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|生年月日= 1886年1月4日<!-- {{生年月日と年齢|YYYY|MM|DD}} -->
|生誕地= [[群馬県]][[前橋市]]
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|死没地= <!-- {{JPN}}・XX都道府県YY市区町村 -->
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{{wikisource|資本論第一巻|資本論}}
'''高畠 素之'''︵たかばたけ もとゆき、[[1886年]][[1月4日]] - [[1928年]][[12月23日]]︶は[[日本]]の[[社会思想|社会思想家]]、[[哲学者]]。[[資本論]]の全訳を行い、[[国家社会主義]]を唱えた。 ==人物==
{{出典の明記|date=2017年8月21日 (月) 03:14 (UTC)|section=1}}
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1906年︵明治39年︶、前橋中学校を卒業。経済的な問題から[[同志社]]︵神学部。奨学金が給付されていた︶に入学し、哲学と宗教を学ぶ。高畠の同志社入学時は[[日露戦争]]の直後であった。そのため[[平民社]]系の社会主義運動の影響を受け、[[遠藤友四郎]]<ref>遠藤無水。後、天皇中心の社会主義を唱える</ref>、[[伊庭孝]]<ref>音楽家</ref>と、同志社内で社会主義を宣伝した。そのため在学一年程度で退学、社会主義者として著名であった堺利彦を頼るも、相手にされず郷里前橋に戻った。 前橋に戻った高畠は、1908年︵明治41年︶5月、遠藤友四郎らと﹃[[東北評論]]﹄を発行し、地元[[柳川町 (高崎市)|柳川町]]で社会主義運動の第一歩を踏み出す。この頃の高畠は、時代の影響から正統派社会主義の論陣を張っていた。1908年︵明治41年︶には[[赤旗事件]]に対する筆禍に問われ、高畠は編集者として禁錮4月の判決を受けた。 ===第二期 正統派マルクス主義者 ===
1908年に出所した高畑は、新たな運動の可能性を求め神戸、大阪、名古屋を放浪。京都では第三高等学校の英語教師ケデーの門番をつとめたほか、夜間学校の英語教師も務めた。 一方、1910年︵明治43年︶9月には、[[社会主義|社会主義者]]で﹃[[共産党宣言]]﹄翻訳者の[[堺利彦]]が、[[大逆事件]]で壊滅した日本の社会主義者のため、[[東京市]][[四谷]]南寺町︵現・[[須賀町 (新宿区)|須賀町]]︶[[売文社]]を立ち上げ、その名の通りの売文稼業で生計を立てていた。堺はその後に大逆事件で死刑になった人々の遺族を弔うべく、西日本を旅していた。高畠に転機が訪れるのは、1911年︵明治44年︶頃に、[[岩崎革也]]の手引きで堺に再会したことにある。堺は、高畠が既に[[ドイツ語]]を身につけていたので、すぐさま売文社の技手として雇うことにした。 こうして高畠は1911年︵明治44年︶9月、売文社に入社した。当時は[[大杉栄]]がフランス語を、高畠素之がドイツ語を担当していた。明治から大正初年にかけては、日本では社会主義者に対する取り締まりが極度に厳しかったため、売文社では、政府の圧迫を避けるため、﹃'''へちまの花'''﹄と題した文芸雑誌風の読み物を編集し、わずかに同志間の連絡を保つことしかできなかった。しかし第一次世界大戦による政治情勢の変化し、社会主義に対する取り締まりの軟化を見てとった堺は、直ちに﹃へちまの花﹄を﹃'''新社会'''﹄と改題し、1915年︵大正4年︶9月、社会主義運動を高唱し始めた<ref>この前後、大杉栄は[[荒畑寒村]]とともに堺一派と決別した。</ref>。 98行目:
高畠は堺・山川と袂を分かったのち、支持者とともに新たな売文社で﹃'''国家社会主義'''﹄を創刊した。当時、日本はヨーロッパの政局の変化を受け、社会主義に対する取り締まりが若干緩くなりつつあった。この機会を捉えた高畠は、暴力革命の否定を強調することで、政府の弾圧をかわすことができると考えていた。しかし、﹃国家社会主義﹄創刊号は発売禁止となり、ただちに財政的打撃を受けた。本誌は、第2号以下、4号まで発刊したが、結局は発売中止、廃刊のやむなきに至った。 高畠は、﹃国家社会主義﹄の廃刊直後には友人の遠藤友四郎とともに﹃'''霹靂'''﹄を創刊し<ref>創刊号のみ。</ref>、次いで1920年︵大正9年︶には﹃'''大衆運動'''﹄を<ref name="#1">週刊新聞。11号で廃刊。</ref>、同年再び第1次﹃'''局外'''﹄を創刊した<ref>8頁の雑誌。</ref>。﹃局外﹄は、翌年には紙数を大幅に増補した拡大版﹃局外﹄︵第2次︶に発展したものの、[[関東大震災]]によって壊滅し廃刊した。 一方で、1922年︵大正11年︶12月には、東京帝大教授の[[上杉慎吉]]と'''経綸学盟'''を締結し、1923年︵大正12年︶に極右と称された[[大化会]]の顧問となった。この大化会の援助を受け、再び高畠門下を動員して﹃'''週刊日本'''﹄の発刊を行い<ref この後、大鐙閣版﹃資本論﹄の翻訳完成前後から大化会との関係が薄まると、再び高畠門下を動員し、1924年には第1次﹃'''急進'''﹄<ref>大正13年︵1924年︶~大正14年︵1925年︶。</ref>、1925年には第3次﹃'''局外'''﹄<ref>大正14年︵1925年︶~大正15年︵1926年︶。</ref>などの小雑誌を発刊し、何度も主義の宣伝に勉めている。 116行目:
