「香川敬三」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
Omaemona1982 (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
7行目:
== 経歴 ==
=== 幕末 ===
下伊勢畑︵現在の[[常陸大宮市]]︶の水戸藩[[郷士]]蓮田重右衛門孝定・袖の3男に生まれる。<ref name=":0">{{Cite book|title=水戸の先人たち|url=|publisher=水戸市教育委員会|date=2010|location=|isbn=|oclc=|others=水戶市教育委員会|year=}}</ref>次兄には、蓮田東三︵[[安政]]4年︵[[1857年]]︶に[[タウンゼント・ハリス]]襲撃を計画するも発覚し入獄死︶がいる。上伊勢畑︵常陸大宮市︶の吉田神社の神官である鯉沼意信︵綱彦︶の養子となる。 15 ⟶ 16行目:
[[戊辰戦争]]が勃発すると、岩倉具視の子である[[岩倉具定]]を総督とする東山道軍総督府大軍監として進軍。[[江戸]]より軍を率いて[[宇都宮藩|宇都宮]]へ出立。途中、[[流山市|流山]]で[[甲陽鎮撫隊]]︵[[新選組]]︶陣屋を襲って、局長[[近藤勇]]を出頭させたと言われている。小軍監[[有馬藤太]]の証言によると、当時香川は旗役を務めていただけだったとも言われるが、岡田家文書の発見によって、通説通り東山道軍総督府大軍監であったことが明らかになった。[[宇都宮城の戦い]]では、[[大鳥圭介]]・[[土方歳三]]らに敗れ城を奪われ、救援を得て再び奪還している。その後、会津まで転戦した。 === 明治以降 ===
戊辰戦争の軍功により、明治2年に[[賞典禄]]300石を下賜された。のち[[兵部省 (明治時代)|兵部権大丞]]となるが、軍務は不向きであるとして異動を申し出る。[[宮内省]]に移り、宮内権大丞、宮内少丞等を歴任。[[岩倉使節団]]への随行を希望したが選にもれ、宮内省を退官し自費で随行する。のちに宮内省理事官随行心得として使節団の正式な一員となる。<ref name=":0" /> [[File:Patroness of the Tokyo Charity Hospital by Mitsutani Kunishiro (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg|thumb|聖徳記念絵画館壁画﹃東京慈恵院行啓﹄︵[[満谷国四郎]]筆、[[東京慈恵会|東京慈恵院]]奉納︶明治20年︵1887年︶5月9日、東京慈恵院に行啓した[[昭憲皇太后|美子皇后]]︵中央︶。同院は、明治15年に皇室より下賜された運営基金や上流階級の婦人で組織される﹁婦人慈善会﹂の福祉バザーの売上金等で運営された貧しい人々の医療を行う為の慈善病院であり、皇后は大正2年に至るまで毎年行啓した{{sfn|打越孝明|2012|p=122}}。ベッドの患者の子供に玩具を渡しているのは[[有栖川宮熾仁親王]]御息所[[熾仁親王妃董子|董子妃]]。皇后の左の供奉している男性は皇后宮大夫香川敬三{{sfn|打越孝明|2012|p=123}}。]]▼ のちに再び宮内少丞、宮内大丞、宮内大書記官、[[皇后宮大夫]]、[[有栖川宮]][[閑院宮]]家政取締、皇太后宮亮、宮内少輔、[[宗秩寮|華族局]]長、[[久宮静子内親王|久宮]]御養育主任、[[主殿寮|主殿頭]]、[[諸陵寮|諸陵頭]]、[[主馬頭]]、[[閑院宮]]別当、[[大膳職|大膳大夫]]、[[東伏見宮]]御用掛、大膳頭、議定官、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]、[[皇太后宮大夫]]など、宮内官僚として要職を歴任した。<ref>{{Cite book|title=﹃香川敬三履歴史料﹄|date=1992年|year=|publisher=皇学館大学史料編纂所}}</ref>皇太后宮大夫の職にあった際に[[やまと新聞]]の経営者[[松下軍治]]より資金を無心された話が雑誌﹃大国民﹄に掲載された<ref>[[井土霊山]]﹁新聞界の咄々怪事﹂﹃大国民﹄41号、1911、139-150頁.</ref>。 === 昭憲皇太后の側近として ===
