume = 47 |issue = 第3号︵1998年3月号︶ |naid = |pages = 81 - 85 |ref = harv }}</ref>。 ; 参考
* [http://www.zero-fighter.com/bilingual/genzon.htm 現存する零戦のリスト] - 情報に少々古い部分がある。
* [http://ki43.on.coocan.jp/list2.html#nz 旧日本軍の現存兵器一覧]
1,075 ⟶ 1,096行目:
* {{Cite book |和書 |author=河野嘉之 |title=図解 戦闘機 |series=F-Files |issue=023 |publisher=新紀元社 |year=2009 |ref={{sfnref|河野|2009}}}}
* {{Cite book |和書 |author=ロバート・グリンセル |translator=[[夏木徹弥]] |year=2000 |title=P‐51マスタング (世界の偉大な戦闘機) |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4309705828 |ref={{SfnRef|グリンセル |2000}} }}
* {{Cite web
* {{Cite book |和書 |author=マーティン・ケイディン |authorlink=マーティン・ケイディン |translator=中条健 |title=日米航空戦史 : 零戦の秘密を追って |publisher=経済往来社 |year=1967 |ref={{sfnref|ケイディン|1967}}}}
* {{Cite book |和書 |author=マーティン・ケイディン |translator=加登川幸太郎 |title=零戦 : 日本海軍の栄光 |publisher=サンケイ新聞社 |year=1971 |ref={{sfnref|ケイディン|1971}}}}
* {{Cite book |和書 |author=神立尚紀|authorlink=神立尚紀 |title=戦士の肖像 |publisher=文春ネスコ |year=2004 |ref={{sfnref|神立|2004}}}}
* {{Cite book |和書 |author=神立尚紀|author2=大島隆之 |year=2015 |title=零戦 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争 |publisher=講談社 |isbn=978-4062931625 |ref={{SfnRef|神立|大島|2015}} }}
* {{Cite web
* {{Cite web
* {{Cite web
* {{Cite web |url=https://kknews.cc/military/bp9q3rj.html |title={{lang|zh|人民空軍從這裡走來:東北民主聯軍老航校的飛機們}} |author={{lang|zh|顧氏造船廠廠長}} |publisher={{lang|zh|每日頭條}} |date=2019-06-20 |accessdate=2019-08-12 |language=zh |ref={{sfnref|{{lang|zh|顧氏造船廠廠長}}|2019a}}}}
* {{Cite web |url=https://twgreatdaily.com/zu5lRmwB8g2yegND6J9b.amp |title={{lang|zh|同樣式繳獲的戰利品,國軍用不到一年就廢,我軍居然用到了1952年}} |author={{lang|zh|顧氏造船廠廠長}} |website={{lang|zh|今天頭條}} |publisher=GreatDaily |date=2019-07-30 |accessdate=2019-08-12 |language=zh |ref={{sfnref|{{lang|zh|顧氏造船廠廠長}}|2019b}} }}
*{{Cite book|和書 |author=境克彦 |year=2017 |title=特攻セズ : 美濃部正の生涯 |publisher=方丈社 |isbn=978-4908925160 |ref={{SfnRef|境克彦|2017}} }}
* {{Cite * {{Cite book |和書 |edition=保存版 |title=銀河/一式陸攻<!-- : 知られざる銀河部隊の戦跡--> |series=軍用機メカ・シリーズ |issue=13 |author=雑誌「丸」編集部 |publisher=光人社 |year=1994 |ref={{sfnref|丸|1994}}}}
* {{Cite news |和書 |title=零戦、再び日本の空を舞う!「先人が築いた技術をみよ」 1月27日に鹿児島県鹿屋市で |newspaper=産経WEST |publisher=産経新聞 |date=2016-01-21 |url=
* {{Cite book |和書 |author=清水政彦 |title=零式艦上戦闘機 |series=新潮選書 |publisher=新潮社 |year=2009 |ref={{sfnref|清水|2009}}}}
* {{Cite web
* {{Cite news |和書 |url=https://trafficnews.jp/post/105021 |title=「ぺろハチ」だと? 形勢逆転 日本機キラーと化したP-38「ライトニング」米軍エース愛用 |author=白石光 |date=2021-03-02 |newspaper=乗りものニュース |publisher=[[メディア・ヴァーグ]] |accessdate=2022-03-26 |ref={{sfnref|白石|2021}} }}