高畠の投稿先は、自身の機関紙の外、﹃太陽﹄、﹃[[改造社|改造]]﹄、﹃解放﹄、﹃[[中央公論]]﹄、﹃経済往来﹄︵後の﹃日本評論﹄︶、﹃[[読売新聞]]﹄、﹃[[報知新聞]]﹄などの中央雑誌・新聞であり、多数のエッセイや論文を残している。これらの中で比較的有名なものは、﹃自己を語る﹄﹃論・想・談﹄にまとめられた。 高畑は﹃資本論﹄全訳、マルクス経済学の権威、国家社会主義者、社会評論家と、多数の顔を持ったが、その絶頂期とも言える時期に病に倒れ、そして突如として1928年︵昭和3年︶12月23日に、[[胃癌]]のため自宅にて没した<ref>[[服部敏良]]﹃事典有名人の死亡診断 近代編﹄付録﹁近代有名人の死因一覧﹂︵吉川弘文館、2010年︶17頁</ref>。葬式には、堺利彦ら左翼や高畠門下を始め、[[上杉慎吉]]、[[赤尾敏]]、[[梅津勘兵衛]]など多数の右翼の関係者が集まった<ref>堺利彦﹃高畠素之君を懷ふ﹄</ref>。墓所は[[多磨霊園]]。 ==『資本論』翻訳==
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しかしこの動きと前後して、突如として[[松浦要]]と[[生田長江]]の﹃資本論﹄翻訳が出版された。この松浦訳と生田訳の﹃資本論﹄は、必ずしも識者を満足させるに至らなかったが、当の高畠自身が執拗に攻撃し、また罵詈雑言を浴びせかけ、遂には完訳を断念するのやむなきに至らしめたほどであった。こうして同業者を駆逐した後、高畠は1920年6月、まず﹃資本論﹄第1巻第1分冊を'''大鐙閣'''から出版した<ref>大正9年︵1920年︶6月。本冊と第2分冊のみ福田徳三の校注がついているが、校注番号があるのみで、注の本文はない。</ref>。 高畠は第1巻第2分冊以下を順調に刊行していったが、途中で福田徳三門下が翻訳を放棄したため、第3巻も高畠の翻訳担当となり、続いて第2巻翻訳者も遁走したため、結局高畠が﹃資本論﹄全3巻を独力で翻訳することになった。そのため第1巻、第3巻、第2巻という順序で刊行され、また出版社の大鐙閣が[[関東大震災]]の余波で倒産し、'''而立社'''︵大鐙閣の しかし大鐙閣版﹃資本論﹄は、高畠自身、満足できるものではなかった。高畠によると、余りに原文に忠実に訳しすぎたため、訳文のみでは何を書いているか分らないものになってしまったというのである。 149行目:
これは﹃資本論﹄の如き難解の書を訳す場合には、訳者の訳法に影響されるものであるが、これについて[[三木清]]が高畠訳を批判したため、いささか論争を起こしたことがあった。また高畠も、河上が高畠訳を批判する割りに、自身の翻訳は一向に完成させないことに苛立ちを覚えていたと言われている。しかし河上の翻訳は結局完成せず、また高畠自身もそれを知ることなく世を去った。 ;没後
﹃資本論﹄翻訳は、高畠の没後も、河上肇(宮川実と共訳、岩波文庫・第一巻の第五分冊まで、その後改造社から第一巻上冊のみ下冊は校正段階で中絶)、その門下の[[長谷部文雄]](日本評論社。第一巻上下のみ第二巻以降は刊行できず)らによって試みられるが、時勢の困難もあり、遂に完訳には至らなかった。そのため高畠訳﹃資本論﹄は、戦前を通じて唯一の全訳﹃資本論﹄となった。 敗戦後、高畠訳﹃資本論﹄は二度ほど出版されたが︵未来社、東洋書館︶、既に長谷部文雄(日本評論社のちに青木書店、角川文庫、河出書房)、[[向坂逸郎]](岩波文庫)、[[岡崎次郎]]︵大月書店、マルクス・エンゲルス全集︶らによって新訳が刊行されたこともあり、時代的使命を終えて今日に至っている。 ==国家社会主義政党の構想==
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また軍部や日中戦争にも批判的で、特に政府が単なる支配維持の為に、共産主義を含むあらゆる革新的主義・主張を弾圧し、国民にそれらを知らしめぬよう弾圧を加えることを批判している。彼はそのような神国主義政治は、必ずや決定的な危険を伴うことを繰り返し指摘し、数少ない支持者とともに日夜研究を重ねていたといわれている。石川は1934年に'''大日本国家社会党'''を結成して党首となったが、[[大政翼賛会]]以後に次々と政党が解党していく中、最後まで労働組合を背景に政治活動をしていたことでも知られている。 ナチス研究は、既に日本政府が1934年には始めていたが<ref>﹃[[s:ナチスの刑法︵プロシヤ邦司法大臣の覚書︶|ナチスの刑法︵プロシヤ邦司法大臣の覚書︶]]﹄、1934年。﹃[[s:ナチスの法制及び立法綱要︵刑法及び刑事訴訟法の部︶|ナチスの法制及び立法綱要︵刑法及び刑事訴訟法の部︶]]﹄、1936年。[[司法省 (日本)|司法省]]﹃[[司法資料]]﹄。</ref>、石川が1943年に出版した﹃'''マイン・カンプの研究'''﹄は、その名の通り、[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]﹃[[我が闘争]]﹄第一部の研究書であった。石川は自己の国家社会主義の正しさを信じ、敗戦後も一貫して国家社会主義を奉じた。 ==編纂・著書・翻訳==
