| 出生=[[紀元前14年]]
| 死去=[[49年]]
| 出身地=[[右扶風]]茂陵県
| 職業=軍人
| 簡体字=马援
| 注音=
| 和名=
| 発音=マ・ユアン
| ラテン字=
| 英語名=Ma Yuan
}}
'''馬 援'''︵ば えん、[[紀元前14年]] - [[49年]]︶は、[[中国]][[新]]末期から[[後漢]]初期の[[武将]]。伏波将軍の号でも知られる。[[字 (人名)|字]]は文淵。[[諡]]は忠成。[[光武帝]]に仕え、光武帝の敵を多く討ち果たした。その娘︵[[明徳馬皇后|馬皇后]]︶は後漢の第2代[[明帝 (漢)|明帝]]の[[皇后]]となった。また子孫に後漢末期・[[三国時代 (中国)|三国時代]]に活躍したの武将の[[馬騰]]・[[馬超]]親父子がいる。彼の名言﹁男児要当死於辺野、以馬革裹屍還葬耳︵男子たるもの当然辺境の原野に死、馬の皮で遺体を包まれ葬られるべきである)﹂は広く伝わっている
== 略歴 ==
[[右扶風]]茂陵県︵現在の[[陝西省]][[咸陽市]][[興平市]]の北東︶の人。その遠祖は[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の[[趙 (戦国)|趙]]の名将軍の[[趙奢]]であり、趙奢は馬服君と名乗ったので、これが[[氏 (中国)|氏]]になったと言う<ref>﹃[[新唐書]]﹄宰相世系表二下によると、趙奢-[[趙牧]]-馬興-馬嵩-馬述-馬権-馬通-馬賓-馬仲-馬援とつづく。</ref>。
曽曾祖父の[[馬通]]とその兄の[[馬何羅]]は[[武帝 (漢)|武帝]]期の[[巫蠱の乱禍]]平定に功績があったが、馬何羅はこの乱の原因である[[江充]]と仲が良く、そのことで後難があるのではと恐れて、遂に反乱を起こして殺され、一族は[[前漢]]が滅ぶまで禁錮︵仕官が出来ないこと︶とされた。
馬援が12歳のときに父が亡くなり、長男兄の[[馬況]]が馬援を教育することになった。馬援は[[斉詩]]を学ぶことがあったが、当時主流であった一字一句に拘る[[訓詁学]]を嫌い、北方での[[牧畜]]を望んだ。馬況は馬援が大志を抱いていることを知っており、将来必ず大人物になると思ってそれを許した。しかし、馬況は間もなく亡くなり、馬援は馬況の嫁の面倒をみることになり、北方へ行くことができなくなった。
前漢が滅びて[[王莽]]の治世になよる[[新]]が成立すると郡の督郵︵監察役︶となり、囚人の護送業務をしていたが、その囚人を哀れに思って逃がしてしまい、自らも北に逃亡してそこで念願の[[牧畜]]をはじめた。馬援の先祖が以前そこで役人をしていたこともあり、馬援はその地の頭となった。[[牧畜]]の傍ら[[農業]]も始め、馬援を慕う人間が次々と訪れ、その地の実力者となった。そのころ人々に﹁男子たるもの苦しいときには意志を強く持ち、老いてはいよいよ壮︵さかん︶でなくてはならない﹂﹁富を得ても施さなければただの守銭奴にすぎない﹂と語り、儲けた金品を親族友人に与え自分は粗末な衣服を着て仕事に熱中した。そのためますます人が集まるようになった。
王莽政権の新末期に新城大尹︵新制における<ref>[[漢中郡|漢中]]郡[[太守]]のこと新制での呼称。王莽が改名した︶。</ref>とされ、新滅亡後に隴西︵は[[甘粛省隴西郡|隴西]]︶に割拠した[[隗囂]]︵かいごう︶の配下になった。隗囂は、漢を継ぐと喧伝し[[洛陽河北]]に勢力を広げる持つ[[劉秀]]︵光武帝︶、[[蜀郡|蜀]]に割拠して[[皇帝]]を名乗っていた[[公孫述]]の二者を窺い、内情を調べさせるために、公孫述の同県人で旧知である馬援を蜀に使いさせた。馬援は暖かく迎えてくれると思っ期待した公孫述が、皇帝の権威と礼儀礼で迎える高圧的だったのに幻滅し、隗囂には対し公孫述は﹁'''井の底の蛙'''﹂であると評し伝え、光武帝に就く味方するべきだと訴えた。
[[28年]]︵[[建武 (漢)|建武]]4年([[28年]])︶、馬援は今度は光武帝への使者となった。光武帝は礼儀に拘らず﹁君は二帝の間に往来する。今、君を見て、自分が及ばざる者では無いかと恥じいる﹂と笑って馬援を迎える。馬援はそんなことはありませんと詫び﹁公孫述は旧知の我に対して戟を並べて、その後に我を進ませる。臣、遠くから来る。陛下、何ぞ刺客に非ずと知り、礼儀作法の簡易なること各かくの如きや﹂と言えば、光武帝は﹁君は刺客でなく説客なるのみ﹂と笑う。これによって馬援は就くなら器の大きな光武帝と決め、光武帝の使者[[來歙|来歙]]と共に隴西に戻って隗囂を説得する。隗囂は長子男の[[隗恂]]を人質となし、再度、馬援は来歙・隗恂と共に[[洛陽]]に行き、光武帝に臣として降った。