* {{Cite web
* {{Cite news |和書 |title=零戦、日本の空に復活なるか 国内での動態保存に向け初飛行まもなく |newspaper=乗りものニュース |publisher=メディア・ヴァーグ |date=2016-01-21 |accessdate=2022-12-29 |url=http://trafficnews.jp/post/47978/ |author=関賢太郎 |ref={{sfnref|関|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=杉田親美 |title=三菱海軍戦闘機設計の真実 : 曽根嘉年技師の秘蔵レポート |publisher=国書刊行会 |year=2019 |ISBN=978-4336063670 |ref={{sfnref|杉田|2019}}}}
1,103 ⟶ 1,125行目:
* {{Cite book |和書 |author=野沢正 |title=日本航空機総集 |volume=1 |chapter=三菱篇 |edition=改訂新版 |publisher=出版協同社 |year=1981 |page=189 |ref={{sfnref|野沢|1981}}}}
* {{Cite book |和書 |author=野原茂 |year=2017 |title=日本陸海軍航空英雄列伝 : 大東亜を翔けた荒鷲たちの軌跡 |publisher=イカロス出版 |isbn=978-4802203333 |ref={{SfnRef|野原|2017}}}}
* {{Cite web
* {{Cite web
* {{Cite web
* {{Cite web * {{Cite book |和書 |editor=米国戦略爆撃調査団|editor-link=米国戦略爆撃調査団 |translator=[[大谷内和夫]] |year=1996 |title=JAPANESE AIR POWER : 米国戦略爆撃調査団報告 日本空軍の興亡 |publisher=光人社 |isbn=4769807686 |ref={{SfnRef|米国戦略爆撃調査団|1996}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ジョン・ベダー |translator=山本親雄 |title=スピットファイア |publisher=サンケイ新聞社出版局 |series=第二次世界大戦ブックス |year=1986 |ISBN=4-383-02472-6 |ref={{sfnref|ベダー|1986}}}}
1,118 ⟶ 1,140行目:
* {{Cite book |和書 |author=堀越二郎 |title=零戦の遺産 : 設計主務者が綴る名機の素顔 |series=光人社NF文庫 |publisher=光人社 |year=1995 |ref={{sfnref|堀越|1995}}}}
* {{Cite book |和書 |author1=堀越二郎 |author2=奥宮正武 |title=零戦 |series=学研M文庫 |publisher=学習研究社 |year=2007 |ref={{sfnref|堀越・奥宮|2007}}}}
* {{Cite news |和書 |title=機体を復元 鹿児島県の海自鹿屋航空基地で試験飛行 |newspaper=毎日新聞 |date=2016-01-27 |url=
* {{Cite book |和書 |author=前間孝則 |authorlink=前間孝則 |title=戦闘機屋人生 : 元空将が語る零戦からFSXまで90年 |publisher=[[講談社]] |year=2005 |ISBN=4-06-213206-0 |ref={{sfnref|前間|2005}}}}
* {{Cite book |和書 |author=牧島貞一 |title=炎の海 : 報道カメラマン空母と共に |publisher=光人社 |year=2001 |ISBN=4-7698-2328-2 |ref={{sfnref|牧島|2001}}}} - 著者は日映カメラマン。零戦の初陣を取材、9月13日には陸攻から零戦を機上撮影した。 1,131 ⟶ 1,153行目:
* {{Cite book |和書 |author=柳田邦男 |year=1984 |title=零戦燃ゆ |chapter=飛翔篇 |publisher=文藝春秋 |ref={{sfnref|柳田|1984}}}}
* {{Cite book |和書 |author=吉野泰貴 |year=2012 |title=海軍戦闘第八一二飛行隊 : 日本海軍夜間戦闘機隊“芙蓉部隊”異聞 写真とイラストで追う航空戦史 |publisher=大日本絵画 |isbn=978-4499230964 |ref={{SfnRef|吉野泰貴|2012}} }}
* {{Cite news |和書 |title=復元した零戦、鹿屋の空を飛ぶ…操縦は米国人 |newspaper=読売新聞 |date=2016-01-28 |url=https://web.archive.org/web/20160128021853/http://www.yomiuri.co.jp/national/20160128-OYT1T50014.html |deadlinkdate=2022-12-30 |archiveurl=https://www.youtube.com/watch?v=Wv2YcCldO6U |archivedate=2016-01-28 |ref={{sfnref|読売新聞|2016}} }}