[[明治天皇]]の皇后[[昭憲皇太后|美子皇后]]︵昭憲皇太后︶に側近として長きに渡り仕えた。[[伊藤博文]]が[[内閣総理大臣]]兼[[宮内大臣]]だった頃、皇后や女官が着用する女子宮廷服の洋装化、宮内省のお雇い外国人の招聘、新しい宮殿の竣工、皇后の洋装写真撮影など、次々と宮中改革の手が打たれたが、香川はそれらを円滑に進めるための皇后への働きかけにあたった<ref>{{cite news|title=<近代茨城の肖像>︵4︶香川敬三 明治皇室に殉じた生涯表|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2400Y_U1A520C1NNH000/|newspaper=東京新聞|date=2022年02月13日|accessdate=2024年6月20日}}</ref>。▼ ▲[[File:Patroness of the Tokyo Charity Hospital by Mitsutani Kunishiro (Meiji Memorial Picture Gallery).jpg|thumb|聖徳記念絵画館壁画﹃東京慈恵院行啓﹄︵[[満谷国四郎]]筆、[[東京慈恵会|東京慈恵院]]奉納︶明治20年︵1887年︶5月9日、東京慈恵院に行啓した[[昭憲皇太后|美子皇后]]︵中央︶。同院は、明治15年に皇室より下賜された運営基金や上流階級の婦人で組織される﹁婦人慈善会﹂の福祉バザーの売上金等で運営された貧しい人々の医療を行う為の慈善病院であり、皇后は大正2年に至るまで毎年行啓した{{sfn|打越孝明|2012|p=122}}。ベッドの患者の子供に玩具を渡しているのは[[有栖川宮熾仁親王]]御息所[[熾仁親王妃董子|董子妃]]。皇后の左の供奉している男性は皇后宮大夫香川敬三{{sfn|打越孝明|2012|p=123}}。]] ▲[[明治天皇]]の皇后[[昭憲皇太后|美子皇后]]︵昭憲皇太后︶に側近として長きに渡り仕えた。[[伊藤博文]]が[[内閣総理大臣]]兼[[宮内大臣]]だった頃、皇后や女官が着用する女子宮廷服の洋装化、宮内省のお雇い外国人の招聘、新しい宮殿の竣工、皇后の洋装写真撮影など、次々と宮中改革の手が打たれたが、香川はそれらを円滑に進めるための皇后への働きかけにあたった<ref name="tokyo">{{cite news|title=<近代茨城の肖像>︵4︶香川敬三 明治皇室に殉じた生涯表|url=https://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2400Y_U1A520C1NNH000/|newspaper=東京新聞|date=2022年02月13日|accessdate=2024年6月20日}}</ref>。 明治19年5月23日に渡欧中の娘志保子に宛てた手紙の中で、皇后に洋学や洋装を勧めても天皇の反対で進まないという愚痴をこぼしながらも「欧州でも上流階級は必ず[[フランス語]]で交際する。もちろん帝王・皇后もそうだ。早晩、日本も必ずそうなると今から想像している」と語っている。岩倉使節団に随行して渡欧していた香川は、欧州の王室・皇室を模範とした皇室近代化改革の必要性を切実に感じており、伊藤の目指す宮中改革のよき理解者だった<ref name="tokyo"/>。
洋装になった美子皇后は、明治天皇とともに外国貴賓と応対し、陸海軍演習を視察し、日本赤十字社を指導し、東京慈恵医院、東京女子師範学校、戦時中の陸海軍病院に行啓を重ねるなど﹁国母﹂として存在感を増し、香川は生涯にわたって彼女を支え続けた<ref name="tokyo"/>。 また幕末に落命した同志たちのための名誉回復や、遺族へ訪問するなど、謝罪のため各地を歴訪したという。浪士組に参加した[[粕谷新五郎]]の実家、野口︵現[[常陸大宮市]]︶では粕谷家で戦死した者についての碑文を遺している。 [[大正天皇]]の生誕の際の御用掛や結婚の際には、御婚儀御用掛長を務めた。徳川慶喜の[[公爵]]授与に尽力し、徳川慶喜の娘を大正天皇の后候補として推した。<ref>{{Cite journal|author=上野秀治|year=1996|title=徳川慶喜の授爵について|journal=史料︵皇学館大学︶|volume=146|page=}}</ref>[[佐々木高行]]と[[下田歌子]]主導の皇女教育の方針に異議のあった[[明治天皇]]・[[昭憲皇太后]]夫妻の意思で、敬三がその牽制役を担ったこともあった。[[伯爵]]となってからも、徳川家の連枝には席を譲ったという。<ref>{{Cite book|title=高橋義雄著﹃箒のあと・下﹄|date=昭和8年|year=|publisher=秋豊園}}</ref>また[[日露戦争]]の際には、皇后の夢に[[坂本龍馬]]が出たという喧伝を行い、国民を鼓舞させた。<ref>{{Cite book|title=﹃特別展 華麗なる明治~宮廷文化のエッセンス~﹄|date=2022年|year=|publisher=茨城県立歴史館}}</ref>屋敷は現在の[[四谷]]の[[紀尾井ホール]]のところにあった。 大正3年4月9日に約33年にわたって仕えてきた昭憲皇太后が崩御した。憔悴した香川は、皇太后の後を追うかのように翌年3月18日に死去した<ref name="tokyo"/>。爵位は息子の[[香川桜男|桜男]]が継承した。
== 栄典 ==
|