「高岳親王」の版間の差分
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== 経歴 ==
[[大同 (日本)|大同]]4年︵[[809年]]︶父・平城天皇が譲位して[[嵯峨天皇]]が即位すると[[皇太子]]に立てられるが、翌大同5年︵[[810年]]︶[[薬子の変]]に伴い[[廃太子|皇太子を廃される]]。[[弘仁]]13年︵[[822年]]︶四品に叙せられ名誉回復がなされるが、出家し真如と名乗った。奈良の宗叡・修円、また[[空海|弘法大師]]の弟子として修行した。弘法大師の[[空海#十大弟子|十大弟子]]の一人となり、[[高野山]]に親王院を開いた。[[阿闍梨]]の位をうけ、また﹃胎蔵次第﹄を著した。承和2年︵[[835年]]︶空海が入定すると、高弟のひとりとして遺骸の埋葬に立ち会っている。 [[斉衡]]2年︵[[855年]]︶[[地震]]により[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]の[[仏頭]]が落ちたとき、東大寺大仏司検校に任じられ修理を行う。その後、入[[唐]]求法を志して[[朝廷]]に願い出る。[[貞観 (日本)|貞観]]3年︵[[861年]]︶親王の一行23人は[[奈良]]から[[九州]]に入り、翌貞観4年︵[[862年]]︶[[大宰府]]を出帆して明州︵現在の[[寧波]]︶に到着する。貞観6年︵[[864年]]︶[[長安]]に到着する。在唐40年になる留学僧[[円載]]の手配により[[西明寺 (西安市)|西明寺]]に迎えられる。しかし、当時の唐は[[武宗 (唐)|武宗]]の[[仏教]]弾圧政策︵[[会昌の廃仏]]︶の影響により[[仏教]]は衰退の極にあったことから、親王は長安で優れた師を得られなかった。このため[[天竺]]行きを決意。貞観7年︵[[865年]]︶[[皇帝]]の勅許を得て従者3人とともに[[広州]]より海路天竺を目指し出発したが、その後の消息は不明となった。 |