* {{Cite book |和書 |author=ロビン・L・リエリー |translator=[[小田部哲哉]] |year=2021 |title=米軍から見た沖縄特攻作戦 |publisher=[[並木書房]] |isbn=978-4890634125 |ref={{SfnRef|リエリー|2021}} }}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二|year = 2002|title=遥かなる俊翼 : 日本軍用機空戦記録|publisher=文藝春秋 |isbn=978-4167249113|ref={{SfnRef|渡辺洋二|2002}}}}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2003 |title=彗星夜襲隊 特攻拒否の異色集団 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=4769824041 |ref={{SfnRef|渡辺洋二|2003}}}}
* {{Cite book |和書 |author=渡辺洋二 |year=2015 |title=非情の操縦席 |publisher=光人社 |series=光人社NF文庫 |isbn=978-4769829157 |ref={{SfnRef|渡辺洋二|2015}}}}
* {{Cite web
* {{Cite book |和書 |author= |title=零式艦上戦闘機 2 |series=歴史群像太平洋戦史シリーズ |issue=33 |publisher=学習研究社 |year=2001 |ref={{sfnref|学研|2001}}}}
* {{Cite book |和書 |editor=零戦塔乗員会 |title=海軍戦闘機隊史 |publisher=原書房 |year=1987 |ref={{sfnref|零戦塔乗員会|1987}}}}
* {{Cite news |和書 |url=http://news.biglobe.ne.jp/domestic/0127/blnews_160127_8997044446.html |title=里帰りした零戦、73年ぶりに日本の空でフライト実現 : 鹿屋基地でテスト飛行に成功 |newspaper=BIGLOBEニュース |author=BIGLOBEニュース編集部 |date=2016-01-27 |ref={{sfnref|BIGLOBEニュース編集部|2016}} }}
* {{Cite news |和書 |title=「零戦おかえり」 日本の空でテスト飛行に成功 |newspaper=ITmedia News |date=2016-01-27 |url=
* {{Cite web |url=https://tighar.org/Contract_Services/Yap/csYap.html |accessdate=2022-12-30 |title=World War II Japanese Aircraft at the Old Colonia Airport, Yap State |date=2006-09-30 |author=Thomas F. King |website=Contract Services |publisher=TIGHAR |ref={{sfnref|King|2006}} }}
* {{Cite web |url=https://theaviationgeekclub.com/the-saint-valentines-day-massacre-debacle-the-first-corsair-combat-proved-a-fiasco-with-nine-american-aircraft-being-lost-for-a-single-zero-sen-shot-down/ |title=The ‘Saint Valentine’s Day Massacre’ debacle: The first Corsair combat proved a fiasco with nine American aircraft being lost for a single Zero-sen shot down |author=Dario Leone |date=2022-02-15 |website=The Aviation Geek Club |publisher=Osprey Publishing |accessdate=2022-03-26 |ref={{sfnref|Leone|2022}} }}
1,157 ⟶ 1,179行目:
* [[ジョン・サッチ]]
**[[サッチウィーブ]]
* [[松平精]] - 空中分解事故の調査に携わった
== 外部リンク ==
1,174 ⟶ 1,197行目:
* [https://www.mod.go.jp/msdf/kanoya/toukatu/HPzairyou/1-8siryoukann/1-8siryoukann.html 史料館] - 海上自衛隊鹿屋航空基地史料館
* [http://www.chiran-tokkou.jp 知覧特攻平和会館]
* [https://yamato-museum.com
{{大日本帝国海軍}}
1,180 ⟶ 1,203行目:
{{デフォルトソート:れいしきかんしようせんとうき}}
[[Category:零式艦上戦闘機|*]]
[[Category:日本の戦闘機]]
[[Category:
[[Category:大日本帝国
[[Category:三菱重工業製の飛行機]]
[[Category:中島飛行機の航空機]]
[[Category:
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[[Category:近代化産業遺産]]
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