[[File:Ma-Yuan.jpg|thumb|250px|[[海南省|海南]]にある馬援の像]]
隗囂は建武6年([[30年]])︵建武6年︶に光武帝と対立し、抗戦の中、建武9年︵[[33年]]︵建武9年︶に病死した。この年馬援は[[光禄勲|太中大夫]]を拝し、中郎将来歙の副官として諸将を監督することになった。建武11年︵[[35年]]︵建武11年︶の隗囂残党討伐に馬援は功績を挙げ、次いで来歙の推薦によって隴西[[太守]]となった。▼
建武12年︵[[36年]]︵建武12年︶には公孫述を滅ぼして、光武帝の全国統一がなった。建武16年([[40年]])︵建武16年︶に[[交趾州]]︵現在の[[ベトナム]]北部︶で漢の支配に反抗した[[徴姉妹]]のが反乱がを起こるしたが、翌年︵[[41年]]︶に馬援は伏波将軍に任じられ、これ姉妹を討ち取って反乱を鎮圧した。▼
▲隗囂は建武6年([[30年]])に光武帝と対立し、抗戦の中、建武9年︵[[33年]]︶に病死した。この年馬援は[[光禄勲|太中大夫]]を拝し、中郎将来歙の副官として諸将を監督することになった。建武11年︵[[35年]]︶の隗囂残党討伐に馬援は功績を挙げ、次いで来歙の推薦によって隴西太守となった。
更に建武24年︵[[48年]]︵建武24年︶の、馬援は武陵五渓の反乱討伐に出陣を願い出るた。この時に既に62歳であり、光武帝も﹁もう年なのだから﹂と馬援を止めたが、馬援は﹁私はまだ馬にも良く乗れます﹂と言って馬に飛び乗り、光武帝も笑って﹁矍鑠たるかな!、この翁﹂と言って出陣を許した。しかしこの戦いの陣中で没した。なお、老いても元気な人を﹁矍鑠﹂と褒めるのはこの故事が由来となっている。翌年春、馬援は臨郷に進軍し、県城を攻撃していた反乱軍を迎撃して破った。3月、壺頭まで進軍したが、暑熱の環境で陣中に疫病が蔓延し、馬援も病に倒れて没した。▼
▲建武12年([[36年]])には公孫述を滅ぼして光武帝の全国統一がなった。建武16年([[40年]])に交趾([[ベトナム]])で漢の支配に反抗した[[徴姉妹]]の反乱が起こるが、翌年([[41年]])に馬援は伏波将軍に任じられ、これを鎮圧した。
死後、馬援に恨みを持っていた虎賁中郎将の梁松は馬援が戦利品の宝物を私物化していたと讒言した。光武帝は激怒し、馬援の新息侯の印綬を剥奪した。甥の[[馬厳]]らが冤罪を訴えること6度におよび、雲陽県令の朱勃は罪は功をもって除くようにと上書した。[[永平 (漢)|永平]]初年、明帝が建武年間の名臣の肖像画を雲台に描かせた([[雲台二十八将]])が、その中に馬援の肖像はなかった。東平王[[劉蒼]]がこのことを訊ねたが、明帝は笑って答えなかった。[[78年]]([[建初 (漢)|建初]]3年)、[[章帝 (漢)|章帝]]は馬援に忠成侯の[[諡]]を贈った。
▲更に建武24年︵[[48年]]︶の武陵五渓の反乱に出陣を願い出る。この時に既に62歳であり、光武帝も﹁もう年なのだから﹂と馬援を止めたが、馬援は﹁私はまだ馬にも良く乗れます﹂と言って馬に飛び乗り、光武帝も笑って﹁矍鑠たるかな!この翁﹂と言って出陣を許した。しかしこの戦いの陣中で没した。なお、老いても元気な人を﹁矍鑠﹂と褒めるのはこの故事が由来となっている。
{{-}}
== 家族 ==
死後、恨みを持っていた人間からの讒言を受け、一切の官爵を剥奪されるが、その後、名誉回復がなされた。
=== 曾祖父 ===
* 馬通([[馬何羅]]の弟)
=== 祖父 ===
* 馬賓
=== 父 ===
* 馬仲
=== 兄 ===
* 馬況
* 馬余
* 馬員<ref>『[[東観漢記]]』</ref>
=== 男子 ===
* [[馬廖]]
* [[馬防]]
* [[馬光 (後漢)|馬光]]
* 馬客卿
=== 女子 ===
* 馬姜
* [[明徳馬皇后]]
=== 甥 ===
* [[馬厳]](馬余の子)
* [[馬敦]](馬余の子)
=== 族孫 ===
* [[馬棱]]
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 文学作品 ==
*[[宮城谷昌光]]『馬上の星 小説・馬援伝』[[中央公論新社]]、2022年
== 関連項目 ==
* [[馬援銅柱]]
* [[馬融]] - 後漢の学者。馬援の次兄の馬余の孫。
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:は えん}}
[[Category:扶風馬氏|えん]]
[[Category:後漢代光武帝期の人物]]
[[Category:咸陽出身の人物]]
[[Category:1世紀アジアの軍人]]
[[Category:紀元前14年生]]
[[Category:49年没]]
|