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*『社會問題辞典』(新潮社、1925年)- 高畠素之著となっている。社会問題の辞典類では最初期のものである。
*『經濟學説大系』(而立社、安倍浩と共訳)- 著名な経済学説の抜粋集。高畠素之は殆んど訳していない。
*﹃社會哲學新學説大系﹄︵[[新潮社]]、北昤吉と編輯︶- 高畠門下を多数動員して編纂されたもの。著名な外国書の訳述。ただし短編の場合は全訳に近いことをしている。 *『マルクス思想叢書』(新潮社、高畠素之編輯)
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<!--翻訳書は完全でない可能性があります。国会図書館の目録などを参考にしてください。-->
*﹃資本論解説﹄︵売文社、1919年︶ - カウツキーの﹃カール・マルクスの経済学説﹄を翻訳したもの。三田書房︵1919年︶から同じものが、而立社︵1924年︶とアテネ書院︵1925年︶からその改訂版が、最後に改造社︵1927年︶から決定版が出版された。 [[File:
*『資本論』
*#[[大鐙閣]]︵第1巻、第2巻、第3巻。1920年~1922年︶ - ﹃[[s:Portal:マルクス全集︵1922年︶|マルクス全集]]﹄に収録。第1巻︵3冊︶、第2巻 *#[[而立社]](第二巻(2冊、全集の第七巻):1923年~1924年) -
*#[[新潮社]](1925年~1926年) - 大鐙閣・而立社の全面改訂版。大幅に訳文が変った。
*#[[改造社]]︵1927年~1928年︶ - 高畠素之翻訳﹃資本論﹄の決定版。戦前の定本でもあった。当初改造社の﹃マルクス。エンゲルス全集﹄の一部として企画が進行していたが、他社より廉価版の﹁資本論﹂の訳書が刊行される事になったため独立したものとして刊行された。全集の中には組み入れられなかったが、 *﹃社會主義社會學﹄︵三田書房、1920年︶ - [[アーサー・M・ルイス]]︵Arthur Morrow Lewis︶の﹃社会学への手引き﹄の訳述<ref>[https://en.wikisource.org/wiki/Author:Arthur_Morrow_Lewis アーサー・M・ルイス] - ウィキソース英語版。</ref>。大鐙閣︵1921年︶で同じものが出版され、﹃社会学講話﹄と改題してアテネ書院︵1925年︶から再版、最終的に改造社︵昭和二年︶からも出版された。 *『財産進化論』(大鐙閣、1921年) - [[ポール・ラファルグ]]の著書の翻訳。『財産の進化』と改題して新潮社(1925年)からも『新学説大系』の一冊として出た。
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*『唯物史觀の改造』(新潮社、1924年) - [[ツガン・バラノヴスキイ]](Tugan-Baranovsky)の著書『マルキシズムの学説的基礎』(部分)を訳述したもの。
*『社會學思想の人生的價値』(新潮社、1925年) - [[アルビオン・スモール]]の著書の訳述。『新学説大系』の一つ。
*『マルクスの余剰價値説』(実業之日本社、1925年) - 主として『資本論』中の剰余価値学説に関係する部分を抜粋し、他の学者の説を並置解説したもの。書名の余剰は高畠の訳語で他の訳者は剰余と
*『哲學の窮乏』(新潮社、1927年) - 『マルクス著作集』の一つ。現在は『哲学の貧困』と訳されているもの。独逸訳(オリジナルは仏蘭西語、カウツキーとベルンシュタインの訳)からの重訳。
==参考文献==
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** [http://awatasan.web.fc2.com/kansoku/kyuuban/index2c.html 高畠素之の部屋]
* [http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/ 歴史が眠る多磨霊園]
* [https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/490
* 『[https://dl.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWordFulltext=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%85%A8%E9%9B%86&featureCode=all&viewRestrictedList=0%7C2&fulltext=1&searchWord=%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%85%A8%E9%9B%86&sort1=5 マルクス全集]』- 国立国会図書館
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